同じ九州女からみる「#九州で女性として生きること」

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生まれも育ちも九州。先祖さかのぼっても父母両方、どうひっくりかえしても九州人しか出てこない生粋の九州女としてこれまで生きてきましたが(しかも旧家の長女)、ついこの頃そんな自分にも重なる「#九州で女性として生きること」というハッシュタグが、Twitterで話題となっていました。

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投稿しているのは、いずれも九州出身とされる女性達の声。
子供の頃に祖父母や周辺に言われた衝撃の言葉として、次のようなことが語られていました。

・女性は殴られて当然
・女性に学は必要なし
・男性は上座敷、女子供は下座敷(もしくは台所)
・男性が寝っ転がっているとまたいではだめ

……など。

ここで大声をあげて「ソンナコトハナイデスヨー」と全否定したいところですが、実はこれ。確かに私もいくつか覚えのあるものがあります。

■九州女の隠れた気質「やられたら全力でやりかえす」

まず否定だけ先にしておきたいのが「女性は殴られて当然」「女性に学は必要はなし」。
これはちょっと昔の考え。確かに私の母世代ぐらいまでは、この考えがあるにはあったようです。

一部の家庭ではこの頃まで残っていた可能性は考えられますが、九州でも多くの家庭ではこの考えは早くから否定されています。そのため「女性は殴られて当然」「女性に学は必要なし」ということが未だ平然とまかり通っている地域ではありません。今ネットではこの話題だけ切り取られ「九州の闇深すぎ〜」と言われていますが、このご時世当たり前なわけありません。

それに、実際にそういう気風が残っている家庭については、それは地域ではなく「その家庭それぞれの問題」に思えるのです。例えば暴力については、関東でも九州でもDV夫はどこにでもいますし、どの時代にもいるはずです。それを「九州だから」と理由づけるのは違う気がします。

そして学については、自分らが学ぶことができなかったからこそ、孫や娘世代には「必ず学をつけさせよう」。そう考える祖母、母親は少なくない地域に私は思えます。 私の同級生の場合だと、家庭の経済事情は別にして、女性だからを理由に進学を妨げられたということはあまり聞いたことがありません。
唯一反対されていたのは「県外への進学」。この点のみです。それは世間の親御さんの心情と同じで、「可愛い娘を手のとどかないところに出したくない」が理由。
決して、女性だから進学を否定する理由ではありませんした。

ちなみに筆者は、父母の夫婦喧嘩で母が父に殴られているのを見たことがあります。ただ、それは夫婦喧嘩のエキサイティングバージョン。母は母で殴られたら、皿を投げ返していたので、全員が全員やられっぱなし。という訳ではないのです。と言うか、むしろ本気で母が切れるとそれこそ面倒くさかったです。

家庭次第では母がぐっと堪えて殴られっぱなし。ということはあるかもしれません。でも人によっては「やられたら全力でやりかえす」これもまた、九州女の隠れた強さの一つ。あ、ちなみにその時に力で返さずとも、後で別の角度からじわじわと真綿で首を絞めるよう仕返しする人もいます。

■九州の旧家あるある

以上が否定したいバージョン。で、ここからは肯定です。
ただ肯定するからと言って、全てが全ての九州家庭にあてはまるとは限りません。

あくまで「旧家の長女」として生まれた筆者目線でみた「あるある」です。

▼男をまたいではいけない

これは本当にあります。居間で父など男がごろんとよこになっているところ、いくら邪魔でも「またいではいけない」という風にしつけられました。

でもこれは女性だから言われるのではなく、うちの兄も同じことを言われていました。「男をまたぐ=出世を妨げる」という言い伝えや、「父を大事にする」という理由が大義名分あるようですが、でもその本質は「マナー」という部分が強いように思います。

実際のところ邪魔なら怒られてもまたいでましたし。そんな時「パンツがみえるぞバカ!」とお父さんに叱られたものです。要するに「しとやかにしとけ」「行儀良くしとけ」という意味が本来あるような気がします。

▼男性は上座敷、女性は下座敷

ネットではこれを「サマーウォーズみたい!」という風に捉えられているようですが、九州でも旧家になると未だこの風習は確かにあります。と言うか、その環境で育った身としては「あって当然」という風にすり込まれていたので、関東に出てきた頃知り合いのお家で「男女ともに酒を飲み交わす風景」に居心地の悪さを覚えたことを記憶しています。

上座敷だけ男が集まり、女性や子供は下座敷もしくは台所(一般家庭だとほとんどが台所です)。一見すると男尊女卑に確かに見えなくもありませんし、「男性をたてる」というのが建前上の理屈。

でもその場の経験者から言わせて貰うと、男女分けて貰うことで楽なこともあります。何故かと言うと、「飲んだくれた男どもは面倒くさいから」。

確かに男達の食事や酒の世話はしますが、女性は女性で集まり、わいのがいの本音で語り合い楽しんだ方が楽です。むしろ台所に近づくな、余計なことはするなレベル。
それにいい年こいた男女が同じ席で酒を飲み交わしても良いことなんか一つもありません。(特に酒豪ぞろいの九州ならなおのこと)

信じられないかもしれませんが、田舎であればあるほど、特に本家扱いの家になると盆暮れ正月集まる親戚は20人を超えます。それだけ人が集まれば、何か揉めてもおかしくありません。

そこで男女分けて、それぞれが気楽に楽しめる場を作るために「(建前上は)男をたてる」ということにした。恐らく昔の女衆が考え出した「男を手のひらで転がす知恵」みたいなものなのではないでしょうか。

「適当に酒と美味いモンと場を与えるから、お前らそこに籠もっとけ!余計な騒ぎ起こすなよ!あたしらはあたしらで楽しむから!」
あくまで自論ですがこれが本音の一部のような気がします。それにほら、大体上座敷って家の奥にあるでしょ?「(めんど)臭いものには蓋をしろ」。ですね。

■他にこんな「あるある」もあるよ!

