世界的パズルゲーム「テトリス」の知られざる歴史とは?
「テトリス」は上から落ちてくるさまざまな形のブロックを積み重ね、横一列がそろうと列ごと消えて得点になる有名なパズルゲーム。誰もが一度はプレイしたことがあるはずのテトリスですが、これはなんとソビエト連邦(ソ連)で生まれたゲームで、そんなテトリスの知られざる歴史にスポットライトを当てたムービーがYouTubeで公開中です。
The Story of Tetris | Gaming Historian
母に引き取られたパジトノフ氏は、母の仕事の関係上さまざまな映画を見る機会に恵まれ、中でも「ジェームズ・ボンド」がお気に入りだったとのこと。
また、娯楽の少ないソ連の子どもたちにとってはペントミノというパズルゲームも数少ない遊びだったとのことで、当然パジトノフ氏もこれをプレイしていたそうです。ペントミノとは12個のブロックを枠の中で組み合わせるゲームで、非常に単純なパズルといえます。
アメリカとのロケット開発や宇宙開発競争の過程で、コンピューターエンジニアの育成を急務としていたソ連は、子どもたちに若いうちからコンピューターを学ばせるという方針を展開していました。飛行機に魅せられた17歳のパジトノフ氏も、モスクワの飛行研究所でコンピューターの勉強をすることになります。
研究所を出た後もパジトノフ氏はコンピュータープログラマーとしてキャリアを積み、ソ連では当時最先端の現場にいたとのこと。
パジトノフ氏は1つのデスクを3人で共有し、毎日規則正しい生活を送っていたそうですが、そのうち1人1つのコンピューターが支給されるようになります。支給されたコンピューターは今から見れば前時代的なもので、ディスプレイには文字しか表示できませんでしたが、それでも巨大なメインフレームを相手に仕事をしていたことを考えれば、非常に大きな進歩でした。
パジトノフ氏は音声録音ソフトなどの開発に携わっていたそうですが、当時のソ連のプログラマーたちは仕事が終わった後も個人的なサイドプロジェクトのためにコンピューターを使用するというケースが多くありました。そして、パジトノフ氏も個人的な理由で仕事の時間外にコンピューターを使用していたそうです。
ロシアのプログラマーたちが熱心に取り組んでいたサイドプロジェクトとは、コンピューターゲームの開発。海外のコンピューターゲームを再現しようと、彼らは仕事を終えてからの時間をトライ&エラーに費やしていたそうです。
多くのプログラマーがコピーゲームを作ろうと試行錯誤していた中、パジトノフ氏はオリジナルのゲーム開発を志し、同じくコンピュータープログラマーであるドミトリー・パバロフスキー氏とバジム・ジェラシモフ氏の3人でチームを組み、ゲームの開発にあたっていたとのこと。
彼らは日夜ブレインストーミングを交わし、新たなゲームのアイデアを出し合いました。パジトノフ氏たちはソ連の科学者であり、パッケージ版のソフトを売ることはできませんでしたが、それでもコンピューター上で動かせるゲームの開発に夢中だったといいます。
そんなときパジトノフ氏が思い出したのが、子どものころに遊んでいたペントミノ。パジトノフ氏はどうにかこれをコンピューターゲームにできないかと考えました。
パジトノフ氏はペントミノに使われる12個のブロックを7個まで減らし、どうにか最初のゲームを開発しました。
それは枠の中に7個のブロックを当てはめていくというもので、パジトノフ氏はこのゲームに「遺伝子工学」と名付けましたが、大きな問題が1つあったとのこと。
その問題というのは「つまらない」ということ。あまりにも単純明快すぎるゲーム性になってしまったので、これではプレイヤーが1度パズルを完成させたら、もう2度とプレイする気は起きないはずです。
パジトノフ氏は次に、枠を画面いっぱいに広げ、上からランダムにブロックを落としていくという工夫を凝らしました。するとやりがいのあるゲームにはなったものの、すぐに画面がいっぱいになってゲームが終了してしまったそうです。
そこでパジトノフ氏が思いついたのが、「ブロックが横一列にそろったら消える」という仕組み。これにより、原理的にはゲームを終了させることなく延々とプレイし続けることが可能になります。
パジトノフ氏はこうして完成させたゲームを試しにプレイしていたのですが、ここでも問題が発生します。
ゲームに夢中になるあまり、仕事が始まる時間になってもゲームをプレイし続け、他の職員に怒られてしまったのです。
このあまりにも強い中毒性を持ち、難しい説明もなしにプレイできる素晴らしいゲームに、パジトノフ氏は「テトリス」と名前を付けました。「テトリス」とはギリシャ語の「Tetra(数字の4)」とパジトノフ氏が好きなスポーツだった「Tennis(テニス)」を組み合わせた造語。
