「こら! 檀家さんが亡くなってるんだぞ」離婚したばかりの住職の子どもたちが「お通夜がある日」にウキウキする“意外すぎる理由”〉から続く

 意外と知らない「お寺の経済事情」や、決して「気楽」とは言えない暮らしぶりを、浄土宗・龍岸寺住職の池口龍法さんの新刊『住職はシングルファザー』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

【写真】「檀家さんが亡くなってるんだぞ」離婚したばかりの住職の子どもたちが「お通夜の日に食べる」ゴチソウとは


(写真提供:龍岸寺)

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お寺の経済事情

 さて、ひとり親家庭の親が子育てと同じぐらい悩むのが、仕事面だろう。

 子育てには、お金がかかる。食費や習い事の月謝だけではない。子供用の服や靴は大きめのものを買っておけば翌年までは持つが、その次の年にはサイズアウトする。傘はしょっちゅう壊したり、置き忘れたりして帰ってくるから頻繁に買い替えることになる。財布のお金はボロボロボロボロ出ていく。

 それでも、不自由な思いをさせたくない。そのためには仕事のクオリティを極力キープして稼がなければいけない。でも、子育てに体力も時間も奪われるのに、離婚前と同じクオリティで仕事をするのは途方もなく難しいのである。

 お寺での暮らしは、一般家庭と比べて金銭的には恵まれている。

「お坊さんは税金を払わなくていい」とよく誤解されているが、お寺からいただく毎月の給料に対しては、お坊さんもやはり所得税や住民税の納税義務がある。ただし、住職とは、その言葉が示す通り、お寺に住み込んで維持管理に尽くすのが職務だから、家賃がかからない。

 これはシングルファザーとして生計を立てていくうえで、大きなアドバンテージだった。食費も、檀家さんが畑でとれた野菜をたくさんくださったりするし、果物やジュースなどは、仏さまへのお供えのおさがりをいただけるから、だいぶ節約できる。だから、贅沢しなければ、金銭面はやりくりできるだろうと予想していた。

お寺には休日がない

 果たして、ひとり親家庭において、子育てと仕事の両立は可能なのだろうか――。

 手がかりを求めてさんざんネット上をさまよった。似たような境遇で、子育てと仕事を両立させている人がいれば、自分だってやれそうな気がしてくるはずである。しかし、他のシングルファザーの体験談を読んでも、どうも最後のところで参考にならない。お寺の住職というのは、サラリーマンの生活スタイルとはかけはなれているからである。

 せっかくなので、お寺の生活がいかに特殊なのかを書いておきたい。

 一番わかりやすい違いは、「休日がない」ことだろう。

 離婚前、お寺の住み心地の悪さに対して、妻は「ブラック企業だ」としきりにため息をついていた。「そこまで言わなくても……」と思ったが、一理あるのも事実だった。

 会社勤めの人たちに比べ、お寺の時間はゆるやかに流れていく。お彼岸やお盆などの「繁忙期」は檀家さんがこぞってお寺に来られるので、朝から晩までずっとその対応に追われることになるが、特に大きな法要などのない時期はわりと暇である。でも、だからといって気を抜いてダラッとできる日は、一日たりとも存在しない。

 どんな二日酔いの朝でも、起きたら作務衣に着替えて決まった時間に山門を開け、本堂で勤行をするところから一日が始まる。これはもう三百六十五日を通じて変わらない。住職になって以降、私服を着る機会もほとんどなくて、Tシャツとジーパンでふらっと出かけるのは家族旅行の時ぐらいである。

 サラリーマン家庭なら、週末を「おうちでゴロゴロ」して過ごすという魅惑の選択肢があるらしいが、お寺の週末は法事の受入れでピリピリしている。定休日がないどころか、観光寺院と違って街中のお寺は開店時間や閉店時間も決まっていない。世間が長期休暇に入るお盆や正月は繁忙期のピークで、寝正月など夢のはるかまた夢である。

 だから、「ブラック企業だ」と言われれば一理あるのだが、妻にそう言われると私も立つ瀬がない。なにせ私は、テレビや新聞などの取材に対して「お寺を社会に開きたい」と言ってきた人間だ。

 妻には、「毎朝、お寺の門を開けて、地域の人々の心の扉を開くのだ」「本堂から読経の声や木魚の音を響かせれば、通りがかった人は心に凛としたものを抱く」と言い返し、「こんなに社会の役に立てる仕事はまったくホワイトではないか」とあらがった。でも、お寺の生活の背景にある意味をいくら説明しても、妻は納得してくれなかった。どんな美しいエピソードも、お寺のなかに住んで自分事として引き受ける身になれば綺麗ごとでは済まないという風だった。

お寺には、プライベートがない

 もうひとつ、サラリーマン家庭とお寺との大きな違いは「プライベートが存在しない」ことである。

 お寺は住職一家の所有物ではない。檀家さんたちの寄付によって建立され維持されてきた「みんなの家」であり、住職は住み込みでそこを管理しているにすぎない。

「みんなの家」だから、檀家さんは近所のカフェやスナック感覚でふらっと訪ねてくる。住職は読経にでかけていたりすることも多いため、檀家さんと話すのはたいてい留守を預かる奥さんのつとめになる。

 でも、奥さんだってお寺にいてダラダラ寝転んでテレビを見ているわけではなく、ほとんどの時間は料理や掃除など家事をしている。ファミリーマンションと違って、広い本堂や庫裏は掃除機をかけるだけでも一仕事である。

 しかも、頻繁に来客や電話が入ってくる。住職が帰ってくるまでにご飯の支度をしておくつもりでも、檀家さんの声がすれば直ちに火を止めなければいけない。あと少しで洗濯物を干し終わるところでも、中断して玄関口へ向かわなければいけない。そして、ニコニコと世間話に興じる。話はいつ終わるかわからない。

 何げなく「お変わりないですか?」と聞くと、「実はガンを患って……」と打ち明けられ、重たい悩みをひとしきり聞くこともある。帰って行かれた時には鍋はもう冷めている。再び火にかけ、冷めた鍋を温める。干し切れなかった洗濯物のもとへと向かう。しかしまた、次の檀家さんがやってくる。すぐに終わるはずの家事がいつまでも終わらず、やりきれない思いだけが増幅していく。

 もしそんなタイミングで私が帰宅しようものなら、飛んで火に入る夏の虫である。待ち受けるのは「おかえりなさい」という言葉よりも先に、「私だって自由な時間がほしい」という不満である。私からすれば、「みんなの家」に住まわせてもらっている分、家賃も要らないのだから多少我慢したらいいと思うが、そう前向きにとらえられるのは私がお寺の生活に慣れているからに他ならない。サラリーマン家庭で育った妻が戸惑う気持ちもよくわかった。

(池口 龍法/Webオリジナル(外部転載))