上記はネットで言われる一例。他にもこんなものもあります。

・風呂は家長から
・長男は大事!何が何でも大事!

細かいものは他にいくつもありますが、私の記憶で特に印象深いのがこの2つ。
とにかく、九州の旧家では建前上「男をたてる」を美徳とします。

▼風呂は家長から

そのためお父さんがぬる湯が好きだろうが、今は入りたくなかろうが、後のために絶対1番にお風呂に入れるというのがあります。お父さんが入らない限り後は入れません。どうしても「いや!」と言えば、順番が変わることもありますが、基本は家長である父、もしくは祖父のお伺いをたててから。
今ではこの風習だいぶ薄れたところもでているかもしれませんが、でも私の家では家自体が古いのもあり未だ伝統的に続いています。「外で働いてきて、綺麗なお湯で汗を流して欲しいとい」というのが一応の綺麗事。

実際のところはと言うと……。昔のお風呂は上と下で温度が分離していたり、沸かし損ねればぬるま湯だったりとあったので、昔の女衆の気持ちを考えればもしかしたらこれも「お父さんに調整させよう」という本音があったのかなぁ。そんな気がします。今ではボタン一つで温度調整完了ですが、筆者が子供の頃入っていたお風呂はまだまだそんな便利なものではありませんでした。

父が風呂に入り「あつい!」「ぬるい!」「つめたい!」という悲鳴がよく聞こえてきたのを覚えています。(夫婦喧嘩の後は、水風呂にされていることもある)
さらに田舎の家になると五右衛門風呂がまだまだ現役だったので、あながち私の想像は外れていないのかな。そんな気がするのです。

▼長男は大事!何が何でも大事!

特に旧家においては本当にあります。
何はさておき長男。全てにおいて、長男が優先されます。以下は文字通り二の次。
小さい頃から、物を与えられるでも、何をするでも長男が優先されます。
座る席も、祖父母、父母、子供といたら、祖父、父、長男(兄)、祖母、母、私、妹の順です。父が不在であれば、祖父が家長をするか、長男が形だけでも家長をつとめます。
これを現代では男女差別ととるかもしれませんが、私にとってはごく当たり前の事でした。もしかしたらこの感覚、「毒されてる」「洗脳されているのよアナタ!」と非難されるかもしれませんが、今でもこれはこれで別に良いと思っています。先頭に立つことで面倒くさいことが多いのを見て知っているので。

この「長男が何より大事!」という習慣。理由は「長男が家、墓を守っていくから」この一念に他ならないかと。
家を守っていく大切な直系。そのため何より大切に扱われるのですが、中にはこれを勘違いして「俺様いっちばーん」という風に馬鹿息子に育つ者もいます。
そういう馬鹿息子が恐らく女性に無闇に手をあげ、「男をたてる」を自分勝手に理解してしまったのでしょう。ただ中には、自分の立場を理解し、立派に長男としてのつとめを果たし、土地を守り続ける者達も多くいます。

それが正しいか正しくないかはよくわかりません。でもこれまで何百年と根を下ろし祖先が守り続けてきた土地を守りたい気持ちは女性の私にもあります。そのため悪い言い方をすると気楽な私より、生まれた時から縛られている長男達の方がある意味かわいそう。だから、多少子供の頃から優遇されても別にいいかな。今ではそう思っています。とはいっても、子供の頃には理解できませんでしたけどね「キーお兄ちゃんばかり!」って。

九州は、小難しい伝統や風習が多いです。
「九州男児」という言葉があるように、男性は強くあること。そして女性は男性をたてることを「美徳」にしています。でも美徳や建前がつくられるまでには、恐らくそれなりの理由があり成立したのではないかと、大人になった今分かることもあります。

九州の男達は言い方は悪いですがそろいもそろって「おひとよし」の「おちょうしもん」、そして「見栄っ張り」ばかり。昔の女衆の気持ちを考えると「たてる」ことで調子をこかせて、見せたくないときには綺麗事の理屈をたて奥に隠し。そんなこんなで、これまで何百年と家を守り続けてきたのかな。そんな気がします。

でも無闇な女性差別や暴力はいけません。昔はそれがまかり通った時代があったかもしれませんが、少なくとも現代においては全力で否定すべきことであり、未来に残してはいけないこと。その感覚は、現代の九州人の多くが持ち合わせています。

昔の人の中には「昔はそうだから」という考えを一方的に押しつける人が確かにいます。でも長い年月家を守り続けてきた一族から言わせるとそんなものナンセンス。
私の亡き曾祖母に言われた言葉にこんな言葉があります。「文化や伝統はただ守るだけのものではありません。時代に即して、内容を改め(修正し)つつ育てていくもの。だからこそ残していけるのです」と。守るものは最低限残し、不必要なもの、時代に即さないものはどんどん変えていけばいい!ただそれだけの事ですね。

▼参考
Twitterハッシュタグ「#九州で女性として生きること

(文:宮崎美和子)