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スポーツ選手、とりわけサッカー選手、特に海外組は言う。
「プレイを通して、被災地の方々に勇気を与えたい」

言葉足らずというか、使い方に注意した方が良いのではと思うのは、僕だけではないはずだ。どうでもいい話と言えばどうでもいい話なのだけれど、気になり出すと止まらない言い回し。言葉尻を捉えたくなる。一言いわずにはいられなくなる。

勇気は「与える」ものだろうか。被災者が「あの選手のプレイに、勇気を与えられた」と言うなら分かる。「勇気をいただいた」「勇気づけられた」等々、勇気は基本的に「与えられる」ものなのだ。「勇気を与えたい」すなわち「勇ましい気持ちを与えたい」と平気で口に出来る人は、本来そう多くいないはずなのだ。

自分自身を勇ましいと思っているところになにより驚かされる。勇ましい気持ちは、殿様が家来に与えるもの。隊長が部下に与えるもの。社長が社員に与えるもの。先輩が後輩に与えるものだ。僕が読者に与えるものでは断じてない。むしろ、読者からいただくものだ。

慣れない言葉を使うから、おかしなことになるのだと思う。本心なのか怪しい気さえする。どこか嘘っぽい、違和感を覚える言葉。そもそも、被災者の大半はいま、彼らのプレイを満足に見られる環境を持ち合わせていない。「プレイを通して。被災者の人に勇気を与えたい」と言われても、被災者にはその勇気をキャッチする術がない。ライフラインがほぼ完璧に寸断された状態にあるいま、それは一方的で具体性に欠ける、少しばかり身勝手で傲慢な台詞にさえ聞こえる。

そのことは選手もうすうす承知しているはず。選手自身の言葉には聞こえない。無理矢理言わされているものだから、おかしい日本語の使い方になっている。僕にはそう見える。
「沈んでいる日本のサッカーファンを盛り上げたい」と言った方が、遙かに自然。分かりやすい。となると、29日のチャリティマッチも、誰を元気づけたいのか、よく分からないイベントになる。被災者を元気づけたいのなら、もう少し後にすべき。せめてパ・リーグの開幕ぐらいまで待てばと言いたくなる。

とはいえ、一般国民の中には、何も被害に遭っていないのに、ブルーな気持ちでいる人は数多い。励ましたくなる人はいる。いま、元気ピンピンでいる人は、数えるほどだろう。
しかし、そうした状況に耐えきれず、自分のことを必要以上に可哀想がろうとする一般人が、僕には目に余って仕方がない。被災していないのに被災したような気になっている人。ちょっと揺れただけで、大変だ大変だと大騒ぎでスーパーに走り、トイレットペーパー等々を買い占めるオバサン。その結果、被災地の向けの物資が滞るようなことがあれば、これ以上馬鹿な話はない。ほうれん草は危ないと言って、安全なほうれん草まで買わなくなるのもしかりだ。

プロ野球のセ・リーグにも、似たような印象を受ける。興業を順調にできなくなりそう自分たちが可哀想で可哀想で仕方がない。大変で大変で仕方がない。早期開幕を、まさに横車を押すように計ろうとする姿の根底には、自分可愛さがのぞく。端からそれが見えてしまっているところが情けない。買い占めを計るオバサンと精神構造は一緒。僕には両者がダブって見えて仕方がない。いまいちばん大変なのは、少なくとも「アナタ」ではない。

悲劇の主人公になりたがっている一般人は急増中。サッカー界も、これでは強化が進まないなどと言わないこと。自分の境遇を可哀想がらないこと。目先の利益を求めて、横車を押すようなことがないように、くれぐれも注意したい。

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