ナデシコの花言葉は「純愛」、「大胆」、「勇敢」、そして「燃える愛」なんだそうである。

この可憐な花はしばしば女性に例えられ、そのイメージを投影させた「やまとなでしこ」という言葉は、日本女性の清らかで凛とした美しさを讃える言葉として用いられている。

そして強く美しい日本女性の姿を表現して、日本女子代表チームに “なでしこジャパン” というニックネームがつけられたのは、2004年のアテネ・オリンピックの直前のことだった。

あれから7年。

勇敢ななでしこたちはついに、ドイツの地で、その大輪の花を咲かせたのである。

日本の女子サッカー、その黎明期

“「当時の選手たちは、いい待遇を求めていたのではなく、ただ愛するサッカーの試合がしたい、大会に出たい、その一念です。
そのためなら自費で動くことも厭(いと)わない。

彼女たちのモチベーションを高めるなんて、とんでもない。逆です。
僕ら指導者が、彼女たちの情熱に引っ張られたんです。
選手たちの希望を何とか叶えようと奔走したんです。

厳しい環境の中でやっていたから、指導されたことを吸収するのはものすごく早かった。
だからこそ、あいつらを世界に連れていきたかった」”

ベストセラーとなった名著『オシムの言葉』の著者・木村元彦さんは僕の尊敬するライターのひとりだけれど、その木村さんの著書に『蹴る群れ』という本がある。

このフレーズはその中で女子サッカーについて触れた章『リンダ・メダレンとその時代』の中で紹介された、サッカー日本女子代表の初代監督・鈴木良平氏の言葉を引用したものだ。

日本女子代表チームが初めて結成されたのは 1981年、今からちょうど 30年前のことになる。
ただし当時は臨時に任命された監督が指揮をとる「選抜チーム」のような形で活動をしていたので、初の専任監督として鈴木良平が就任し、本格的な強化がスタートしたのは 1986年になってからのことだった。

それから四半世紀。

日本の女子サッカーが世界の頂点に立つことを、いったい当時、何人が予想していただろうか。

「第二の故郷」との決戦の日

澤穂希にとってアメリカは “第二の故郷” になる。

15歳で日本代表にデビューした天才少女は 1999年、不況のあおりで国内の女子サッカーチームが次々と解散する中、自身も所属するベレーザからプロ契約を打ち切られたことをきっかけに、女子サッカーの本場であるアメリカへと拠点を移した。

以来、いったん日本に復帰した時期を挟んで通算7シーズンをアメリカでプレー。
ここで澤はプレーの面だけでなく、人間としても大きく成長を果たす。
その後の女子サッカー界のカリスマの原型が、このアメリカでの生活の中で培われていった。

そしてその澤穂希がアメリカの代表チームと、ワールドカップで対戦することになった。
しかも舞台は、優勝をかけた決勝戦である。

日本はこれまでアメリカと 24回対戦して、0勝21敗3分けと一度も勝ったことがなかった。

アメリカの女子サッカーの競技人口は 160万人とも言われている。
対する日本の競技人口は4万人に満たない。
そしてアメリカは女子サッカーの世界では、世界ランキング1位に君臨する強豪国だ。

アメリカでこれほど女子サッカーが盛んになった背景としては、全米で最も人気のあるスポーツであるアメリカンフットボールの影響が大きい。
アメフトは女性にも大人気のスポーツだけれども、「やるスポーツ」としては女子にとっては危険すぎるため、アメフトの代わりに(比較的競技の性質が近い)サッカーが多くプレーされるようになった。

そうした経緯から、アメリカのサッカーはとにかくフィジカルを重視する。