根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
【連載第45回】

■チームプレイよりも基本プレイを重視

 1978年1月、クラウンライター(現・西武)の監督に就任した根本陸夫は、毎年恒例の合同自主トレ廃止を宣言。全選手に手紙を送って通達する気配りを見せつつ、プロとしての自己管理を厳しくうながした。

 一方で根本は、これも自己管理の一環というべきか、酒豪ぞろいの選手たちに向けて短い言葉で厳重に申し渡した。

「タダ酒は飲むな」

 地方球団の選手はファームの若手でも周りにちやほやされ、いわゆるタニマチを作りやすい環境にある。このタニマチとの関係が、"黒い霧事件"の再発につながらないとは限らない。根本はあらかじめ発生源を断つように努めた。

 そして、いざスタートしたキャンプでは異例の休日なし。その間、コーチの江田孝が脳内出血で急死する不幸もあったが、一次キャンプの福岡・平和台から二次キャンプの長崎・島原へ移動する日も練習した。無休の理由を問われた根本は、厳しさを表に出さずに言った。

「選手の自主性、自覚のための場を、私は提供したいのです」

 練習の進め方も型破りだった。当時のプロ野球も今と同じくチームプレイが優先され、キャンプでは序盤から連係プレイ、サインプレイなどに重点を置くチームが大半。しかし根本は違った。

「まず基本だよ。捕ったり、投げたり、走ったりを徹底的にやらなくては。だって、そうだろう。基本が確立されないと、いくらチームプレイを要求したって、そんなもの、やれっこないわな」

 太平洋クラブ時代の76年から、チームは2年連続で最下位に低迷していた。77年のドラフトでは最大の目玉だった法政大の江川卓を1位で指名するも、巨人入りを熱望する本人が「九州は遠すぎます」と言って入団を拒否。肝心の投手陣の補強も順調にいかず、野手陣は真弓明信(72年・ドラフト3位)、山村善則(73年・同1位)、立花義家(76年・同1位)といった生え抜きの若手の成長が期待された。

 最下位脱出を目指す根本が基本を重視し、猛練習を課したのはそうした事情もあり、キャンプ中のみならず、オープン戦に入っても休日はなかった。理由を問われると、ひと言で答えた。

「だって、心臓は休まないじゃないか」

 休みをとるのがコンディショニングなら、休まないのもコンディショニング。それが根本の考えだった。同年のクラウンは最大24連戦が予定されていたこともあり、シーズン中の満足に休めない状況に備え、キャンプからその環境作りをやっていたというのだ。

 いつしか、無休練習は「命がけ」という意味合いから「カミカゼ練習」と呼ばれ、話題になった。

■球団譲渡発表の日も練習を休まなかった

 それだけ根本中心のチームだったためか、この年に発行されたクラウンのファンブックを見ると、なんと表紙には選手の姿がない。山笠祭りと平和台の写真をバックに、監督がひとり明るく笑っているだけ。それは異例というより異様であったが、開幕直前、根本は気丈にコメントしている。

「デービスの加入で機動力がグーンとアップした。これで徹底した攻撃野球をやって、パ・リーグのペナントレースを大いに引っかき回す」

 デービスとは、前年に来日して中日でプレイしたウィリー・デービス。メジャー通算2500安打の実績があり、盗塁数も400に迫っていた快足の持ち主である。素行に問題があり、ケガもあって中日から放出されたが、広島監督時代に「エンドランの根本」と呼ばれたほど機動力重視の指揮官にとっては、心強い助っ人だった。

 クリーンアップにこのデービス、来日2年目のボブ・ハンセン、ベテラン強打者の土井正博を据え、1、2番に若手の真弓、立花を抜擢した打線。だが、急激に得点力が高まったわけではなく、投手陣は東尾修が孤軍奮闘状態だったが、充実の戦いぶりを見せた。当時のパ・リーグは前後期2シーズン制だったなか、前期は終盤の6月に12勝2敗2分けと調子を上げ、28勝31敗6分で4位。根本自身、手応えを口にしている。

「前期の後半になって選手たちの動きがよくなり、リズムをつかんだ。勝ちグセがついてきた勢いを後期につなぎ、思い切って勝負をかけていく」

 ところが、7月に開幕した後期のスタートは引き分けを3つはさんで7連敗。それでも7月中旬から状態を立て直すと、9月頭、最後の15試合を残して22勝22敗6分と、勝率を5割に戻していた。だが、直後に10連敗を喫するなど1勝14敗に終わり、後期は23勝36敗6分で5位。通算でも51勝67敗12分、勝率4割3分2厘で5位となった。

 チームは最下位からは脱出し、真弓、立花、山村がレギュラーに定着。投手陣は東尾が23勝を挙げた以外に目立つ収穫がなかったが、全体では翌年につながる材料はあった。

 半面、球団はシーズン中から身売りの噂が絶えず、クラウンライターとのスポンサー契約も10月で切れる予定だった。77年から新たに江口正八郎を球団社長に迎え、自身は代表専任になっていた坂井保之によれば、「スポンサー方式も限界に来て、太平洋クラブ時代からの借金は十数億円に膨らんでいた」という。

 そんな中、オーナーの中村長芳が西武グループ総帥の堤義明を説得して、9月に西武への球団譲渡、さらには埼玉・所沢へのフランチャイズ移転が決まった。発表は10月12日と定められており、そうとは知らない根本は、9月30日のシーズン終了後、わずか2日休んだだけで秋季練習を開始。1万メートル走、50メートルのダッシュ、ひとり最低400本のノック等々、猛練習が続いた。その光景を見て心苦しくなった坂井はたまらず、「ネモさん、会社は今、エライ状況にあるんだ。近々、大きな動きがあるかもしれない」と根本に耳打ちした。すると指揮官は手を休めずに答えた。

「興味ないね。どの道、コイツらには野球するしかないんだから」

 球団譲渡と移転が発表された後、あるテレビ局のニュース番組にライオンズの練習風景が映し出された。「突然、新球団西武ライオンズの所属となった選手たち、今日も秋季練習に励んでいますが、どの顔にも戸惑いは隠せません」とアナウンサーが紹介すると、直後、アップで映された根本が屈託のない表情で言った。

「寂しくないかって? そんなこと言ってちゃ、この子たち、メシ食っていけませんよ。何色のユニフォームを着ようと、野球は一緒です」

つづく

(=敬称略)

【人物紹介】
根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上のGMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年 4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

江田孝...1923年3月18日、兵庫県生まれ。41年に伊丹中から阪急軍に入団。43年に応召され、46年にゴールドスターでプロ野球に復帰。翌年に自身初となる2ケタ勝利を挙げる。48年に太陽ロビンスに移籍し、50年には23勝をマークした。52年に大洋ホエールズに移籍し、57年に現役を引退した。その後は近鉄、太平洋クラブ、クラウンライターなどで投手コーチを務め、鈴木啓示らを育てた。プロ通算成績は370試合に登板し、97勝147敗。

江川卓...1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院高時代"怪物"と言われ、甲子園などで活躍。1974年に法政大学に入学。六大学野球では史上2位の47勝をあげ、3、4年時には4連覇を達成。その後1年間米国で浪人。 "空白の1日"で世間の注目を浴び、小林繁とのトレードで巨人に入団。80年、81年と2年連続最多勝を獲得。81年にはセ・リーグMVPに選ばれた。9年間で135勝を挙げ、1987年に現役を引退。プロ通算成績は266試合に登板し、135勝72敗3S。

真弓明信...1953年7月12日、熊本県生まれ。福岡・柳川商から社会人野球の電電九州(現・NTTグループ九州野球クラブ)を経て、72年のドラフトで太平洋クラブ(現・埼玉西武ライオンズ)から3位指名を受け入団。78年オフに田淵幸一、古沢憲司とのトレードで阪神に移籍。85年には1番打者として打率.322、34本塁をマークするなど、球団初の日本一に貢献。95年に現役を引退。09年から11年まで阪神の監督を務めた。プロ通算、1888安打、266本塁打、886打点。

山村善則...1955年4月11日、大阪府生まれ。大鉄高(現・阪南大高)から73年のドラフトで太平洋クラブから1位指名を受け入団。82年のキャンプイン直前にトレードで南海に移籍。83年には外野のレギュラーとして活躍。89年に現役を引退。その後は、ダイエー、ソフトバンクで育成コーチ、打撃コーチを務め、12年限りで退任。プロ通算、739安打、70本塁打、318打点。

立花義家...1958年10月27日、福岡県生まれ。柳川商から76年のドラフトでクラウンライターから1位指名を受け入団。2年目の78年には監督の根本陸夫からレギュラーに抜擢され、19歳の3番打者として注目を集めた。80年には打率.301、18本塁打をマーク。91年オフに金銭トレードで阪神に移籍するが、1年限りで退団。93年には台湾プロ野球でプレイした。その後は、ダイエー(現・ソフトバンク)、オリックスなどで打撃コーチを務め、13年からロッテの一軍打撃コーチを務めている。プロ通算、801安打、51本塁打、318打点。

ウィリー・デービス...1940年、アメリカ生まれ。60年にドジャースでメジャーデビューし、62年には21本塁打を記録。71年、73年とオールスターに出場。77年に中日に入団するも、チームメイトや首脳陣とのトラブルが続き、オフに金銭トレードでクラウンライターに移籍。クラウンライターでは127試合に出場するも、またしてもチーム内でトラブルが続き、1年で退団。翌年、エンゼルスと契約し、メジャー復帰を果たしたが、1年で退団し、現役を引退した。

ボブ・ハンセン...1948年5月26日、アメリカ生まれ。69年にブルワーズとマイナー契約し、74年にメジャー昇格。77年にクラウンライターに入団。左の長距離砲と期待され、77年は20本塁打をマーク。しかし翌年は11本塁打と成績を落とし、シーズン終了後に自由契約となり退団した。

土井正博...1943年12月8日、大阪府生まれ。1961年に大鉄高(現・阪南大高)を2年で中退して、近鉄に入団。1974年オフに太平洋クラブライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に移籍し、1981年までプレイ。通算2452安打、465本塁打。引退後は解説者を経て、西武などでコーチを務め、清原和博らを育てた。

東尾修...1950年5月18日、和歌山県出身。箕島高から68年に西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)からドラフト1位指名を受け入団。75年に23勝を挙げ最多勝を獲得。チームは西鉄から太平洋、クラウンと経営母体を変えるがライオンズ一筋を貫く。79年に西武ライオンズとして生まれ変わったチームでもエースとして活躍。82年には念願のパ・リーグ制覇に大きく貢献し、初の日本一にも輝く。その後、88年の現役引退までに6回のリーグ優勝、4回の日本一を達成する常勝軍団の黄金期を支えた。プロ通算成績は、251勝247負23セーブ。

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki