「人工知能の力で、Apple Watchが糖尿病を“検知”する──医療の「常識」を変えるスタートアップの挑戦」の写真・リンク付きの記事はこちら

化学が進化したおかげで、いまでは血液や尿の検査によって糖尿病を診断できる。だがかつての医者たちは、自らの「舌」に頼るしかなかった。文字通り尿が甘いかどうかが、この病の確かな指標として長らく使われてきたのである。

そもそも「Diabetes Mellitus(糖尿病)」の「Mellitus」とは、「蜂蜜」という意味だ。体液に過剰な糖分が含まれているということは、代謝に異常が起きている。つまり、細胞がインシュリンをつくり出せなくなっているか、あるいはインシュリンに反応できなくなっていることを意味する。

だが、ある研究グループが10年ほど前、少々わかりにくい関連因子を発見する。糖尿病の合併症のひとつに神経障害があるが、心臓血管系ではこの障害の影響により心拍数が不規則になる場合がある、というものだ。

心拍数は、電気か光によって計測できる。つまり近い将来、ちくっと針を刺したり、尿の試験紙を差し出したりする代わりに、患者の手首に付けたガジェットのようなもので糖尿病の診断ができるようになるかもしれない。たった数世紀の間に、よくここまで変わったものだ。

2005年ころにさかのぼると、心拍モニターを使うのは優れたアスリートか重病人くらいしかいなかった。ところが現在、アメリカ人の5人に1人はこの装置をもっている。そこに着目したディープラーニング(深層学習)のある企業が、心拍数と糖尿病との関連を利用した新たな取り組みを始めた。

「時計」から「医療機器」への転身

ニューオーリンズで今年2月7日に開かれたアメリカ人工知能学会(AAAI)の年次会議で、スタートアップのCardiogramによる、ある発表が注目された。「Apple Watch」の心拍モニターと歩数計を正確な機械学習アルゴリズムと組み合わせることで、かなりの確率で糖尿病のリスクを予測できるという研究結果である。

アップルはしばらく前から、このウェアラブル端末の方針転換を考えてきた。それは個人の専属トレーナーから、かかりつけ医への“キャリアチェンジ”である。

昨年11月、アップルは医療保険大手のエトナと組み、医療費削減に向けた試験的事業の一環として、50万台を超えるApple Watchを無償提供した。さらに、脳卒中や心臓発作につながるリスクを示す不整脈を、Apple Watchがどのくらい正確に検出できるかを試すため、スタンフォード大学との共同研究にも乗り出している。

こうした動きのなかで最も新しい試みが、Cardiogramとカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)とのコラボレーションだ。Cardiogramには元グーグルのエンジニアが参画しており、UCSFは画期的な心臓病研究で知られている。

CardiogramはApple Watchだけでなく、Fitbitやガーミン、Android Wearといった同じようなセンサーを備えた機器に記録される心拍数データを活用するために、無料アプリを提供している。グーグルが音声をテキストに変換するのに用いるのと同種のニューラルネットワークを利用し、心拍数や歩数を解析するために使う。

これらのデータ単体では疾病の検出にはほとんど役に立たないが、だからといってセンサーに重大な欠陥があるわけではない。疾患を示すパターンを見分けるモデルを学習させるには識別データが必要だ。従って、糖尿病患者の心拍数に見られる特徴を知るためには、糖尿病患者の協力が必要となる。

心拍数データをニューラルネットワークが解析

ここでUCSFの知見が役に立つ。2013年、同校は健康に関する100万人分のデジタルデータを集めることを目的に、主要心疾患の研究プロジェクト「Health eHeart」を発足させた。今年1月中旬の時点で参加者は19万6,000人に達し、それぞれが既往症、家族の病歴、服用薬、血液検査結果などを提出する。参加者のうち約4万人は、その情報をCardiogramのアプリにも入れている。

「そこから指標を得ることができます」と、Cardiogramの創業者のひとりであるブランドン・バリンジャーは言う。彼はもともと、グーグルで言語認識ソフトウェア開発チームのリーダーを務めていた。「医療の場合、識別されて出てきた答えは生命の危険を示すことにもなります。インターネット企業がかかわっている取り組みを考えると、この症例数は極めて少ないと言えるでしょう」

そこで疾病を見つけ出すために、同社のニューラルネットワーク「DeepHeart」を訓練する必要が出てきた。そのための手法のひとつが「半教師あり学習」と呼ばれるもので、元々はアマゾンの製品レヴューなどのテキストデータに用いるために開発された方法である。

