鳥越俊太郎氏

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私はがん患者の多くが受ける「告知」という洗礼を受けていない。いきなりがんを「目撃」してしまったからだ。

最初の異変はビールがまずくなったこと。2005年夏のことだ。便に赤いものが混じっていることにも気づいた。便器が真っ赤になる日もあった。「がんではないか」という不安がよぎった。が、長年の痔持ちゆえに「鮮血だから痔による出血」と勝手に心に言い聞かせ、事態を直視しなかった。

そのうちに左下腹部が重たいと感じるようになり、下痢、便秘が続いた。「やっぱりおかしい。何かある」と、心の底でアラームが鳴り響いた。ここに至って同年9月30日、ようやく東京・虎の門病院の人間ドックに入った。

大腸内視鏡検査を受けている最中、眼前のモニター画面上に映し出された醜悪な形のがんを目の当たりにした瞬間、私の全身は固まった。馬蹄形に肉が盛りあがり、中央部の凹んだ部分は黒く濁り、幾筋の赤い血の流れも見えた。約1センチ大のポリープと、約3センチ大の腫瘍=進行直腸がん。肛門から25センチくらいのところだった。

50代の頃から年に1〜2回、人間ドックの検診を受けてきたのに、発見以前の3年間、一度も検診を受けていなかった。それまで受けていたクリニックが人間ドックを停止したのに、忙しさにかまけて他の医療機関の人間ドック受診をズルズルと先延ばしにしてきた。何らかの症状が出現する前にがんを発見する、いわゆる「がんの早期発見」に私は失敗したことになる。

最初の衝撃波が過ぎ去ると、その場で「これ、良性じゃないですよね」と内視鏡医に尋ねると、「そうですね、良性じゃありませんね」。

「頭の中が白くなる」「目の前が真っ暗になる」というようなことはなかったが、かなり動揺した。事実、翌日予定されていたフォーラムの司会を断らざるをえなかった。それだけの気力がなかったのだ。将来のことや家族のことなどいろいろなことが頭の中を駆け巡り始めた。

が、実はその一方、心の隅では「しめた!」との思いもあった。がんとがんの医療、がん患者とその家族などについて記録できる絶好の機会を得たと確信したからだ。

検査直後の10月6日に直腸がんの腹腔鏡下手術を受けたが、私は根っから好奇心が旺盛だ。手術前日の夜も、不安を覚えながら「明日の手術でわが身に何が起きるのだろう」とワクワク・ドキドキしながら眠りに就いたのを覚えている。

■診断から5年後の生存率が10%に

そんな私だから、妻と2人の娘も比較的冷静に受けとめていた、と思っていた。しかし、著書(『がん患者』)の執筆に際して聞き取りを行ったとき、そうではなかったことがわかった。

手術の直後、執刀医の澤田壽仁医師(当時、虎の門病院消化器外科部長)から説明を受けたときのことだ。他の臓器やリンパ節への転移は見当たらなかったものの、がんが腸管の壁を突き破っているため、腹膜転移(腹膜播種)の可能性があること、そして腹膜へ転移していたら海岸の砂浜でがんを1つ1つ拾うようなものだから、そうなればホントのところはお手上げになってしまう、と告げられた。

「あぁ、パパも死んじゃうのか」

長女のあすかは、初めて私の死をこう意識したという。澤田医師の説明後すぐに虎の門病院の外へ出て、玄関横のベンチに座り、夫に慰められながら涙を流した。次女のさやかはタクシーで自宅に帰ってから、1人で「わぁ〜」と泣いてしまったという。

2年後の07年、肺への転移=再発が指摘され、家族は再度大きなショックを受けた。執刀医の河野匡医師(虎の門病院呼吸器センター外科部長)から、私の進行直腸がんのステージがII期(診断から5年後の生存率約70%)からIV期(同約10%)へ訂正され、2回の胸腔鏡下手術を受けた。

そして肝臓への転移=再発が発見され、開腹手術を受けたのはさらにその2年後の09年。さらに、11年には喉(中咽頭2カ所)と食道(1カ所)にがんと疑わしい新たな病変が指摘された。続いて直腸がんの肺転移、肝転移と疑われる新たな所見が確認されたのもその年だった。ただ幸いなことに、いずれも「がんではない」との診断が下され、今日に至っている。

■仕事が手術前の3倍に増えた

現在73歳。しかし、一連の手術の前とは比較にならないほど元気だ。ジムに週3回通い、睡眠は最低6時間。食事に気を使い、酒やタバコをやめるなど生活のスタイルが大きく変わった。がんのおかげで仕事も約3倍に増え、テレビやラジオへの出演、講演やシンポジウムなどで全国を飛び回っている。

今や他の臓器、肺と肝臓へ転移した進行大腸がんの患者でも、それなりの現代医療を受ければ「がん=死」というイメージを払拭できる時代になった。確かに肝転移、肺転移が認められても、手術できちんと切除できれば治癒する可能性が高い、という大腸がんの特殊性もある。しかし、がんをめぐる状況が大きく様変わりしたことを、多くの方に知ってもらえれば幸いだ。

今振り返ると、いつも一方にがん患者の鳥越がいて、もう一方に取材者の鳥越がいた。前者は治療を施されるだけの受け身の存在である。しかし後者の、治療の経過をじっと観察し、メモを取る鳥越の存在が、幾多の辛苦を乗りこえられた要因の1つだろう。

がんになってよかった、と思えることも少なくない。以前も漠然と考えてはいたものの、手術後は人生の残り時間をしっかりと考えられるようになった。心境の変化から思わぬものももたらされた。たとえば桜の花や紅葉を見ても、これまでは「ああ咲いてる」と思う程度だった。しかし、手術後はあらゆる事柄に対する感じ方がより深くなった。桜の花びら1つとっても、1枚1枚の色がリアリティを持って心にしみ通ってくる。これはある程度時間が経った今も変わっていない。

この世の中で出合うことすべて、一見ネガティブに見える側面に、実はポジティブな側面がしっかりと貼り付いている。昔から「鳥越は転んでもタダでは起きない」と評されてきたが、そうした気持ちががんと対峙し闘う原動力となってきたのかもしれない。

少年時代から私の中に棲みつき形成されてきた私なりの死生観や、それに基づく生き方、身の処し方も少なからず影響していたと思う。いつもカバンの底にある鴨長明の随筆『方丈記』の書き出しに凝縮された無常観がそれだ。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。/よどみに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、/久しくとゞまりたるためしなし。/世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」

――ジタバタしても、時が来ればいずれ滅びる身。何でここであくせくしたり、足掻いたり、焦ったりする必要があろうか。

現在は3カ月に1回、定期的な検診を受けている。いまだにがんから無罪放免とされるには至っていない。私の体の中に潜んでいるがんが、その姿をいつ現してもおかしくはないが、今ほど人生が充実しているときも過去になかったと思っている。

▼がんとよく生きるための3カ条
[1]患者としての自分を、取材者として観察する
[2]“ネガティブ”には“ポジティブ”が貼り付いている
[3]いずれ滅びる身、ここであくせくする必要はない

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ジャーナリスト 鳥越俊太郎
1940年、福岡県生まれ。京都大学文学部卒業。毎日新聞社入社。「サンデー毎日」編集長等を経て89年よりテレビ界で「ザ・スクープ」キャスターほかを歴任。著書多数。

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(松沢 実=文 小原孝博=撮影)