社内恋愛には、なぜ「ちょっと冷めた感じ」がつきまとうのか? その意外なメカニズム

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過去の恋愛を思い出してうめきたくなる

みなさんこんにちは、ウェブ媒体の編集をしているMといいます。34歳の男性です。

ふだんは小説や文芸のジャンルとは離れたところで仕事をしていますが、ここではそんな「傍流編集者」の立場から、「文学のちょい読み」をしていきます。

今回読むのは、高瀬隼子さんの短編集『新しい恋愛』。高瀬さんは『おいしいごはんが食べられますように』(2022年)で芥川賞を受賞した気鋭の作家です。

『新しい恋愛』は、読んでいると、何度も自分の過去の恋愛……あるいは「恋愛未満のなにか」を思い出してうめきたくなるような不穏さをたたえた作品で、とくになにがスゴいかと言うと、小説の感想としては陳腐なんですが、「言葉にする力」が凄まじい。

「自分があのとき感じていたのはこんな気持ちだったかもしれない」とか「あの知り合い、こんな気持ちだったのかも」とか「あの気持ちはそういうしくみで生まれるのか!」といった思いを抱くことが、作品を読んでいるあいだ何度もありました。人間の感情への細やかな観察と、それを言葉に変換する技術に圧倒されます。

たとえば、「花束の夜」という短編。この話は、大学を出たばかりの新卒一年目の会社員・水本が、自分の指導係である少し上の先輩社員・倉岡(高校時代の部活は野球。エネルギッシュ。独身で恋人はいるらしい)とのこれまでの関係を振り返るという内容です。二人は正式に交際こそしていないものの、肉体関係をもっていました。

(以下、作品の中身にふれているところがありますので、ちょっとでもネタバレされるのが嫌という方は、「花束の夜」を読んだあとにぜひ残りをお読みくださいませ)

さて、倉岡はメンターとして水本を数ヵ月指導したあと、このたび会社をやめることになったのですが、話の舞台は、その送別会がひらかれた夜のこと。倉岡は、自分がもらった送別の花束を「いらない」と水本に押し付けるのです。

水本は一人、その大きな花束をどうしたものかと迷いながら、夜の町をウロウロと歩き回ります。この花束のゆくえは、水本が倉岡との関係をどう整理していくのかということと重ねられている雰囲気があり、花束と二人の関係がどうなってしまうのかを、読者は緊張感をもって読むことになります。

なんか冷めた感じ

ところで、この短編のなかで思わず「おー!」と声をあげたのが、水本が倉岡を好きになったときの気分を描写した部分です。以下に引用します。

〈(倉岡は)水本を置いて先に帰ることはなかったし、うまくいかなくても根気良く繰り返し教えてくれた。トラブル対応を毅然とこなす姿をかっこいいと思ったし、二人になった時にこぼす上司の愚痴で互いの距離が近くなった感覚もあった。多分、自分はこの人を好きなのだろうとうっすら自覚した。同じように、好きだけどそれは毎日同じ場所で同じ業務にあたっている信頼と距離の近さに、年齢相応の性欲が重ねられた程度のものだろうという生真面目な自己分析も捗った〉

会社という空間において人を好きになるときのどうしようもない感じというか、奇妙に現実的な感じ、冷めている感じ、でもやっぱり好きだなという感じが、ありありと伝わってきませんか?

この「ちょっぴり冷めた好き」と対になるように描かれるのが、水本の学生時代の恋愛です。水本は野木くんという友人に思いを寄せていましたが、野木くんには恋人がいるらしく、彼とよき友人関係を継続させたい水本は、自分の思いを伝えることを選びません。そして、思いを伝えず友人関係を継続させられたことに「自信」すら抱いているのです。純真ですね。

「妙に純真な学校での恋愛」と「ちょっぴり冷めた会社での恋愛」の不思議なギャップ。いったいどうしてこんなギャップが生まれるのだろうか。考えさせられるところがありました。

……と言っても、ふつうのことなんですが、私が考えたのはこんなことです。学校というのは、基本的に人間関係を築くことでなにかを達成する場所ではありません。そこでは、人間関係を築くこと自体が目的になっても、その関係を使ってなにか目的を達成する機会は少ない。好きな人とは一緒にいればいいし、好きな人がいなければ一人でいてもいい。

一方で、会社はそれとは違って、人間関係が「売り上げ」や「利益」といった強固な目的のために存在しています。不純な(?)目的を起点にして、それにブラさがるように人間関係が形成されているわけです。で、そうした関係は、どこまでいっても根本のところに不純さがあるように思えてしまう。いくら親密な関係になったとしても、それを純粋な関係としてとらえることができない……。

水本が倉岡さんに惹かれつつも、「生真面目な自己分析」をしてしまうのも、会社という場所でかたちづくられる人間関係のこんな特性が影響しているのではないか……というのが、私の勝手な見解です。

そういえば先日、社会人10年目の同僚が「大学を卒業してから、新しく友だちをつくれていない」と言っていましたが、この発言にも、会社というものがもっている独特の性質が関わっているのかもしれません。

本短編、そして、この短編集全体をゆるく通底しているのは、「だれかを好きになるときに、なにか不純なものが入り込んでくる感覚」であるように見えます。ポップで可愛い装丁にちょっぴり油断して読み始めると、どこか不穏で、不安で、落ち着かない気持ちになる……それは、この本が、自分のなかにある「不純」を突きつけてくるからかもしれません。

【さらに読む】「最も高いことないな、恋愛が自分の人生で。芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』の著者が綴る、恋愛に関する率直な気持ち」の記事では、本作の著者・高瀬隼子さんの恋愛観が明かされます。

最も高いことないな、恋愛が自分の人生で。芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』の著者が綴る、恋愛に関する率直な気持ち