だがここでは文字列の代わりに、週に約4,000件もの心拍数の計測データを読み込ませる。この情報が素晴らしい数学の力によって、心拍数の変動値として集約される。次にこれらの値は、仕分けされた患者のデータにひも付けられ、そこで初めて実際の学習が始まる。DeepHeartはこの手法を使い、学習用データに含まれない患者のグループから、糖尿病患者を85パーセントの確率で見つけ出すことに成功した。

Cardiogramは以前も、これに劣らぬ成果を上げている。同社とUCSFは昨年、DeepHeartがApple Watchに記録された1週間分の個人データから、高血圧症、睡眠時無呼吸症、心房細動などを80〜90パーセントの精度で予測できることを示す研究結果を発表した。

では、Cardiogramのアルゴリズムが、血液中の糖分を直接計測せずとも精度の高い予測ができるのは、なぜだろうか?

その答えをはっきり知る人はいない。「糖尿病が心血管疾患であることは極めて明白ですが、生理学的に心拍数との明確な関連性があるとは言えません」と、Health eHeartの主任研究員のひとりで、2月7日に発表した論文の共著者でもあるマーク・プレッチャーは言う。

内在するパターンの裏にあるメカニズムがわからない状態で、データを基に機械学習アルゴリズムを発展させていくと、理由がわからないまま指標が得られる場合が多い。「正直、不安にはなります。これが糖尿病の兆候を検知しているのか、あるいは別の要素からくる作用なのか、プロジェクトチームで何度も議論を重ねてきました。ですが、結論としては何も出ていません」

AIの精度に対する不安

心臓外科医エリック・トポルは、こうした兆候を危険信号として受けとめている。彼はスクリプス研究所傘下のトランスレーショナルサイエンス研究所の所長として、国立衛生研究所(NHI)が1億ドルを投じて立ち上げた「高精度医療イニシアチヴ」のデジタルヘルス分野を率いている。

Cardiogramの研究についてトポルは、「ブラックボックス化されたアルゴリズムに、生物学のブラックボックス的な要素を結びつけたようなものです」と指摘する。「不確かで説得力にも欠けます。せいぜい仮説を生み出すのが精一杯ではないでしょうか」

その仮説とは、DeepHeartが糖尿病のシグナルを検出している“かもしれない”ということである。だが、何か違うものを検知している可能性もあるのだ。

Cardiogramのバリンジャーは、こうした指摘に即座に反論する。糖尿病のリスクが高まってきたことがウェアラブル端末でわかるなら、その人は病院に行って従来の方法で診断を受け、充分なケアを受けられるはず。それで扉が開かれるなら、ブラックボックスだろうと構わないではないか──というのが、彼の言い分だ。

とはいえ彼も、AIの精度を真に示すには予測の信憑性を検証する必要があることは認めている。糖尿病と診断されたことのない人にはスクリーニング検査を行い、追跡調査をすることで、実際に糖尿病を発病するかどうかを確かめるのである。こうした将来の研究のために積極的な投資を行なっていると、バリンジャーは言う。

検査が正確であれば、仕組みがわからないAIにもビジネスチャンスがあるとバリンジャーは考えている。Apple Watchなどの端末に使えるCardiogramのアプリは、現在のところ無料で提供されている。さらに同社は年内にも、糖尿病や心房細動、高血圧、睡眠時無呼吸症などの検査を受ける必要性をユーザーに助言できる機能を加える計画だ。

患者の行動を変えられるか

アメリカ食品医薬品局(FDA)の規制に従えば、このアプリが単独で診断を下すことは許されない。このため、いわば「友人の助言」のような位置づけになる。だが、これによって早期治療が可能になり、医療費が節約できると考えるなら、保険会社がこうした助言を保険適用項目にする可能性がないとは言えない。

現時点で得られるエヴィデンスを考えれば、まだまだ先は長い。むしろ、足りないと言うべきかもしれない。

「FDAは精度について知りたがるでしょうが、それを別にしても、ウェアラブル端末が本当に患者の将来を変えられるかどうかを示すデータはほぼ皆無といえます」と、シダーズ・サイナイ医療センターの胃腸専門医であるブレナン・シュピーゲルは言う。「技術を生み出すことが難しいのではありません。本当に難しいのは、その技術を使って患者の行動を変えさせること。これはコンピューターサイエンスではなく、行動社会科学なのです」

とはいえ、現時点でHealth eHeartやCaardiogramの研究から明確に言えることがあるとしたら、医療用の測定が可能なアプリが手に入るようになれば、人はそれを使いたがるということだ。問題は、本当に通知ひとつで、より健康な自分になれるのか、ということである。

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