テトリスはソ連の科学者たちの間でカルト的に大流行しましたが、テトリスは時代遅れのソ連製コンピューターでしか作動しませんでした。そのため、パジトノフ氏は一部のコンピュータープログラマーたち以外もテトリスをプレイするようになるとは、全く予想していなかったとのこと。
しかし、一部のコンピュータープログラマー以外でも入手可能なIBM製コンピューターでも動くようになれば、もっとテトリスが普及するのではないかとパジトノフ氏は考えます。そこで仲間のジェラシモフ氏に、「IBM製コンピューターにテトリスを移植できないだろうか」と持ちかけました。
ジェラシモフ氏は苦心の末IBM製コンピューターでも動くプログラムを作成し、さらにブロックごとの色分け、ハイスコアの保持などより中毒性を増すギミックを搭載。
「これはいける」と考えたパジトノフ氏たちはソフトウェア販売に乗り出そうとしましたが、当時のソ連ではソフトウェア販売を行う人はほとんどおらず、ソ連のデータセンター内で作られたテトリスは、法的にはソ連の知的財産として登録されてしまいます。
結局パジトノフ氏たちは、ゲーム・フェアでハードウェアにコピーしたテトリスを、興味を持ってくれた人に配る程度のことしかできなかったとのこと。
そんな中、パジトノフ氏の友人で医師でもあるウラディミール・ポキューコ氏がテトリスのハードウェアを手に入れます。その圧倒的中毒性に魅せられたポキューコ氏はこれを同僚たちのためにコピー。
テトリスがあまりにも流行したため、「これは仕事に支障が出る」と判断したポキューコ氏はコピーを破棄。それでも何度も病院内でテトリスが流行し、その度にポキューコ氏はその中毒性に驚いたとのこと。何度破棄してもプレイしようとする人が後を絶たない魅力に、ポキューコ氏が「これは中毒性の実験に使えるのでは」と考えたほど。
そして1986年にはソ連中にテトリスが広がる結果となり、パジトノフ氏はこれによってお金を得ることはできなかったものの、非常に満足したそうです。
テトリスが西側諸国にも広まったのは、ハンガリーのソフトウェア企業「アンドロメダ・ソフトウェア」のオーナーだったロバート・シュタイン氏がテトリスを見いだしたことがきっかけ。
当時のハンガリーは西側諸国と東側諸国との交流地点となっており、ハンガリーのビジネスマンであったシュタイン氏は、ソ連の研究所であるゲームが大流行していることを知ります。
それがテトリス。シュタイン氏はゲーマーではなかったものの、テトリスを一度プレイするとその中毒性に驚き、「これは売れる」と確信したそうです。
テトリスのライセンスを得て、それをゲーム製作会社に売りつけて著作権料をゲットしようとしたシュタイン氏は、あの手この手でテトリスのライセンスを手に入れようとしました。しかし、当時のソ連は閉ざされた状態であり、交渉は難航したとのこと。
やっとの思いで開発者のパジトノフ氏と連絡を取ることができたシュタイン氏。連絡を受けたパジトノフ氏は、「これで夢にまで見たテトリスのハードウェア販売ができる!」と非常に喜びました。
パジトノフ氏は「Yes」の返事をシュタイン氏に送り、シュタイン氏は早速イギリスのミラーソフト社にテトリスの権利を売却。しかし、実際にシュタイン氏がパジトノフ氏から得たのは口約束のような「Yes」のみ。当時のソ連ではゲームのライセンス契約を交わした人物など存在せず、当然パジトノフ氏もゲームライセンスに関することには全く知識がありませんでした。
そのため、シュタイン氏は何度もソ連と連絡を取り契約書にサインをほしがったものの、明確なサインがない状態のままテトリスの権利は売却され、広まってしまったのです。
テトリスは「『鉄のカーテン』の向こう側から来たエキゾチックなゲーム」としてアメリカでも発売され、ロシア風の音楽をBGMに流行。
テトリスが西側の市場に出回り始めた1988年、シュタイン氏は「ELORG(ソ連外国貿易協会)」というソ連の機関から、「テトリスは現状違法なので、再度交渉したい」という連絡を受けてしまいます。
パジトノフ氏の側にライセンス契約や著作権に関する知識も意識もなかったことが、ここにきて問題をこじらせる結果となりました。
シュタイン氏は「パジトノフ氏からは承諾をもらっているし、ELORGという組織は知らなかった」と弁明しますが、ELORGとの交渉は平行線をたどります。
最終的には「すでにテトリスは大量に市場に出回ってしまっている」という点を考慮し、シュタイン氏に著作権を売り渡すという形で決着。
テトリスは大ブームを引き起こし、「プレイを覚えるのは数分だがついつい数時間にわたってプレイし続けてしまう」「アメリカ合衆国の生産性を落とす罠だ」などとその中毒性を賞賛するレビューが次々と発表されました。
しかし、シュタイン氏が一定の権利をELORGから得た後も、テトリスの権利はオリジナル・IBMの移植版・アーケード版・コンシューマー版と非常に細分化されていた上にELORGとの交渉が難しいため、非常に錯綜とした状態にありました。
