娘を救うためには残された10年を使って人工心臓を作るしかなかった(写真は再現映像、フジテレビ提供)

過去30年間で約12万人もの命を救った医療器具。「バルーンカテーテル」と呼ばれるこの器具を日本で初めて開発したのは、医学分野ではまったくの素人だった1組の夫婦だ。
2月1日(木)よる19時57分から放送される「奇跡体験!アンビリバボー」(フジテレビ系)に登場する彼らが、前人未到の取り組みに挑んだ背景には、「娘の命を救いたい」という切なる願いがあった。その知られざる秘話をお届けする。

今から40年前(1978年)。現在は東海メディカルプロダクツ会長を務める筒井宣政(のぶまさ)さんは、当時、愛知県でプラスチック樹脂の加工製品を作る、小さな町工場を営んでいた。


現在は東海メディカルプロダクツ会長の筒井宣政さん(写真:フジテレビ提供)

3人の娘たちに囲まれた幸せな家族。だが、筒井さんと妻・陽子さんには唯一、不安の種があった。次女の佳美さんには、生まれつき心臓に疾患があったのだ。

病名は三尖弁閉鎖症(さんせんべんへいさしょう)。心臓が正常に血液を流せず、やがては他の臓器にも異常を来し、さまざまな合併症を引き起こす難病だった。治療法はなく、医師から告げられたのは、余命10年という診断だった。

筒井夫婦は、娘の手術代として貯めていた2000万円を寄付しよう思い立つ。「心臓病の研究が進めば、いずれは病気を治せる日が来るかもしれない」という願いからだった。

医師からの意外な提案

そこで佳美さんの主治医である大学病院の医師に相談した。すると、その医師から意外な提案をされる。

「人工心臓の研究をしてみては?」

もちろん2人は医学に関してはまったくの素人。しかし、それでも娘に残された余命10年という時間の中で自分たちが研究を続ければ、もしかしたら娘を救える人工心臓を作れるかもしれない。こうして夫婦は一縷(いちる)の望みにかけて、人工心臓を作るという壮大な挑戦に打って出た。

宣政さんは工場の一角に自作の研究室を作り、仕事の傍ら人工心臓の開発を始めた。自宅のある愛知から、東京の大学病院へ通っては、専門医から知識を教わる日々。そして3年後。ようやく試作段階までこぎつけたのだが、そこには想像以上のハードルがあった。


佳美さんは9歳の時、三尖弁閉鎖症という難病により余命10年と宣告された(写真:フジテレビ提供)

人工心臓の元となる金型をひとつ作るにも、掛かる費用は200万円以上。貯めていた2000万円もあっという間に底をついた。しかも完成するメドも立たない製品の開発に融資する銀行など、どこにもなかった。

そこで宣政さんは、新たに医療器具の製造会社を立ち上げ、公的資金の援助を受けながら、開発を続ける。

それでも、試作品は失敗続き。一向にうまくいかない。そんな中で、唯一の救いは佳美さんが高校に進学できたことだった。余命10年と宣告されてから、すでに8年の月日が流れていた。

数十億円にも上る費用が必要なことが判明


国産初のバルーンカテーテルを開発した筒井宣政さんの妻、陽子さん。「奇跡体験!アンビリバボー」(フジテレビ系)は2月1日(木)よる19時57分から放送です(写真:フジテレビ提供)

翌年、ようやく試作品を使った動物実験にまでこぎ着けるが、ここでも問題が生じた。人工心臓のような新しい医療機器を開発する場合、厚生省(現厚生労働省)の認可を得て、人に対して使用する前に、少なくとも100頭の動物実験を行わなければならない。施設の維持費や獣医や医師の人件費など、その費用は数十億円にも上ることが判明したのだ。

それだけではない。佳美さんの病状も悪化の一途をたどっていた。この頃には、たとえ人工心臓が完成したとしても、もはや完治は不可能なほど、深刻な事態に陥っていた。「人工心臓の開発を断念する」。それは、娘の命を救うという夢をあきらめることを意味していた。

しかし、宣政さんはそのことを娘に伝えられずにいた。

そんな時だった。

佳美さんは自らの運命を悟ったかのように、父にこう告げた。

「これからはその知識を、自分と同じように病気で苦しんでいる人のために使って」

この後、娘のために続けてきた研究が思わぬ形で、新たな道を切り開くことになる。

娘を救いたい一心で続けてきた人工心臓の開発は断念せざるをえなくなった。そんなある日、筒井さんは病院でバルーンカテーテルの事故が多いことを聞く。


筒井さんが開発したバルーンカテーテルはこれまで約12万人もの命を救っている(写真:フジテレビ提供)

カテーテルとはプラスチックやゴム、金属などで作られた細い管状の医療器具だ。体腔(胸腔、腹腔)や体内の器官(胃、腸、尿道、膀胱、尿管、心臓、血管)などに挿入し、各種の検査や治療などに用いる。バルーンカテーテルはその名のとおり、管の先に細長い風船がついている医療器具で、ガスによって風船部分を拡張・収縮させ、弱った心臓の働きを助ける。

「病気で苦しむ人を助けてほしい」という娘の言葉を胸に

当時、バルーンカテーテルは輸入品しかなく、欧米人より体の小さい日本人もそれを使うしかなく、事故が多かった。

「病気で苦しむ人を助けてほしい」という娘の言葉を胸に、宣政さんは日本初の国産バルーンカテーテルを作ることを目指し、開発を始めた。

その後、高校を卒業した佳美さんが、宣政さんの会社に入社した。この時、彼女は19歳。命の期限と言われた10年目を迎えていた。

一方、バルーンカテーテルの製作はなかなかうまく行かず、試作品がようやく完成したのは、開発を始めてから1年半後だった。

本当の戦いはここからだった。製品化には、耐久試験や動物実験をパスしなければならない。

医療機関の協力も必要だった。ところが、協力を依頼された大学病院の教授は「実績がない」との理由で、一度も試そうとしなかった。それだけではない。宣政さんは研究室への出入りを禁止されてしまった。

そんな時、佳美さんが会社で倒れてしまう。医師から宣告された10年が過ぎ、彼女の体はいよいよ悲鳴を上げ始めていた。


当時19歳だった佳美さん。持病を抱えながらも勉強を続けていた。「奇跡体験!アンビリバボー」(フジテレビ系)は2月1日(木)よる19時57分から放送です(写真:フジテレビ提供)

それでも佳美さんは、カテーテルを作る際に必要な、衛生管理者の資格を取るべく勉強を続けた。そして愛娘の前向きに生きようとする姿が、やがて、父にある行動を取らせることになる。

人工心臓の断念から2年が過ぎた1988年12月。宣政さんが作ったバルーンカテーテルは、ついに厚生省の認可を取得した。そして実際に使用され、患者の命を救ったのだ。

これをきっかけに、日本初の国産バルーンカテーテルは、全国の医療施設へと広がった。医療の素人が、不可能だと言われた挑戦に打ち克った瞬間だった。

製品化から2年。1500本ものバルーンカテーテルが売れたのを見届けるように、佳美さんは、静かに天国へ旅立った。23歳だった。