マイカーを買ったシューの家。むき出しの便器が目立つ。部屋の広さは10畳ほど。この1部屋に3歳の子供と親子3人で暮らしている。家賃は500元(8500円)。(筆者撮影)

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世界最大の自動車市場である中国。日本市場の5倍以上という市場を支えているのは富裕層だけではない。毎月の世帯収入が10万円に満たないような貧困層も、クルマを購入している。なぜ彼らは、年収よりも高いクルマを買い求めるのか――。

※本稿は、山田泰司『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』(日経BP)の第4章「マイカーと便器」を再編集したものです。

■便器がむき出しになった部屋に住む

若い友人の一人、シューが上海に借りている家を初めて訪ねたときの衝撃は忘れられない。

案内されて部屋に足を踏み入れると、一つしかない窓に近い最も日当たりのいい場所に、洋式の便器がむき出しになって置かれているのが目に飛び込んできたからだ。

ここはバスルームで、居間や寝室は別にあるのかと思ったが、便器の右隣には大きな液晶モニターをのせた机、左隣には木製のベッドがある。「狭くてびっくりしたでしょう? 部屋はこの一つしかないんです。500元(8500円)の予算だと選択肢がなくて。上海は家賃が高いから。故郷にある実家は大きいんですけどね」と恥ずかしそうにシューは言うが、部屋の広さは10畳ほどはある。

この1部屋に3歳の子供と親子3人で暮らしているというから手狭ではあろうが、広さだけならこれよりも小さな部屋に暮らす人はいくらでもいる。しかし、部屋の中に便器がそのままポンと置かれている部屋は初めて見た。シューは、使う際の目隠しになるよう、天井からビニールシートを吊るしていたが、窓からのすきま風でさえシートが動いているのを見ると、気休め程度にしかならないのは一目瞭然だった。かつて新聞で見たことのある、日本の刑務所で死刑囚が過ごす独居房が頭に浮かんだ。

シューの家の大家はこの土地で農業をする上海の農家で、自分の家の敷地に賃貸住宅を建て貸し出している。店子は全員、農村から都会に働きに来ている農民工だ。

■浮き彫りになる 「農民内格差」

それにしても、大家はいったいどのような考えで、トイレに囲いを付けなかったのだろうか。

上海には19世紀後半から20世紀半ばにかけての租界時代に建てられた古い集合住宅が、近年に進んだ再開発でだいぶ数は少なくなったが今でも残っていて、こうした古い伝統的な住宅の中には、トイレのない物件が少なくない。それも、かつての日本によく見られた個々の部屋にトイレがない共同トイレのアパートとも違って、下水道や浄化槽が未整備だった名残で建物の中にトイレ自体がなく、「馬桶(マートン)」と呼ばれる「おまる」を使って、部屋の片隅で用を足していた。

しかし、シューが住んでいるような住宅は、この10年ぐらいに建てたものだから、ベニヤ板で囲うなりした独立したトイレのスペースはいくらでも作れたはずである。それを作らなかったというのは、トイレに対する感覚の違いということもあるのだろうが、上海人が地方出身者を「田舎者の農民工」と蔑むさまを町で、ネットで、雑誌で嫌になるほど見聞きしてきた私には、「便器を付けてやっただけでもありがたく思え」という大家の心の声が聞こえるような気がしてならない。上海の農民が、地方の農民を差別するという構図である。

心の声を聞いたというのは、あながち私の勝手な妄想ではない。なぜって、大家たちが自分たちで住む立派な母屋の方には、独立したトイレの個室をちゃんと設けていて、昨今では日本で「爆買い」してきた温水洗浄便座まで付けているのだから。

今から17年前、「昔ながらの上海人の生活を体感する」などと鼻息荒くトイレのない昔ながらのアパートに住み、半年にわたっておまるの生活を経験し四苦八苦した私は、トイレのない生活がいかに不便かということは身をもって実感している。それでも、むき出しの便器を用意されるぐらいだったら、元々トイレがない部屋でおまるで用を足す方が、ずっと精神の安定を保てるように思う。

■それでも230万円のセダンを購入

さて、シューが便器むき出しの部屋に住むことを余儀なくされているのは、共に物流倉庫で働く夫婦の世帯収入が8000元(13万5000円)と、家族3人であれば食うや食わずという生活までにはならないものの、上海のいわゆる大卒ホワイトカラー1人分相当と決して多くはない一家の収入を考えてのことであり、「自分たちは中学しか出ていないから子供は大学に進ませたい」(シュー)という子供の教育費などに回すため、と私は思い込んでいた。

