野球の才能は別の世界で通用しない――司法書士 桧山泰浩(1985年、近鉄バファローズ1位)(筆者撮影)

11月1日、2017年度の司法書士試験最終合格発表があった。出願者数1万8831人のうち最終合格者数わずか629人。合格率3.3%の難関資格だ。その狭き門を突破し20年以上司法書士として活躍する元プロ野球選手、桧山泰浩氏に『敗者復活 地獄をみたドラフト1位、第二の人生』の中で話を聞いた。

一軍登板なしで引退した清原の「外れ1位」

いまから30年以上前のドラフト会議で、福岡県で有数の進学校である東筑高校のエースが1位指名されたことをどれだけの人が覚えているだろうか。1985年ドラフト会議の目玉はPL学園(大阪)の清原和博。清原と相思相愛と言われた読売ジャイアンツが同じPL学園の桑田真澄を1位指名したことで大きなニュースになった年だ。その年、近鉄バファローズに1位指名されたのが、桧山泰浩だった。

1985年春に甲子園出場を果たした桧山は、将来を嘱望された大型投手だった。1位指名競合のすえ、清原を獲得できなかった近鉄の「外れ1位」だったことが期待の大きさを表している。しかし、バファローズに6年間在籍しながら、一度も一軍マウンドに上がることなく、ユニフォームを脱いだ。

福岡市の大濠公園のすぐそばに「桧山泰浩事務所」はある。ドラフト指名から32年、引退してから26年――元プロ野球選手としては意外すぎるセカンドキャリアを歩んでいた。合格率3%ほどと言われる難関の試験を突破し、司法書士として事務所を構えて20年が経つ。

清原はプロ1年目からレギュラーの座をつかみ、打率3割0分4厘、31本塁打、78打点をマーク。その後、ライオンズの黄金期を支える主砲として不動の地位を獲得していく。一方の桧山はずっと二軍暮らしが続いた。

「私には、ほかの選手のようなガムシャラさがありませんでした。野球に対する情熱が足りなかったのかもしれない。なんとしてでもライバルを蹴落として、一軍にはい上がってやろうという気持ちがなかったですね」と桧山は振り返る。

ドラフト1位にかかるプレッシャーもまた大きかった。「自分の野球の能力を考えたら、プロでも『やれる』と思いました。すぐには無理でも何年か後には一軍でプレーできると。でも、実際には、投げては打たれ、投げては打たれの繰り返しです。そこで課題を見つけて練習に打ち込めばよかったんでしょうが、野球に対して、努力をすることに対して『なんか、嫌やな』という気持ちになってしまいました」(桧山)。


桧山 泰浩(ひやま やすひろ)/1967年福岡県生まれ。1992年、韓国のサンバンウル・レイダーズで現役引退。29歳の時に司法書士試験に合格した(筆者撮影)

高校を卒業した新人がすぐに通用するはずがない。誰もが壁にぶつかったあとにもがき苦しみ、はい上がっていくのだ。ところが、桧山は最後まで浮上のきっかけをつかむことができなかった。

プロ3年目の1988年に仰木彬が監督に就任。1986年ドラフト1位の阿波野秀幸を中心にリーグ優勝を狙える投手陣が構築されつつあった。桧山は完全に蚊帳の外にいたという。

「いくら頑張っても、人間は180度変われるものじゃない。そう悟っておりました。プロでの4年間が終わって、もう体も鍛えようがない。技術が上がるとも思えない」

練習後に飲み歩き、遊びほうける日々

5年目のシーズンも、6年目のシーズンも代わり映えしなかった。何かを変えようという意思もなく、これまでと同じ日々をただ過ごした。「私自身はもうやる気は全然ありません。毎日毎日、遊びほうけ、飲みまわっていました。練習にも身が入りませんでした。ほかの人には迷惑をかけないようにして、『あとは死を待つだけ』でした」(桧山)。

その後、桧山は韓国プロ野球に移籍したものの、右ひじを故障し、ユニフォームを脱いだ。選手時代に稼いだ年俸は遊興費で消えていた。もう遊んでいる暇はない。しかし、次の仕事が簡単に決まるはずがなかった。

「プロ野球選手は、おカネは稼いでいるけど、社会人ではありません。言ってみれば、子どもの延長みたいなもの。野球をやめて日本に帰ってきても、自分には何もない。すぐに知り合いから電話がかかってきたので、そこで働かせてもらいました。大阪で2年間、衣料品関係の会社に勤めました」と桧山は話す。

生きがいも楽しさも仕事には求めなかった。社会勉強のつもりで、2年間黙って働いた。そうするうちにやっと「次」を考えられるようになった。

「プロ野球選手の引退後の仕事というと、飲食業が多いけど、自分には合いそうもない。180度違う世界はないかと考えたときに、資格士業が浮かびました。いろいろなものがありますが、飯を食えないと意味がない。『食える資格』というのは、どれも難関です。

検討してみると、司法書士、弁護士、税理士、公認会計士が残りました。目指すべきは、この4つのうちのどれかだと思ったのですが、私は大学に行ってないんです。司法書士以外は大学の卒業資格がいる。正確には、教養課程を修了すればいいんですが、いまから大学に入る時間がもったいない。でも、司法書士なら、大学に行かなくても取れる」(桧山)。

