テニスの全米オープン決勝。セリーナ・ウィリアムズが判定を巡り猛烈に抗議するシーンをテレビ観戦しながら、ふと想起したのがロシアW杯決勝だった。フランス対クロアチア。VAR検証で、クロアチア側にハンドが確認されフランスにPKが与えられることになったシーンだ。
 
 判定を巡ってプレーが滞り、試合に水が差されたという点でそれぞれは一致する。こうした事件があると試合の娯楽性は低下する。競技の魅力にも影を落としかねない。全米オープンテニスについていえば、テニス競技のダメな箇所を見てしまった気がする。大坂なおみを応援していた日本人だけでなく、第3者的なファンにもそう見えたに違いない。選手が審判にあれだけ食ってかかることができる競技って、どうなの? と。
 
 一方でテニスは、早々と「チャレンジ」を導入した。インかアウトかの判定を不服とした選手が異議を申し出るシステムだ。それなりのカメラ機材が配備された大きな大会に限られるとはいえ、映像でその落下地点が描き出される瞬間は、スリル満点。テニスの娯楽性を高めることに一役買っている。
 
 映像で再確認し、ジャッジに反映するシステムは、このテニスのチャレンジ以後、他の競技の間でも広がりをみせた。サッカーも例外ではない。VARがテニスのチャレンジに影響を受けていることは紛れもない事実だ。
 
 チャレンジを導入する際、テニス界でどのような騒動があったか知らないが、サッカー界はVAR導入に諸手を挙げて賛成していたわけではない。先述のロシアW杯決勝戦がいい例だ。フランスファン以外で、あのVARの判定を歓迎した人はどれほどいただろうか。明らかなハンドながら、これまでなら見過ごされていた一件だ。
 
 反則の見逃しはよくないことに決まっているが、その曖昧さこそがサッカーだという声がサッカー界には根強くあった。サッカーは誤審、見逃しを文化として受け入れてきた経緯がある。
 
 シミュレーションしかり。その根に潜むのはマリーシアだ。サッカーにはずる賢さを否定しない文化が根付いていた。反則をしたのにしていない風を装う演技力、その逆の演技力もサッカー選手には問われていた。いかに審判を欺すか。
 
 それが下手だと日本人は言われ続けてきた。何十年か前の日本人にとって、マリーシアはカルチャーショックそのものだった。
 
 ホーム&アウェー戦に潜むホームの利、アウェーの不利も異文化だった。PK1本分は覚悟しなくてはならないといわれるほど、ホームタウンディシジョンが当たり前のように存在した。だが、そうした事例があるときから目に見えて減少した。欧州チャンピオンズリーグなどは、まさにホーム戦とアウェー戦で、違った戦いを強いられる典型的な大会だったが、ここ何年かの間に、ホーム側がその恩恵を受ける試合、アウェー側がその不利を被る試合は、ほぼないに等しいまで激減した。
 
 そうしたサッカー独得のテイストはかつてのもの。古きよき時代のものとなってしまうのか。そんな思いを抱いていた矢先に登場したのがVARだ。サッカー界の流れはこれで決定的なものになった。
 
 馴染めていない人は確実にいる。
 
 VARの問題点を挙げるなら、審判が映像で反則か否かを確認する数分間、試合は止まる。プレーがそのつど止まるテニスや野球なら問題ないが、サッカーの売りは連続性だ。そこで多くの時間を費やせば酔いは覚める。興ざめ必至だ。正確な判定も必要だが、それにこだわりすぎると、いい意味でのサッカー的な臭みは失われる。ロシアW杯決勝はまさにそのいい例だった。
 
 しかし、その流れは止まっていない。むしろ決定的なモノになっている。欧州では最もラテン気質が強くVARとの相性がよくなさそうなスペインリーグが、率先して導入している。

 その昔、スペインも、イタリアも、フランスもレストランやカフェなどで煙草は平気に吸えた。日本と同じぐらい、いやそれ以上に煙草吸いには甘い環境が広がっていた。それが、10年ほど前だったと思うが、急にダメになった。一切アウトになった。
セクハラやパワハラも、かつてはこの程度なら常識の範疇と容認されたが、いまでは一切許されないモノとなっている。
 
 しかし、日本は相変わらずだ。ダメなものはダメになったにもかかわらず、かつての名残を断ち切ることができていない。
 
 禁煙しかりだ。先進国で、ここまでたばこ吸いに甘い国も珍しい。世界のスタンダードの外にいる。時代の変化に対応できていない。
 
 VARの導入と重なって見える。清く、正しく、美しく。世の中はこの方向で変化している。日本人とは気質的にはマッチしそうな気もするが、Jリーグ等で導入される目処はいまのところ立っていない。1年10ヶ月後に五輪を開催する国にしては、あまりにも非進歩的だ。