G.G.佐藤、イタリアへ
埼玉西武ライオンズを昨年戦力外になったG.G.佐藤(本名は、佐藤隆彦)がイタリアのプロ野球チーム、フォルティチュード・ボローニャ1953に入団したことがわかった。同球団が公式サイトで発表している。
G.G.佐藤は法政大学を卒業後に渡米し、フィラデルフィア・フィリーズの1Aに入団。帰国後はアルバイトをしながらわが国のプロ野球入りを目指し、入団テストを経て2003年のドラフト7位でライオンズに入団した。
ライオンズでは2007〜2009年に20本以上の本塁打を放つなど活躍。2008年には北京五輪の野球日本代表チームにも選ばれたが、2010年に左肩と両ひじを手術。2011年は1軍出場がなく、オフに戦力外通告を受けた。
G.G.佐藤は法政大学を卒業後に渡米し、フィラデルフィア・フィリーズの1Aに入団。帰国後はアルバイトをしながらわが国のプロ野球入りを目指し、入団テストを経て2003年のドラフト7位でライオンズに入団した。
ライオンズでは2007〜2009年に20本以上の本塁打を放つなど活躍。2008年には北京五輪の野球日本代表チームにも選ばれたが、2010年に左肩と両ひじを手術。2011年は1軍出場がなく、オフに戦力外通告を受けた。
野球はアメリカのスポーツで、欧州ではサッカー。そんなイメージを持っている方も、少なくないだろう。
かくいうボクもそうだった。ライオンズは2003年のドラフトで、イタリアのセリアAでプレーしていた投手、小野剛を7位で獲得したが、2001年から2年間、読売ジャイアンツに所属していたというキャリアを知るまで、ライオンズがサッカー選手と契約した、これはチーム1のサッカーファンを自負する平尾博嗣がFA権を行使し、浦和レッズに移籍する日もそう遠くないのでは、と冗談交じりに思った。
欧州はサッカーのイメージが強いが、野球はそもそも欧州から持ち込まれた。その起源は、イギリスの国技であるタウンボールと呼ばれるスポーツや、同じくイギリスで行われていたクリケットとも言われているが、いずれにしろアメリカ大陸が欧州人により発見され開拓されたように、野球も欧州から持ち込まれた。
アメリカに輸入された野球は独自の進化を遂げるのだが、アメリカはその過程で欧州への逆輸入を何度か試みている。
最も有名なのは、アルバート・スポルディングによるイギリス遠征だ。スポーツ用品メーカーのスポルディング社の創始者で知られるスポルディングだが、1870年代にはボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)で投手として活躍。1871〜1875年の5年間で205勝し、打者としても3割を超える高打率を残していた。
そんなスポルディングは、現役時代から商魂たくましく、野球の普及、用具の市場拡大を目的に、イギリス遠征を計画。1874年には、レッドストッキングス、フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックスとは別の球団)を引きつれ、リバプール、マンチェスター、ロンドン、シェフィールド、ダブリンなどで野球を披露した。
野球の逆輸入は、その後も行われた。1888年には世界遠征が計画され、メジャーリーグ選抜チームはオーストラリアに始まり、スリランカ、エジプトを回り、欧州ではイタリアのナポリ、フランスのパリ、イギリスのブリストル、バーミンガム、グラスゴー、マンチェスター、リバプール、ベルファストなどを訪れた。
1913年の遠征では、メジャーリーグ選抜はわが国の横浜、東京、神戸、長崎で転戦した後、中国、フィリピン、オーストラリア、スリランカ、エジプトを経て、欧州ではイタリアのナポリ、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、モナコ公国のモンテカルロ、フランスのニース、マルセイユ、パリ、ドイツのベルリン、オランダのアムステルダム、イギリスのロンドン、エジンバラ、グラスゴー、ダブリンを回った。
遠征したチームは、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)とシカゴ・ホワイトソックスの混成だった。
彼らの努力も空しく、欧州ではアメリカほど野球が普及していないのは歴史が示すとおりだが、中には野球に積極的な国もある。オランダとイタリア、ドイツ、スペインだ。
国際野球連盟の最新ランキングでは、1位がキューバで、以下アメリカ、韓国、日本と続くが、オランダは日本に次ぐ5位。イタリアは13位、ドイツは17位、スペインは18位と、トップ20位内にランクインしている。
2009年に開催された第2回WBC(World Baseball Classic)では、オランダが予選第2ラウンドまで進出。最終順位は7位だった。
欧州出身のメジャーリーガーも、少ないがいる。シカゴ・カブスのジェフ・ベーカー、ワシントン・ナショナルズのエドウィン・ジャクソンはドイツ、ボルティモア・オリオールズのリック・バンデンホークはオランダ、シアトル・マリナーズのアレックス・リッディはイタリア出身だ。
また、わが国では千葉ロッテマリーンズで活躍したヴァル・パスクチはイタリア系アメリカ人として、2006年のWBCではイタリア代表チームに参加した。
根強いサッカー人気を誇る欧州だが、野球も息づいているのがわかる。
追記
G.G.佐藤はヒーローインタビューではユニークなパフォーマンスで人気を博したが、ライオンズでの晩年は、本塁打やタイムリー・ヒットの後にはファンからのコールに応えるものの、どこか事務的で、ボクの周囲ではあまり評判が良くなかった。
「最後の4割打者」で知られるボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムズも、パフォーマンスが嫌いで、自身の引退試合でも帽子を取ってファンに応える仕草ひとつ見せなかった。