だから、シューの家を初めて訪れてから1年もたたない2016年の1月、「シューがクルマを買った」と友達のチョウシュンから聞かされたときには、彼の家を見たときよりもさらに、私は驚いたのである。便器むき出しの家に住む彼らのどこに、クルマを買う余裕があるのか、と。

シューが買ったのは上海GEが中国で製造しているビュイック・エクセル(中国名・別克英朗)。1.5リッターのコンパクトセダンで、価格は14万元(230万円)だ。上海は自動車の総量規制をしているためナンバープレートは競売制で、落札価格は直近で8万5000元(140万円)と、クルマ1台分程度にまで高騰している。ただ、地方出身者は総量規制のない故郷でナンバープレートを取得するケースも多く、シューも実家のある江蘇省で申請したためこの費用はかからなかったのだという。上海で暮らす地方出身者の数少ないメリットだといえる。

■「道路に適当にとめておいても大丈夫」

上海ではこの年、シューと同じような境遇にある20代前半の夫婦たちがこぞってマイカーを買い始めていた。「シューと同じような境遇」とは、出身は地方の農村で、学歴は中卒か高卒、職を求めて上海にやってきて、家賃は安いが交通の不便な郊外に住み、仕事は単純労働の、世帯所得6000〜1万元(9万8000〜16万円)といった層のこと。上海の最低賃金は2016年に2190元(3万6000円)だったので、世帯収入6000元というのは、現在の上海では底辺に限りなく近い水準だといえる。

シューの友人で四川省の農村で中学を終え上海に出てきたウェイ夫妻も、24歳になる年の2016年1月、マイカーを買った。中国の自動車メーカー吉利のSUVで、購入代金の9万2000元(150万円)は、「親にも少し援助してもらって一括で払った」(ウェイ)という。シュー同様、ナンバープレートは高額な上海を避けて故郷の四川省で申請した。

月々にかかる費用は、「週末ぐらいしか乗らないので、ガソリン代の200元(3400円)程度」。駐車場は「この辺は上海でも農村だから、道路に適当にとめておいても大丈夫」なのだという。

■バブル期の日本との共通点と危うさ

一方で、購入を見合わせたケースもある。チョウシュンである。

安徽省の農村に生まれ育ち、中学卒業後に上海へ働きに出て、シューの隣の物流倉庫に勤めていたチョウシュンも、友達がこぞってクルマを買おうとしているのに刺激された。そして、まずは運転免許だということで、母と妻の了承を得て、家の貯金から1万元(17万円)を出し2015年の夏、教習所に通った。ここでいう「家」というのは、チョウシュン一家と、彼の両親を合わせたものである。

実地で一度不合格になったものの二度目で無事合格。「さあ、春節前に今度はクルマを買うぞ。日産のティアナが欲しいな。でも、お金がないから中古でいいや。え? 2009年製でも11万元(190万円)もするの? でもローンで買えばいいや」などと楽しそうに夢を膨らませていた。

ところがそれから程なくしてチョウシュンはリストラに遭い、クルマの購入も見合わさざるを得なくなった。それでも、クルマを買おうとしていたほどなんだから、それなりに蓄えはあるんでしょ? と尋ねると、「うーん、無収入が2カ月目に入ったら、貯金は底が見え始めちゃうかな」との答え。そうなのか、それじゃあティアナのローンの途中でリストラされていたら大変なことになっていたねと重ねて聞くと、「払えなくなったらローン会社にクルマを取られてそれでチャラだからそれほどのプレッシャーはないけど、でも、危なかったね」との答えが返ってきた。

彼らがクルマを買った当時の「日本経済新聞」(2016年4月22日付)によると、中国の自動車メーカー上場8社の2015年12月期決算は、8社のうち7社が前期比2ケタの増収、特に15年10月から始まった小型車減税を背景に、小型車に強い中堅メーカーが収益を大きく伸ばしたと伝えている。

バブル全盛期の1980年代、日本では若者が6畳のワンルームに住んでBMWなどの高級車を買うという現象があった。中国の現状も、80年代の日本と類似しているといえるのかもしれないが、便器むき出しの独居房のような部屋に家族3人で住んでクルマの費用を捻出したシューや、リストラでローンが払えなくなってもクルマを取られるだけなのでそれほど怖くないというチョウシュンのケースを目の当たりにすると、彼らのマイカー購入は、実に危ういところで支えられていたものだということが分かる。

