日本と中国が戦後、国交を正常化したのは1972年9月29日だった。今年(2012年)でちょうど、40周年だ。日中間には尖閣諸島の問題など、対立の要因も厳然として存在する。中国とのつきあい方をどのように考えればよいのか。公益社団法人日中友好会館の武田勝年理事長に話を聞いた。今回はその前半をご紹介する。ビジネス界の出身ということも関係しているのか、理念と現実認識のバランスが取れた見方が印象的だった。インタビューは9月13日に行った。

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公益財団法人日中友好会館 理事長武田勝年氏

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 今年(2012年)は日中国交正常化40周年にあたる。日本と中国が戦後、国交を正常化したのは1972年9月29日だった。しかし、日中間には尖閣諸島の問題など、対立の要因も厳然として存在する。中国とのつきあい方をどのように考えればよいのか。公益財団法人日中友好会館の武田勝年理事長に話を聞いた。今回はその後半をご紹介する。ビジネス界の出身ということも関係しているのか、理念と現実認識のバランスが取れた見方が印象的だった。インタビューは9月13日に行った。

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■会社のカネ使ったことがバレて“中国畑”歩むことに

武田:会社のカネで中国語を勉強したことが、コンピューターを使った検索でバレてしまいましてね。

……それが、中国関連の仕事を始めたきっかけだったのですか。

武田:はい。中国語との最初の出会いは、大学生の時でした。世界地図を見ると、小さな日本列島がアジア大陸に寄り添っている。世界的にみて言語人口がトップということを考えても、日本は中国と仲良くしないと生きていけないのではと思いました。

 そこで、第二外国語として中国語を選択しました。私は東京大学の文科II類に入学しましたが、同期の文科系学生千数百人のうち、中国語を選択したのは19人だけでした。

 三菱商事に入社したのは1966年。研修生募集がありまして、応募して68年からの2年間、台湾で中国語を勉強しました。その後、本社やシンガポールで勤務しましたが、台湾で研修させてもらったことが、検索に引っかかったんですねえ。「君は、会社のカネで中国語を勉強しただろ」などと言われて、76年12月には中国室に配属され、その後中国を専門に担当することになりました。

 この年は、周恩来首相と毛沢東主席の死去、文革四人組の逮捕、さらに唐山大地震など、中国にとって激動の年でした。

■中国にはスゴイ人がいる、報道だけ見ていると判断誤る

……それ以来、“中国畑”を歩まれたことになりますが、率直に言って中国人はお好きですか。

武田:まあ、好きな方です。日本人には理解が難しい面もありますが、魅力もあります。中国という国も好きな国ですね。中国人と出会って、失敗も成功もありました。それらすべてを通じて、中国という国が好きになりました。

 中国人といってもいろいろですが、とにかくすごい人、レベルの高い人がいます。ビジネスの進め方、人間性、文化や教養。様々な面で「参った。この人はスゴイ」という人と出会んですよ。

……質の悪い中国人のことが報道されることも多いようです。

武田:日本の人口は1億3千万弱。生産労働人口は数千万人でしょうかねえ。その中でみれば、中国人と直接コンタクトする人は少ない。

 ですから、どうしても報道を通じて中国人の動きを知ることが多くなりますよね。ニュースというのは、何か問題があった場合に出てくるもの。あれだけを見ていると、中国人を「いやな奴らだ」と思ってしまうのも、ある意味で仕方がないことなのかもしれませんね。

■ルールは守るが“ぎりぎりOK”狙う人たち

……これまでのご経験で、中国人と接して「これは成功した」というエピソードはありますか。

武田:三菱商事時代の81年から84年は広州で勤務したのですが、広東省の役人から、「これこれをやりたい」と申し入れがあった。ところが、中央政府の通達で禁止されていた方式だったのです。

 だから「だめでしょう」と言うと、広東省の役人は「あなた、広州に来て何年になりますか」と笑うんですねえ。「広東というところでは、中央の通達の穴をみつける、中央のルールどおりじゃ、やっていられませんよ」と言い出しました。

 法律やルールが整備されて、今ではとてもダメですが、地方は地方としての考え方があるのだと痛感しました。卓球で、相手側の台の端っこに当たって、とても打ち返せないような低い軌道で跳ね返るボールがあるでしょう。エッジボールですか。中国語では擦辺球(ツァービィエンチウ)と言います。つまり、ああいう感じのぎりぎりセーフのやり方を狙うんですねえ。

 もっと個人的なことだと、花市のことを思い出します。春節(旧正月)が近づくと、郊外から花やキンカンを運んできて売る屋台がいっぱい出るんです。ところが、北京語をしゃべると、高く吹っ掛けられる。私は広東語がしゃべれませんからね。

 とにかく、出かけてみました。地元の人が花を買っている。その後ろについて、だまって同じ花を指さして、同じ金額を出した。売る人は、私が広東の人間ではない、しかも日本人と気づかずに、同じ値段で売ってくれた。してやったりでした。要するに、よそ者は田舎者とみなして、カモにするんですね。そんなことを実感しました。

■中国ではとりわけ、よい人との出会いが大きな意味持つ

……ビジネスの面で、特に思い出に残っていることはありますか。

武田:成功事例として、三菱商事(上海)の自社ビル建設がありました。上海に勤務していたのは97年から2001年まででした。当初は間借りのオフィスでした。家賃も高い。

 そこで、自社ビルを建てようということになった。当時は浦東新区開発のまっさかりでしてね。そこにビルを持ちたいと浦東新区担当の副市長さんにお願いしたのです。こちらとしては、三菱商事の中国ビジネスのヘッドクォーターを作りたいと考えていました。まあ、簡単に進められるわけはないと、覚悟はしていました。

 ところが、しばらくしたら、上海市の役人から電話があって「候補地があるから、見にいきましょう」と言う。「副市長の指示で」ということでした。

 結局、副市長のご配慮があり床面積5200平米、3階建てのビルを建てることができました。浦東新区の行政センターのど真ん中に、外国民間企業のビルがぽこっとある。

 これは後の話ですが、私が上海を離れてから、中国人スタッフに「そのビルを買いたいという人が出てきた」と聞きました。提示された金額で売ったら、相当に儲かる計算でした。でも、そのスタッフは「売るわけないですよねえ」なんて言っていた。やっぱり愛着があるんです。

 その副市長さんとは、その後10年ほど個人的におつきあいがあり、退任されてからもつきあいは続きました。ビル完成後に、おいでいただいたことがあります。入口で、「さあ、一緒に写真を撮りましょう」と言っていただきました。自分もタッチした仕事ということで、愛着があるんだなと分かりました。やはり、人と人としてのおつきあいは大切です。

 もちろん、何か事業をしようとしたら優れたビジネスプランや先見の明が必須です。これがないと、話になりません。その上での成功のファクターとして、よい人との出会いがあります。

 他の国でも同様ですが、中国では「よい人と出会い」がとりわけ大きな意味を持ってきます。(取材・構成:如月隼人)