歴史無視の「江戸ロマン」で築地を殺すな

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市場移転問題で注目を集める「築地ブランド」。そのイメージは「魚河岸」と「江戸」に閉じ込められつつある。だが、かつて築地は開国と文明開化を体現する街だった。銀座のおしゃれなイメージも築地に由来するものだ。そうした歴史を無視して、「観光客向け江戸ロマン」に浸れば、結局街を殺すことになる。宗教社会学者の岡本亮輔氏が警鐘を鳴らす――。

■市場移転をめぐる「半端」な結論

築地の雰囲気はターレが作り出している。「仕事が忙しい」を具現化したような乗り物だ。

家業の手伝いで小学生の頃から築地市場に出入りしていた。トラックは無理でも、ターレは扱えるような気がして運転台に上がりこみ、これ以上ないほど怒られた記憶がある。

鮮魚店が市場で買いつけた魚をトラックに積み込み、それを銀座・日本橋・上野・浅草の百貨店の店舗に搬入するのを手伝う。開店前までに運び込むため、10時前には一段落する。トラックで中央通りと昭和通りを走って築地から浅草に至るまでの間、現在の観光ガイドがPRするような「江戸」の風情を感じることはまったくない。

「市場は豊洲に移転するが、築地のブランドも活かす」。中央卸売市場の移転をめぐり、半端な結論が出された。

築地から豊洲への移転は、古い東京から新しい東京への移動のようにも映るかもしれない。明暦の大火(1657年)をきっかけに造られた築地から、関東大震災(1923年)の瓦礫処理で造られた豊洲へ移転するのだから、そういう見方も可能だろう。しかも、豊洲の新施設は流通・電力・温度管理といった機能面で築地を大きくしのぐ。

しかし、築地を古い東京として、安易な江戸懐古趣味に閉じ込めてしまうのはもったいない。築地の場所の記憶を少し振り返ってみても良いだろう。

■100年前にも起こっていた魚河岸移転問題

およそ100年前も、魚河岸は移転問題で揺れていた。

かつて魚河岸は現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目あたりに存在した。その歴史は古く、徳川家康が入府の際、摂津国西成郡佃村の漁夫を移住させ、魚河岸を開設させたという。その後、日本橋魚河岸は江戸の発展と共に拡大してゆく。

1902年頃、この歴史ある魚河岸が東京市の市区改正の都合で箱崎に移転する案が持ち上がる。現在と同じように移転派と移転反対派が対立し、業者・地元民・東京市・警視庁などを巻き込み、論争は20年以上も続いた。

当初は移転反対派が優勢だった。300年以上も同地で商売をしてきたという愛着と誇りが魚河岸の人々にはあった。だが、10年ほどたつと様子が変わってくる。移転候補地に芝浦が浮上し、賃料の安さや敷地の広さなど、移転にともなうメリットが明らかになってきたのだ。

さらに大きかったのが1922年10月のコレラ発生だ。

それまで日本橋魚河岸では、疫病流行の際も病人を出したことがなく、魚の安全性を強調してきた。しかし、この時は病人が出てしまい、一時閉鎖に追い込まれた。

翌月、東京市計画局長をはじめとする東京市幹部・警視総監・市議会議員などが芝浦移転を前提に魚河岸を視察した。そして、魚がじかに土の上に置かれていることや、建物が築40年を超え、しかも市場と住宅が混在していることが批判された。要するに、現在と同じように、衛生上・機能上の問題点が指摘されたのである。

そして翌年、移転は一気に決定する。関東大震災の発生だ。

作家・田山花袋は日本橋魚河岸で被災した女性の語りを書き留めている。彼女は火災から逃れるため、魚を運ぶエンジン付きの舟に70〜80人で乗り込んだ。

それから、舟は川の中を行くんですけれど、両側が火で、それがあおるように落ちかかって来るんですから、何のことはない、火の子の降る中を通って行くというようなものでした。ですから、あとでしらべて見た時には、七、八十人も乗ったのが、あっちで落ち、此方でおちして、終には四十人ぐらいになってしまいましたよ(田山花袋『東京震災記』)

こうして日本橋魚河岸は壊滅的な被害を受け、芝浦移転を余儀なくされた。鮭・鯖・鱒くらいしかなかったが、震災から3週間後には芝浦で商いが再開された。

しかし、数カ月もすると芝浦の敷地が手狭で、中心街からも遠いことが問題になった。その結果、急遽、移転したのが築地であった。

■銀座のハイカラ文化は築地から運ばれた

市場が移ってくる前、築地はどのような場所だったのだろうか。

こんな風に今の銀座界隈その時分の「煉瓦」辺が、他の場所よりも早く泰西文明に接したというわけは、西洋の文明が先ず横浜へ入って来る、するとそれは新橋へ運ばれて築地の居留地へ来る。その関係から築地と新橋にほど近い「煉瓦」は自然と他の場所よりもハイカラな所となったのでありましょう。(淡島寒月「銀座は昔からハイカラな所」1921年)