ファンやメディアからは不満の声が上がったが、これについてニューヨーカー誌の記者で、後に作家となるジョン・アップダイクは「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。
ウィリアムズの背番号9はレッドソックスの永久欠番で、本拠地のフェンウェイ・パークでは、ウィリアムズの像が今もレッドソックスに檄を飛ばしている。
G.G.佐藤も愛想が悪くても、ウィリアムズのように活躍できたのなら、球団も手放さなかっただろうし、ファンにもっと支持されていただろう。
欧州はサッカーのイメージが強いが、野球はそもそも欧州から持ち込まれた。その起源は、イギリスの国技であるタウンボールと呼ばれるスポーツや、同じくイギリスで行われていたクリケットとも言われているが、いずれにしろアメリカ大陸が欧州人により発見され開拓されたように、野球も欧州から持ち込まれた。
アメリカに輸入された野球は独自の進化を遂げるのだが、アメリカはその過程で欧州への逆輸入を何度か試みている。
最も有名なのは、アルバート・スポルディングによるイギリス遠征だ。スポーツ用品メーカーのスポルディング社の創始者で知られるスポルディングだが、1870年代にはボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)で投手として活躍。1871〜1875年の5年間で205勝し、打者としても3割を超える高打率を残していた。
そんなスポルディングは、現役時代から商魂たくましく、野球の普及、用具の市場拡大を目的に、イギリス遠征を計画。1874年には、レッドストッキングス、フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックスとは別の球団)を引きつれ、リバプール、マンチェスター、ロンドン、シェフィールド、ダブリンなどで野球を披露した。
野球の逆輸入は、その後も行われた。1888年には世界遠征が計画され、メジャーリーグ選抜チームはオーストラリアに始まり、スリランカ、エジプトを回り、欧州ではイタリアのナポリ、フランスのパリ、イギリスのブリストル、バーミンガム、グラスゴー、マンチェスター、リバプール、ベルファストなどを訪れた。
1913年の遠征では、メジャーリーグ選抜はわが国の横浜、東京、神戸、長崎で転戦した後、中国、フィリピン、オーストラリア、スリランカ、エジプトを経て、欧州ではイタリアのナポリ、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、モナコ公国のモンテカルロ、フランスのニース、マルセイユ、パリ、ドイツのベルリン、オランダのアムステルダム、イギリスのロンドン、エジンバラ、グラスゴー、ダブリンを回った。
遠征したチームは、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)とシカゴ・ホワイトソックスの混成だった。
彼らの努力も空しく、欧州ではアメリカほど野球が普及していないのは歴史が示すとおりだが、中には野球に積極的な国もある。オランダとイタリア、ドイツ、スペインだ。
国際野球連盟の最新ランキングでは、1位がキューバで、以下アメリカ、韓国、日本と続くが、オランダは日本に次ぐ5位。イタリアは13位、ドイツは17位、スペインは18位と、トップ20位内にランクインしている。
2009年に開催された第2回WBC(World Baseball Classic)では、オランダが予選第2ラウンドまで進出。最終順位は7位だった。
欧州出身のメジャーリーガーも、少ないがいる。シカゴ・カブスのジェフ・ベーカー、ワシントン・ナショナルズのエドウィン・ジャクソンはドイツ、ボルティモア・オリオールズのリック・バンデンホークはオランダ、シアトル・マリナーズのアレックス・リッディはイタリア出身だ。
また、わが国では千葉ロッテマリーンズで活躍したヴァル・パスクチはイタリア系アメリカ人として、2006年のWBCではイタリア代表チームに参加した。
根強いサッカー人気を誇る欧州だが、野球も息づいているのがわかる。
追記
G.G.佐藤はヒーローインタビューではユニークなパフォーマンスで人気を博したが、ライオンズでの晩年は、本塁打やタイムリー・ヒットの後にはファンからのコールに応えるものの、どこか事務的で、ボクの周囲ではあまり評判が良くなかった。
「最後の4割打者」で知られるボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムズも、パフォーマンスが嫌いで、自身の引退試合でも帽子を取ってファンに応える仕草ひとつ見せなかった。
ファンやメディアからは不満の声が上がったが、これについてニューヨーカー誌の記者で、後に作家となるジョン・アップダイクは「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。
ウィリアムズの背番号9はレッドソックスの永久欠番で、本拠地のフェンウェイ・パークでは、ウィリアムズの像が今もレッドソックスに檄を飛ばしている。
G.G.佐藤も愛想が悪くても、ウィリアムズのように活躍できたのなら、球団も手放さなかっただろうし、ファンにもっと支持されていただろう。
バックスクリーンの下で 〜For All of Baseball Supporters〜
野球は目の前のグラウンドの上だけの戦いではない。今も昔も、グラウンド内外で繰り広げられてきた。そんな野球を、ひもとく
ランキング
- 総合
- 国内
- 政治
- 海外
- 経済
- IT
- スポーツ
- 芸能
- 女子