『西武と巨人のドラフト10年戦争』(坂井保之+永谷脩/宝島社)
1970年代中盤から1980年代中盤にかけての、新興球団西武と球界の盟主巨人の覇権争いの舞台裏。

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先日、ニュースで久しぶりに見る名前があった。
《日本オリンピック委員会は(6月)27日の評議員会で、堤義明元会長(79)の最高顧問就任を正式決定した》
堤義明……言わずと知れた西武鉄道グループの元オーナー。2020年夏季五輪の東京招致実現に向け、98年長野冬季五輪招致を成功させた同氏の人脈を生かすのが狙いだそうだ。
表舞台から姿を消していたようで、まだまだ影響力は計り知れないんだなぁ、と過日の威光の数々に思いを巡らせた。というのも、堤がもっとも栄華を極めていた時代のエピソードが満載の本をちょうど読んでいたからだ。

『西武と巨人のドラフト10年戦争』
本書は、元西武球団代表で、現在プロ野球経営評論家という肩書きで活動を続ける坂井保之と、スポーツライター永谷脩の共著となる。1977年ドラフト会議における、クラウンライターライオンズによる江川指名から端を発する、いわゆる「江川事件」。そこからの10年間における、西武ライオンズと読売ジャイアンツによる球界の主導権争いを、「ドラフト」という視点でさかのぼっていく内容になる。

この間の西武と巨人のドラフトを巡る争いと言えば……
1978年:江川卓の「空白の1日」
1978年:松沼兄弟の争奪戦(そして異例とも言える、ドラフト外での兄弟セット入団)
1981年:社会人行きを宣言していた工藤公康を西武が一本釣り
1984年:オリエント・エクスプレス郭泰源の争奪戦
1985年:桑田・清原のKKドラフト
などなど、球界史をさかのぼってもエポックな「事件」がたびたび起こった10年間だ。
これらドラフトの裏で、どんなやり取りや裏交渉、金銭の攻防があったのかを明らかにしていくのだが、その形態がとてもユニーク。西武サイドが当時何を意図し、実際にどう動いていたのか、という話を当時の球団代表であった坂井が叙述し、一方の永谷は、江川を始め桑田、清原ら選手サイドが個々の「事件」の際に何を考え、そしてスポーツライターとして自身はどんな取材を重ねていたのかを述懐していく。

本書の中でキーマンとなるのが、冒頭でもその名を挙げた堤義明だ。
堤義明といえば、当時の西武監督・森祇晶が唯一優勝を逃した年に「(来年も)やりたければどうぞ、おやりなさい」という素っ気ないひと言を浴びせたことが象徴するように冷酷な印象しかなく、オーナー会議にもいつも出席せず、「球界のフィクサー」という印象ばかりが先行していたように思う。
しかし、本書における堤義明はとても雄弁で、その威光のほどを遺憾なく発揮する。

「何が何でも巨人に渡すな。これは西武王国の使命だ!」
特に坂井サイドのストーリーにおける堤の言葉の数々は、活字ですら激しい熱量を帯びているものばかり。
(当時の監督・広岡の退任の報を受け)「長嶋を呼べ」
「ルールを破った巨人を許すな」
「巨人にだけは戦力を渡すな。そのためならできることは何でも融通を利かせろ」

そして実際に「何でも融通を利かせ」ていく過程が詳細に描かれていく。
・江川事件を契機に、西武グループの車輛取引の全てが三菱自動車から日産自動車に変更
・雪印製品が西武グループから消えた日
・松沼兄弟獲得のために動いた、利根川の砂利の採掘権
・郭泰源に提示された空白の小切手
・永谷脩が仲介を頼まれた、ずっしりと重たい、レオマーク入りの紙袋(中身は不明)。
etc.

さすがに金額の明示こそないが、生々しいやり取りが赤裸々に綴られていく。
そして、それら交渉の過程で出てくる名前がまたスゴい。巨人軍・渡邉恒雄の後ろには中曽根康弘、堤の後ろには福田赳夫……これじゃ、代理上州戦争だ。他にも岸信介や後藤田正晴ら有名政治家の名や日韓議員連盟という政治団体名。政治家以外でも当時の日本テレビ副社長の氏家斉一郎の名前が重要な役どころで登場する。そして、それらビックネームの隙を縫うように躍動する球界の寝業師・根本陸夫。

本書を読むことで、やっぱりプロ野球はダークだ、金にルーズすぎる! と断ずることは簡単にできる。
だが一方で、最近のプロ野球が失ってしまった泥臭い熱が、ページの端々から滲み出てくる。プロ野球がまだまだ整備されず、それでいて不思議なパワーがあった最後の時代の「人間力」を感じることができる一冊だ。
そして、ひとつのドラフトの失敗、成功の因縁・怨念がその後長きに渡って影を伸ばす、ドラフト制度の難しさも痛感できるハズだ。
坂井はこうも綴っている。
《グラウンド上の戦いは、今日のファンのため。グラウンド外の補強合戦は、明日のファンのため》

(オグマナオト)