愛媛、済美高校の安楽智大投手は772球で力尽きた。2回戦で232球を投げたことがアメリカのメディアで取り上げられたのを契機として「投球制限」の論争が持ち上がっている。選抜での安楽の戦績。

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2回戦の232球もさることながら、2日連続完投が響いたのではないか。3連投目の決勝戦では、大きく成績を落としている。この日の5回には6連打を含む8安打を打たれている。安楽は「力不足」と言ったが、この状況で力を発揮できる投手はまずいないだろう。

米メディアは「世界で最高の16歳投手の1人。大リーグにいけば、契約金は100万ドル単位」(ベースボールアメリカ)、「まだ体が発育中なのに、正気のさたではない球数だ。だが、日本の高校では珍しくないこと」(CBSスポーツ)と報道した。

安楽本人は「大きなお世話だ」と言った。先日には、夏は「3、4試合投げても150km/h出せるように鍛えなおしたい」と語った。乗せられやすい性格のように見えるのが気がかりだ。

乙武洋匡氏やダルビッシュ有などは、高校野球にもロースターや投球制限などを設けるべきだといった。

また、松坂世代の野球人だという自民党の小泉進次郎氏は「腕も折れよと投げるから、甲子園のドラマは生まれる」といった。

江本孟紀氏は米メディアの「上から目線」に反発し、日本の投手はきちんとトレーニングをしているからここまで投げられる。アメリカも見習うべきだ。投球制限をしているアメリカでも肩やひじを壊す選手は後を絶たない。松坂などは投球制限によって故障し、不振に陥ったのだといった。
江本氏は「体をしっかり鍛えて、美しいフォームで投げることができれば、投球制限は必要ない」と言い切った。

投球制限の問題は、一般論と個別の事情がいっしょくたになっているために、答えが見えなくなっているように思える。論点を整理したい。

1)個人の資質の問題

NPBには、稲尾和久や杉浦忠、江夏豊のように、今の投手の倍以上の投球回数を投げて素晴らしい成績を上げた「鉄腕投手」がたくさんいた。
甲子園でも、少し前まで投手は予選から決勝まで一人で投げ抜くのが当たり前だった。安楽の例など珍しくもなかったのだ。

こういう投手たちを見ると、投球制限など必要ないと思えてくる。

しかし一方で、短期的に華々しい活躍をしてすぐに消えて行った投手がプロにはたくさんいたのも事実だ。甲子園でも、無理がたたって選手生活を断念した投手もいる。

要するに「投手の肩、肘」は、個人差が極めて大きいのだ。
神様は不公平なもので、何百球投げても平気な投手も、すぐに故障する投手もお作りになったということなのだ。

世の中には3つのタイプの投手がいるのではないか。
A 投球制限をしなくてもどんどん投げることができる投手
B 1、2試合は好投するが、投球制限をしないといずれ故障してしまう投手
C 投球制限をしてもしなくても、長い回は投げられない投手

Cは別にして、A、Bは区別がつきにくい。「こいつは大丈夫だ」と思っていても、何の前触れもなくある日、突然故障してリタイアしてしまう投手だっているのだ。
「体をしっかり鍛えて、美しいフォームで投げ」たとしても、つぶれる投手はつぶれるのだ。
それが可能かどうかはわからないが、日本のアマ指導者に求められているのは、A、Bを見極めて起用することなのかもしれない。

MLBでも大昔は300〜400回も投げる鉄腕投手は存在した。しかし、1940年代にはローテーションが確立された。「肩は消耗品」という意識が定着したからだ。
MLBの理屈は、A、Bを見極めることなど不可能だ。いずれにしても投球制限をする方が投手は長持ちする、ということではないか。

NPBも、大投手が何百回も投げた時代は昔話になっている。今ではローテーションはMLBよりも間隔が広く、MLBよりも緩い環境になっている。1試合当たりの先発投手の投球数は、NPBの方が少しだけ多いが、投球制限は、プロでは常識になっている。先発投手のシーズン投球数は、MLBの方がNPBよりも多い。MLBと同様の理屈が定着しているのだろう。

プロだけでなく、アマでも球数制限を尊重する指導者は多い。安楽をここまで投げさせた愛媛済美高校、上甲正典監督はむしろ少数派かもしれない。
ただ、甲子園では、投球制限をしない投手起用は普通に見られる。ここが問題なのだ。

2)野球の「価値観」の問題

アメリカでは、プロだけでなくアマチュアでも、リーグ戦がほとんどだ。トーナメント形式の野球大会は少ない。
1戦必勝ではなく、勝ったり負けたりしながら優劣を競っていく。
だから、長いシーズンを考えると一人の投手に無理をさせることはできない。
ときには力の劣る投手を投げさせることもある。「捨てゲーム」も織り込み済みで試合を消化していくのだ。

これに対し、日本の野球は、草創期から「1戦必勝」だった。以前にも述べたとおり、明治時代無敵だった一高は、勝利のために故障をいとわぬ姿勢が賛美された。大正時代に始まった甲子園の野球大会はトーナメントだったから「一戦必勝」主義はさらに強化された。
そして高校野球では、春夏の「甲子園」が、唯一無二の異様に大きな大会になった。

日本では「個人よりもチーム、学校、郷里を優先する」のが美しいとされている。極端に言えば、野球選手には常に「選手生命を賭して試合に出る」ことが求められているのだ。
特に、甲子園ではそれが増幅される。日ごろは投球制限をしている監督も、「腕が折れるまで投げろ」という古風な指導者に変貌する。そして「ここでつぶれたって本望だろ」と言われて「いいえ」と言える野球選手は日本にはほとんどいない。

投球制限の是非以前に、これこそが問題ではないかと思う。甲子園があまりに巨大になりすぎ、美化され過ぎていることで、いろいろな問題を生んでいる。

大阪府立桜宮高校のバスケ部員体罰自殺事件や、全柔連女子選手のパワハラ事件で、日本のスポーツ界には「選手本位主義」が根付いていないことが明るみに出たが、野球界でも「個人の将来」よりも「チームや学校の栄誉」が優先される体質は存在するのだ。

近い将来、甲子園で大活躍した投手を擁するチームの監督が、「彼は投げすぎです。彼の将来を考えて、決勝戦では投げさせません」と明言する姿を見てみたい。
そのときに、日本の野球は変わるのではないか。