そんな複雑な権利関係の中で、アメリカのゲーム会社テンゲンからライセンスを受けてアーケード版テトリスを販売していたセガは、テトリスのメガドライブ移植版を量産開始。ところが、実はテンゲンが所持していたライセンスではメガドライブ移植版の許諾は得られないことが判明し、急遽発売中止の憂き目に遭うといった自体も発生。
1989年、ついにテトリスのライセンスを巡ってアンドロメダ・ソフトウェアのシュタイン氏、任天堂のハンク・ロジャース氏、イギリス企業ミラーソフト社の御曹司ケビン・マックスウェル氏ら3名がそれぞれモスクワ入り。ELORGとの直接交渉が始まります。
任天堂のロジャース氏はELORG本部に入ったとき、自分が全く歓迎されていない雰囲気を感じ取ったとのこと。
ELORGのライセンス責任者ニコライ・ベリコフ氏は訪問を受け入れ、ロジャース氏はベリコフ氏との面会を果たします。
ロジャース氏が手渡したのはすでに販売が開始されていたテトリスのファミコンカートリッジでしたが、ベリコフ氏はこれまでにコンソール版のライセンスを譲渡したことはありませんでした。「なぜこんなものがある?」とベリコフ氏はこれにかみつきましたが、ロジャース氏はテトリスの権利関係が非常に錯綜していることを説明。
ELORG→アンドロメダ・ソフトウェア→イギリスのミラーソフト社→アメリカのテンゲン→バレットプルーフ・ソフトウェアという風にライセンスが次々と受け渡される状態にあり、大本のELORGに話すべきだと判断したことをベリコフ氏に伝えます。
ベリコフ氏はテンゲンという聞いたことも見たこともない社名が出てきたことに困惑。そもそもELORGとしてはアンドロメダ・ソフトウェアにコンピューターゲームとしての権利を売っただけであり、テレビゲームの販売に関しては全く知らない話でした。
翌日、ロジャース氏は再びベリコフ氏とのミーティングを行い、その場にはベリコフ氏らELORGのメンバーのほか、開発者のパジトノフ氏も同席。
ロジャース氏は任天堂のこともファミコンのことも知らないELORGのメンバーに、「ゲームボーイ版を販売したいこと」および「任天堂に権利を許諾すればどれほどの見返りが想定できるのか」を伝えます。相当の利益が見込めると判断したベリコフ氏は、任天堂にテトリスの権利を許諾する方向に傾きます。
さらにロジャース氏とテトリス開発者のパジトノフ氏は、ミーティングが終わった後も話し続けて意気投合。モスクワでウォッカを飲みながら、テトリスの展望についてさまざまな会話を交わしたとのこと。
アンドロメダ・ソフトウェアのシュタイン氏は最初期の交渉における不備を突かれ、交渉は難航。
ミラーソフト社は社長のロバート・マックスウェル氏がロシア政府とのコネクションを持っていることもあり、交渉に自信を見せていましたが、ELORGに無断でテレビゲーム版を販売したことをとがめられます。
最終的に巨額のライセンス契約を提示した任天堂が、ゲームボーイ版の販売権利を獲得しました。
さらに家庭用ゲーム機に関するライセンスも任天堂に許諾することを決定し、ミラーソフト社とシュタイン氏に通知。
シュタイン氏は怒り狂い、「任天堂とロシアにだまされた」と語りましたが、辛うじてアーケード版とコンピューター版のテトリスに関しては権利を保持しています。
ミラーソフト社はロシア政府とのコネクションを利用してベリコフ氏に圧力をかけますが、ベリコフ氏は任天堂がもたらす利益がミラーソフト社のもたらす利益より上回ると確信していました。
頼みのゴルバチョフもソ連崩壊の危機にあってそれどころではありません。
任天堂は1989年夏に、NES(スーパーファミコン)版の発売を決定。同時にロシアから受けた権利の契約書を証拠に「ELORGはこれまで誰にもビデオゲーム版の販売を許していない」としてテンゲンをテトリスの著作権侵害で訴え、勝利を収めました。
テトリスの権利を手中に収めた任天堂は、テトリス同梱のゲームボーイを発売し、約3500万台ものテトリス同梱ゲームボーイを販売。国と企業が入り交じった熾烈なテトリスの権利争いに勝利した見返りは、相応に大きなものだったようです。
しかし、権利に負けたとはいえ他のゲーム会社もテトリスによって莫大な利益を得たのは同じです。
開発者のパジトノフ氏をのぞいては。
パジトノフ氏は現在、ロジャース氏と共同でザ・テトリス・カンパニーを設立。これによってようやく開発者のパジトノフ氏はテトリスによって利益を得られるようになりました。
ELORGは民間企業となった現在も、ベリコフ氏のもとテトリスによって上げられる莫大な収益を受け取り続けているとのこと。
誰もがプレイしたことのあるテトリスですが、その背景には実に複雑な国と企業・人間の戦いがあったようです。