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腸と脳が情報のやり取りをして、お互いの機能を調整している<脳腸相関>と呼ばれるメカニズムが、いま注目されています。東京大学大学院総合文化研究科の坪井貴司教授いわく、「腸内環境の乱れは、腸疾患だけでなく、記憶力の低下、不眠、うつ、肥満、高血圧、糖尿病……と、全身のあらゆる不調に関わることがわかってきている」とのこと。そこで今回は、坪井教授の著書『「腸と脳」の科学 脳と体を整える、腸の知られざるはたらき』から、腸と脳の密接な関わりについて一部ご紹介します。

【書影】最新研究で見えてきた、腸と脳の驚きのしくみを解説。坪井貴司『「腸と脳」の科学 脳と体を整える、腸の知られざるはたらき』

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腸内マイクロバイオータとは

脳から腸への情報伝達は、視床下部の神経内分泌細胞が分泌するホルモンや遠心性神経が関与します。

一方で、腸から脳への情報伝達は、求心性迷走神経(内臓感覚神経)や消化管に存在する腸内分泌細胞が分泌する消化管ホルモンが関与します。

これに加え、近年になって、脳腸相関(腸と脳が相互に情報をやり取りしながら、お互いに影響を及ぼし合っているという概念)に新たな役者が登場しました。

それは、腸内に存在する細菌、ウイルス、真菌です。

このような微生物の集団は、あたかも色々な種類の植物が群生しているように見えることから、「フローラ(細菌叢<そう>)」といい、腸内に棲みつく微生物の集団は一般的に「腸内フローラ」と呼ばれます。

専門家の間では、この腸内フローラのことを腸内常在微生物叢(腸内マイクロバイオータ)と呼びます。以降、本記事では「腸内マイクロバイオータ」とします。

なおヒトの大腸には、500〜1000種類、約40兆個もの腸内マイクロバイオータが存在すると考えられています(1-1)。

私たちの体の細胞数は約37兆個ともいわれていますので(1-2)、ほぼ同じだけの数の腸内マイクロバイオータが消化管の中には存在しているのです。

ヒトが消化できない物質も分解

私たちは毎日食べ物を摂取しますが、摂取したものをすべて消化し、吸収できるわけではありません。

例えば、野菜に含まれている食物繊維は、消化・吸収できません。一方で、腸内マイクロバイオータは、私たち自身が消化・吸収できないさまざまな物質を分解できます。

これは、腸内マイクロバイオータが持つさまざまな遺伝子のはたらきを調べることで明らかになりました(1-3)。

腸内に棲んでいるさまざまな腸内マイクロバイオータの遺伝子の数を合計すると、約2000万個もあると見積もられています。

私たちヒトの細胞の中に保存されている遺伝子の数は、約2万2000個ですので、腸内マイクロバイオータがいかに多くの遺伝子を保有しているのかがわかるかと思います。

腸内マイクロバイオータは、私たちヒトが消化できない食べ物に含まれる食物繊維や油脂などを分解し、短鎖脂肪酸などを産生します。

肉の脂やバター、オリーブオイルや大豆油などを合わせて油脂と呼びますが、これら油脂の主成分は、グリセリンに脂肪酸と呼ばれる炭素原子が鎖状に多数つながったものです。

この炭素数が6個以下のものを短鎖脂肪酸と呼び、酢酸、プロピオン酸、酪酸などがあります。

私たちの腸内に存在する「隠れた臓器」

腸内マイクロバイオータの中には、ビタミンB類やビタミンKなどを産生するものが存在します。

例えば、私たちが普段食している納豆に含まれる納豆菌は、ビタミンKを産生します。この納豆菌と同じはたらきをするマイクロバイオータが腸内に存在します。


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また、神経伝達物質であるセロトニンは、腸内マイクロバイオータがL−トリプトファンから産生する代謝物や、腸の粘膜細胞が産生する5−ヒドロキシトリプトファンを原料として産生されます。

乳酸菌やビフィズス菌の中には、γ(ガンマ)−アミノ酪酸(GABA<ギャバ>)を産生するものも存在します。

ちなみに、私たちは、腸内マイクロバイオータが産生した短鎖脂肪酸を体内のエネルギー源として利用し、ビタミンKは血液を凝固させるために利用しています。

セロトニンやGABAといった神経伝達物質は、腸管神経系の活動を調節するために用いられています。

このように腸内マイクロバイオータは、私たちヒト自身が体内で産生できない物質を作り出せるので、「隠れた臓器」とも呼ばれています。

ヨーグルトが長寿の秘訣?

腸内マイクロバイオータは、どのようにして注目を集めるようになったのでしょうか。それは、ある科学者の先駆的な発想がきっかけでした。

1908年にノーベル生理学・医学賞を受賞したウクライナの微生物学者イリヤ・メチニコフは、免疫のしくみを解明した功績が知られていますが、晩年は、老化に関する研究に取り組んでいました。

大腸に便が滞留することで大腸内に棲んでいる腐敗菌が有害物質を産生し、それが細胞の老化を早め、短命の原因となっているのではないか、と考えるようになったのです。

また、古来ブルガリア地方に100歳以上の人々が多いことに注目し、この地方の食事を調べました。

その結果、他の地方と比較してヨーグルトが愛飲されていることに気づき、ヨーグルトこそが長寿の要因ではないかと考えるに至ったのです。

そこで、ヨーグルトを飲むことで乳酸菌が腸内に棲みつき、有害物質を産生する腸内の腐敗菌を駆逐し、長寿を得ることができるのではないかという「メチニコフのヨーグルト不老長寿説」を唱えました。この説によって、ヨーグルトがヨーロッパで広く普及するようになりました(1-4)。

メチニコフが所属していたパスツール研究所では、1899年に母乳を飲んでいる新生児の糞便からビフィズス菌が発見されており、腸内のビフィズス菌の生態に対する生理作用について研究が行われていました。

ちなみにパスツールは、「細菌の存在なくして生命は成り立たない(Life is not possible without bacteria.)」との名言を残したともいわれています。

これらのことも、メチニコフがヨーグルト不老長寿説を唱えることにつながったのではないかと考えられています。

・参考文献
1-1 Sender R et al., Cell 164, 337-340, 2016.
1-2 Bianconi E et al., Annals of Human Biology 40, 463-471, 2013.
1-3 Tierney BT et al., Cell Host & Microbe 26, 283-295, 2019.
1-4 Metchnikoff E, Essais Optimistes, A. Maloine, Paris, 1907.

※本稿は、『「腸と脳」の科学 脳と体を整える、腸の知られざるはたらき』(講談社)の一部を再編集したものです。