■敗残感が漂う家よりも、贅沢な車内を味わいたい

それにしても、彼らが当時、こぞってマイカー購入に走ったのはなぜなのか。

先の日経新聞の記事にもあったが、中国は2015年10月、排気量1.5リッター以下の自動車購入税をそれまでの1万2000元(20万円)から6000元(10万円)に半減した。シューとウェイも「減税が、買う一つのきっかけにはなった」と言う。しかし、「それが最大の理由ではない」とも言う。それでは、最も大きな理由は何かと尋ねると、購入を見合わせたチョウシュンも含め三人とも「なぜって……欲しいからだよ」と繰り返すのみ。

ただそのうちシューが「クルマに乗っていると、金持ちになった気分にはなるな」とつぶやいた。それを聞いたほかの二人は、「そうそう、クルマの中って、自分の家よりゴージャスだもんね」と同調した。

自分たちで明確に意識はしていないが、恐らくこれが、クルマを渇望する最大の理由なのだろう。当然のことだが、彼らとて、便器むき出しの家が快適だとは思っていないのだ。

シュー、ウェイ、チョウシュンの三人のうち、便器むき出しの家に住んでいるのはシューのみだ。ただ、彼らの家におじゃました際、共通して毎回感じるものがある。それは、部屋に漂う投げやりで、殺伐とした、よどんだ空気。さらに踏み込んでいえば、敗残感である。

上海では2016年に入って郊外の家賃が高騰、シューとウェイも今年(2017年)の春節を機に家賃が倍の1000元(1万7000円)になった。不景気で、チョウシュンのように突然失業するケースも増加。生活のプレッシャーは確実に増していた。

シューは「上海でマイホームを買うなんて100パーセント無理」と断言する。真面目に働いてもトイレすらまともにない家にしか住めない。せめてもの贅沢でクルマを買って、週末ぐらいは家族で日常を忘れたい――こんな思いが彼らをクルマの購入に走らせていた。

■近くて、 とてつもなく遠い上海ディズニーランド

親友であり、職種、家庭環境、資産状況も似たり寄ったりのチョウシュンが、リストラでクルマの購入をあきらめたのを目の当たりにしたシューとウェイは、一括で買ったとはいえ、さすがに少し怖くなっていたようだった。

「でもほら、失業しても、クルマがあれば、ウーバー(Uber)や滴滴(Didi)みたいな配車サービスで稼げるじゃないか。チョウシュンも無理してでもやっぱりクルマを買った方がいいよ」とシュー。ウェイも、「そうそう、ディズニーランドもできるしさ。この辺は交通がとにかく不便だから、ディズニーランドや空港に行く人を乗せる需要はこれからもっと増えるよ」と続ける。これを聞いたチョウシュンは、「そうだね」と少し明るい顔になった。

彼らの住む辺りは、浦東空港まで直線距離で2キロ足らずの所にある。さらにこの年の6月に開業した上海ディズニーランドへも直線距離なら10キロ程度だ。一方で、都心部からはというと、例えば日本人の居住者も多い婁山関路(ロウシャンクアンルー)というエリアからの直線距離は、浦東空港が50キロ、上海ディズニーランドは37キロあまりだが、浦東空港へは地下鉄が直結しているほか、リニアモーターカーや空港リムジンバスもあるので、1時間半あまりで着く。一方で上海ディズニーランドも開業に合わせて開通した地下鉄を利用すれば1時間程度と、公共交通機関を使ったアクセスは便利だ。

ところが、直線距離では断然近いシューたちの住む辺りは、公共交通機関の整備とは無縁の陸の孤島だ。地下鉄を使って浦東空港やディズニーランドに行くには、最寄りの地下鉄駅まで路線バスはあるものの、本数は一時間に一本。自宅を出て最寄りの地下鉄駅に着くまでに既に二時間近くかかってしまう。さらに認可されたタクシーもこの辺りには乗り入れない。仕方なく彼らは、地下鉄に乗るために白タクを利用している。

中国から世界への玄関口である浦東空港、豊かな中国を象徴する最新スポットである夢の国・上海ディズニーランドにほど近い場所に住みながら、現実的な距離はとてつもなく遠い。念願叶ってマイカーを手に入れたチョウシュンが、初めてディズニーランドを訪れるのが、白タクか配車サービスの運転手としてではなく、客としてであればいい、と思う。

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山田 泰司(やまだ・やすじ)
ノンフィクションライター。1988〜90年中国山西大学・北京大学留学。1992年東洋大学文学部中国哲学文学科中退。1992〜2000年香港で邦字紙記者。2001年上海に拠点を移し、中国国有雑誌「美化生活」編集、月刊誌「CHAI」編集長を経てフリー。EMS情報メディアの編集も手がける。日経ビジネスオンラインに「中国生活『モノ』がたり」を連載中。

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(ノンフィクションライター 山田 泰司)