はじめは、司法書士の勉強方法、傾向も対策もわからなかった。「自分で勉強するようになって、やっとどんな仕事かがわかりました。好きとか嫌いとか言える立場ではないから、スムーズに入れました。民事訴訟をしたり、登記関係をしたり、『こんな仕事もあるんか』というのが第一印象です」(桧山)。

司法書士試験の合格率は3%ほどだと言われている。桧山は2度目の挑戦で合格したが、働きながらの受験勉強は苦難の道だったことだろう。「みなさんにそう言われるんですが、そうではありません。私には野球界での苦労や挫折がありましたから、それに比べたら受験勉強なんか、屁みたいなもんでしたよ」と桧山は振り返った。

勉強はやればやるだけ結果が出る

司法書士の受験勉強は、ゼロからのスタート。競い合う相手もいない。ひたすら自分との勝負だ。

「自分が勉強すれば、1+1が2になる。2+1は3になりますよね。絶対にマイナスになることはありません。野球の場合は、1+1が2になるとは限らない。5になる可能性もあるけど、マイナスになることもある。いくらピッチャーがいいボールを投げても、バッターに打たれたらマイナスです。

少なくとも、私の野球人生はそんなことばかり。でも、勉強は、やればやるだけ結果が出ます。すぐに加点法だと気づきました」(桧山)

幸いなことに、桧山には学ぶための基礎があり、学習の方法も知っていた。中学時代に偏差値70だったという頭脳がここで生きたのだ。

「野球に限らず、スポーツの厳しさからすれば、受験勉強の大変さはどうってことはありません。私自身、試験勉強の経験がありますから、コツのようなものもわかるし、プレッシャーもありません。やればやるだけ実力がつくんだから。本当に受験勉強の苦労はありませんでした。野球界のほうが厳しかった。体力的にも精神的にも」(桧山)

知識がつけば面白さが増えていく。はじめの頃は薄かった仕事への興味もまた増した。

「私には合っていたんでしょう。勉強を始めてからは、ある意味、トントン拍子でした。この資格を取ってもお客さんが来なければ商売になりませんが、おかげさまで1年目から予想以上によかったですよ。29歳で合格したんですが、同世代のサラリーマンよりも収入はあったんじゃないでしょうか」と桧山は言う。

1997年に開業し、現在に至る。「開業してから、苦労という苦労はありません。うまくいった理由は何かわかりませんね。結果的にそうなっただけで。この仕事は紹介によって成り立っているので、プロ野球選手だったことも役に立っているでしょう。でも、もう誰にも野球選手だったと思われません。『ご出身は九州大学ですか?』とよく聞かれます(笑)」(桧山)。

野球の世界だけで生きられる人間などほとんどいない。そのときに頼りになるのは何か。桧山の場合は、学力であり、試験勉強の経験だった。

「そもそも、日本の高校球児が勉強をしないということがいちばんの問題じゃないでしょうか。野球の強い野球学校に入ったら、勉強はそっちのけで野球ばかり。学生の頃に勉強したことがないから、自信がないんですよ。だから、野球界にしがみつく。制度の問題だと思います。高校生にはちゃんと勉強させないと」(桧山)。

現役引退後にチームに残れるのはひと握り

全国には野球部のある高校が4000校近くある。そのなかで甲子園に出られるのは、多くても49校だ。野球の実績だけで進学することも、就職先を探すことも簡単ではない。なのに、野球優先の生活を送る選手は数え切れないほどいる。「勉強しなさすぎです。ガリ勉をしろと言っているわけないですよ。普通の学生くらいの勉強はさせないと。野球の練習が授業だという学校もあると聞きます。そういう高校には勝ち上がってほしくない」(桧山)。


現役引退後に監督やコーチとしてチームに残れるのはほんのひと握りだ。

「プロ野球経験者のほとんどは、いずれ野球とは別の世界に行かないといけない。そうなることは頭のなかではわかっていても、現実は見たくない。

勉強のべの字も知らないから、自信が持てないんです。プロ野球で実績を残した選手でもそうなんですから、私みたいに活躍できなかった人間はしっかりと自分で考えないといけない。将来を約束された人間なんかいませんから」(桧山)。

力の衰えを自覚した選手も、能力の限界を悟った人間も、1年でも長くユニフォームを着たいと思うもの。だが、その執着が未来への一歩を遅らせることにもなる。「早いほうがいいんです。早く自分で見切りをつける勇気も大事なんですよ。球団も、ダメだと思う選手は、クビにしてやったほうがいい。それが親切心です」と最後に桧山は語った。

1つのことに打ち込むことは尊い。その経験を通じて得るものもたくさんある。だが、もっと広い視野で自分を見つめることが必要なのではないか。思いだけでは世間を渡ることはできない。才能がなければ知恵をつけろ、知識を増やせ――元プロ野球選手として異色のセカンドキャリアを進む桧山はそのことを教えてくれる。

(文中敬称略)