築地は開国と文明開化を体現する街であり、現在の銀座のおしゃれなイメージも、実は隣の築地に由来する。

1858年、日米修好通商条約が結ばれると、取り決めで各地に外国人居留地が設置された。東京は「開市場」とされ、明治維新をはさみ、1869年に築地に外国人居留地が作られた。現在の湊(みなと)から明石町のあたりである。

横浜居留地との競合で、事前の予想ほどには商社は集まらなかったが、代わりに宣教師・学者・医師などが居を定め、欧米文化に触れられる最先端の街として築地は発展したのである。

例えば、多くのキリスト教系の名門校は築地で創始されている。

居留地設置の翌1870年、ジュリア・カロザースがA六番女学校を開校した。築地でもほぼ最初の洋館で見物人が絶えず、特にクリスマス行事の際には多くの人が集まった。同校が他のミッションスクールと合同し、最終的に櫻井女学校と合同して麹町にできたのが女子御三家のひとつ、女子学院である。

■ミッション系大学が多く生まれた理由

そして、ジュリアの夫クリストファーの英学塾が発展したのが築地大学校だ。1885年に刊行された下村泰大(編)『東京留学独案内』を見ると、「読方、書法、英語会話、算術代数(二次方程式まで)、幾何学、政事地理、天然地理」の入学試験が課されている。明治初期の頂点校であったことをうかがわせる試験内容だ。築地大学校はその後、ほかの神学校などと合併を繰り返し、明治学院へと発展した。

また、白い髭をたくわえたアメリカ人が黒服に身を包み、雨の日も風の日も夕方になると築地を散歩する姿も見られた。立教学校を創設したチャニング・ウィリアムズである。同校は聖書と英学の教育を行い、明治期には特に外交官を多く輩出した。

ウィリアムズは自分の名前が後世に残ることを嫌い、早くから遺書をしたため、自身の日記や説教メモなどを焼却するよう指示している。写真撮影も極端に嫌ったため、信者の中にはウィリアムズが落とした髭を保存する者までいたという。1913年に日本聖公会有志が米国リッチモンドの墓地に捧げた追慕碑には「道を伝えて己を伝えず」と刻まれた。立教の池袋への移転は関東大震災で築地の校舎を失ってからのことだ。

聖路加国際病院も、聖ルカという名が冠されていることから分かる通り、居留地で宣教師が始めた健康社築地病院が元になっている。

開国と共に流れ込んだ欧米文化に加え、もうひとつ、築地の磁場を決定づけていたものがある。海軍の存在だ。

幕末、幕府が近代的な戦闘訓練のために築地に講武所を置き、それが維新以後も引き継がれた。旧尾張藩蔵屋敷が海軍本省となり、芸州藩屋敷の跡に海軍兵学校が作られた。ちなみに、銀座のみゆき通りは、明治天皇が兵学校を訪れた時に通ったことからその名が付けられた。現在の国立がん研究センター中央病院は海軍軍医学校があった場所である。そして、関東大震災後、市場が移設されたのも海軍施設の焼け跡だったのである。

戦前、築地の料亭で働いていた女性の語りがある。戦後に疎開先から戻り、勧められて赤坂に自分の店を出したのだが、当初は「都落ち」のように思ったという。「海軍の築地」に対し、「陸軍の赤坂」はなんとも野暮ったく感じられたのだ。彼女の体感では、赤坂の格が現在のように上がったのは東京オリンピックの頃からである。

■築地の先鋭化した「地域」意識

オードリーの若林正恭さんは、幼少期を入船や明石町で過ごした。築地市場から本願寺をはさんですぐの場所で、まさに居留地があったあたりだ。しかし、「築地出身です」と言うと、築地市場の人から「入船や明石町は築地ではない」と言われたことがあるという。

数百メートル単位の地域認識は、地方や郊外にはない東京の特徴だ。信号ひとつ渡るだけで異なる帰属意識地域がある。だが築地の場合、それに加えて、日本橋由来の魚河岸の記憶と居留地由来の開化の記憶が競合し、より先鋭化した地域認識が生み出された。そして、江戸ノスタルジーの下で、前者が強調され、後者は住人たちにも忘却されつつあるのだ。

「市場は豊洲に移転するが、築地のブランドも大切にする」――いったい何が築地のブランドとして想像されているのかはわからない。「食のテーマパーク」といった言葉が聞こえてくるので、「築地=魚河岸」のイメージが中心に据えられ、お台場・大江戸温泉物語のフードコートを拡大したようなものになってしまうかもしれない。

江戸以来、世界有数の大都市として発展し続けてきたからこそ、築地に限らず、東京の街はどこも多様な記憶と資源を有している。だが、街をひとつのイメージに集約するのは、こうした多様性を失わせてしまう。

江戸は、現在から見て時間的に遠いがゆえに甘美に見える。しかし、近過去を無視して「観光客向け江戸ロマン」に浸るのは、結局、街を殺すことにほかならないのである。

(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔)