丸紅社長 國分文也 1952年、東京都生まれ。75年慶應義塾大学経済学部卒業、丸紅入社。2001年石油第二部長、03年中国副総代表、05年執行役員、10年丸紅米国会社社長、12年取締役副社長執行役員。13年より現職。

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■「過去の延長」否定持ち続けた気概

40歳で課長になり、48歳で部長になった。企業の中核をなすのは、そんな世代だ。いや、そうなってもらわなければ、企業は伸びない。では、現実はどうか。

範囲が明瞭な課題なら、すぐに調べて、答えを出す。でも、「何を、どうやればいいか、始めから自分で考えてごらん」と言うと、戸惑い、立ち止まる。昨日と比べてどうか、昨年と比べればどうかと、「過去の延長」の世界で仕事をしがちで、工夫もなく「昨日の続き」を重ねてしまう。

モノがあふれ、恵まれた環境で育ったゆえの「未開の地平」に挑む気概の後退か。社会人になったころにバブルが崩壊し、世間に停滞感が深まったことも、無縁ではないのかもしれない。

だが、そんな「過去の延長」に安住してしまったら、企業に明日はない。もっと工夫を凝らし、新しいことに挑戦する集団であってこそ、地平は拓ける。2013年4月に社長になると、社員へ呼びかけた。「過去にとらわれていては、成長はない。上司に否定されても、新たなことに挑戦しようという気概を、持ってほしい」。

ビジネス人生を遡ると、そんな思いは、シンガポール勤務時代にいちだんと強まった気がする。

1997年11月、石油第一部の副部長から丸紅インターナショナル・ペトロリューム(シンガポール)の社長へ転じた。石油類のトレーディングが中心の会社で、自分もトレーダー出身だが、社長だけにやらせてはもらえない。でも、45歳、おとなしく「昨日の続き」を重ねるはずもない。

商社は、長く、仲介的な取扱高の競争に力が入り、バランスシート(貸借対照表)に乗る資産や負債の中身への関心は薄かった。シンガポールにいくと、アジアでも仲介手数料を目指すだけの取引が目立ち、危うさを感じたものもある。さらにアジア金融危機が勃発し、様々なリスクが顕在化した。もはや古い手法は捨て、ビジネスモデルを一新すべき時期を迎え、取引は「必ず、手にする資産の内容に留意しろ」となっていく。

ただ、自分たちはトレーダー集団だから、扱うのはバランスシートに食い込む与信のリスクではなく、相場の変動リスク。そこへ果敢に挑もうと決め、アジア専門のトレーダーを核にしたチームをつくろう、と考えた。当時、シンガポール市場は活況で、国際石油会社の敏腕トレーダーが集まっていた。その何人かをスカウトし、最強集団の新会社をつくる構想だ。

トレーダーの世界は、腕一本で渡り歩く例も多い。取引のあった会社などから、6人が移籍に応じた。ところが、3人を抜かれる石油会社の現地法人の社長が怒り出し、2カ月間の「出入り禁止」を言い渡される、さらに、自社の全世界の社員に「丸紅とは取引するな」とのメールも流された。

バブル崩壊の影響を受け、90年代半ばから丸紅の業績は低迷、シンガポールに赴任した年は46年ぶりの最終赤字となっていた。苦境から脱するには、新たな地平を切り拓くことが欠かせない。アジアや米国で電力の開発や供給に乗り出し、カタールからLNGの輸入を始めるなど、社内には挑戦する機運も出ていた。でも、本社は、待ったをかけてきた。怒りを発したのは、丸紅の重要な取引先。アジアの成長力などを説いたが、叱責を受け、新会社設立は幻に終わる。こうした経験が、社長就任時のメッセージを生んでいく。

シンガポールに約3年5カ月いて帰国した翌年、石油・ガス開発部長になる。当時の丸紅は、インドの油田の合弁事業と英国の北海油田の権益を一部持っていただけで、資源開発では後発組。「成長への布石」が責務だった。

■300人の課長を対話で磨き上げる

新しい仕事には、どんな分野でも刺激や発見があり、挑戦もできる。石油・ガス開発部へいくと、すぐに、そんな機会がきた。米アラバマ州沖のメキシコ湾にある天然ガス田の権益の購入だ。部下に「いくらで買えるのか」と調べさせると、先方は1億3000万ドルから1億4000万ドルの値を付け、丸紅が雇ったコンサルタントも「1億2300万ドルから1億2700万ドルなら、買えるだろう」と言う。でも、トレーダーの感覚で「そんなの、値切るのが当たり前だ」と思い、「9300万ドルで応じてみろ」と指示した。すると、その価格で買えた。

銀行から融資を受ける算段をつけ、そういう案件を扱う投融資委員会に出たら、委員長の副社長に「資金がほとんどないときに、こんなことをやるのか」とあきれられた。投資利益率は社内基準ぎりぎりだったが、天然ガスの国際価格が急騰し、契約を結んだときには利益が確定できていた。珍しい例で「こんなのはツキだけだな」と思う。でも、そういうツキも、挑戦しなければ、訪れない。

いま、シェールガスの開発も続く。海底だけでなく、内陸部にもある。やはり、新しいことに、いろいろと工夫して、挑戦しなければいけない。そう、痛感する。

「依様畫葫蘆」(様に依りて葫蘆を畫く)――型通りに瓢箪を描くだけとの意味で、中国の歴史書からの抜粋を収めた『十八史略』にある言葉。何の工夫もなく、安易にことを終わらせることへの戒めで、「過去の」延長に安住しない國分流は、この教えと重なる。

社長になる前の5年間、経営企画部の担当役員や投融資委員長も経験した。ずっと感じたのは、部門によってものの考え方にばらつきがあり、仕事に対する手法も違う、という点だ。それぞれに、いいところも、悪いところもある。そのいいところを、少しでも底上げできれば、会社はずいぶん伸びるだろう。まだまだ「伸び代」がある、と思ってきた。

この9月下旬、課長たちとの対話を始めた。全社で約300人。1回に30人ずつ集め、海外出張がなければ毎週、本社の会議室で開く。最も若い課長は入社16年目、40代は目前だ。陪席させるのは、人事部の準備役ら3人だけ。役員たちは置かず、自由闊達な雰囲気とする。

社長1年目は、もう少し若い面々と懇談した。みんな、礼儀正しいが、その年代は積極的に意見を言わないし、黙っていられない人たちは「合コンの乗り」になってしまう。まだ、機が熟していないのだろう。やはり、中核となる課長世代の一人ひとりのバージョンアップが、先だ。

言いたいことは、シンプルだ。「我々は、まだまだチャレンジャーとして、成長しなければいけない。もっと成長しよう」ということに尽きる。成長するために、何をやらなければいけないか。新規の投資もあるが、バランスシートの内容をいい形に保持することは崩せない。その制約のなかで、どうやるか、工夫しろ、と言う。

もう一つ、いま持っている資産や取引を、どうすればよりよくできるかを、一人ひとりが考えろ、と言う。「決して、漫然と仕事をするな」と戒め、気持ちから変えてもらう。対話と並行して、どこかの部門が工夫して新しい地平を拓いた事例を、全社に紹介し、「きみらも、やってみろ」とけしかけるメールも送っている。「依様畫葫蘆」に陥っている部署は、なくすつもりだ。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)