命がけの在宅障害者の家庭訪問

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1957年、東京の養護学校の同窓会として発足した青い芝の会は、障害を持つわが子を殺めた母親に対する減刑嘆願運動への抗議から、運動団体へと変化していく。“殺される側”からの異議申し立てだった。「愛と正義を否定する」「問題解決の路を選ばない」「健全者文明を否定する」などの行動綱領をかかげ、全国展開をはかる。差別反対運動をすすめる一方で、外出を促すため、在宅障害者を訪問した。兵庫青い芝の福永年久が経験した命がけの在宅訪問とは――。

本記事は『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(角岡伸彦著・講談社刊)の一部を抜粋・再構成したものです。

『カニは横に歩く』第2回

第1回「施設占拠、バスジャック……愛と正義を否定し、健全者社会に刃をつきつけた障害者団体があった」より続く

「お前ら、殺してもたろかー!」

在宅訪問で福永が印象に残っている出来事がある。

70年代の半ばのことである。後に福永が自立生活を始めることになる兵庫県姫路市内に、書写養護学校高等部を卒業後、在宅生活を送っていた20代半ばの女性障害者がいた。母親と死別し、父親と二人で暮らしていた。四肢、言語ともに最重度の障害者で、父親は誰も家に入らぬよう厳重に戸締まりをしてから出勤していた。福永とグループ・ゴリラ(※)のメンバーは、時折、彼女の家を訪問した。しかし、鍵がかかっているので家の中に入ることができない。彼女もなんとかしてにじりよって窓の鍵を開けようとするのだが、一度も成功したことがなかった。

「また、今度来るわな」

窓越しに声をかけて帰ることもあった。

そんなことが何度か続いたある日、父親がいない昼間に、福永の指示で小柄なゴリラの男のメンバーが便所の窓から侵入し、彼女を連れ出した。青い芝の事務所で数日間を過ごし、福永が仲間とともに家に送り届けた。

「こんにちはー」

福永が声をかけて玄関に入ると、父親が抜き身の日本刀を持って立っていた。

「お前ら、殺してもたろかー!」

父親が声を上げると、福永は秒速で車イスから降り、勝手に娘を連れ出したことを土下座して詫びた。

それでも父親の怒りは収まらなかった。

「警察を呼ぶぞー」

父親の恫喝におののいた一行は、あわてて玄関から飛び出した。

(※)グループ・ゴリラ…関西で結成された介護者の組織

外出を許されず、自ら命を絶つ

その後、父親の管理は前にもまして厳しくなった。父親が出勤している昼間は、食べることはおろか飲むこともできなかった。彼女は次第に衰弱し、31歳の若さで自宅で亡くなった。

姫路のグループ・ゴリラのメンバーとして彼女と付き合いがあり、この日本刀事件にも立ち会った福田かおりが語る。

「彼女は家を出て自立したかった。いま考えたら、とても無理やと思うけど。24時間、介護が要るわけやし、当時はデイサービスがあるわけやないしな。あのこと(日本刀事件)があってから、家から一切出られへんようになった。わたしらとの関係も切られてしもた。あれから何も食べられへんようになった。餓死やな、自死や。彼女が死ぬんは、それしか方法ないからなあ。ショックやった。

彼女はゴリラのある男性を好きやった。でも、あんなことがあって、その人とも会えなくなった。お父さんの介護も嫌や言うてたしな。おとんや男の人に介護されて何も思わへん人やなかったから。

あの人も生きとったら、今ある制度を使(つこ)て、他の障害者に影響を与えられる、そういう人やったと思うよ。今やったら簡単に自立をクリアできてるのに……」

どんな時代にどんな家庭に生まれるかによって、障害者の生き方は左右される。自分が面倒を見なければ、とわが子を抱え込みがちな親から救い出すのが、青い芝の在宅訪問活動だった。

外出の条件は、親からの信頼

在宅訪問は青い芝のメンバーが一人で行くこともあったし、グループ・リボン(※)のメンバーが同行することもあった。また、リボン単独で訪れることもあった。神戸のゴリラのメンバーだった木下順は在宅訪問について次のように語る。

「一番難しかったのは、いかに障害者を外に出すかということなんですよ。障害が重度であればあるほどそうなんだけど、親にこいつに命を預けてもかまへんと思わせなあかんわけです。親には自分が誠心誠意あなたの子供さんと付き合っていきたいんだっていう思いを見せる。本人と親の思いが逆の場合があるから。親にしてみたら、楽しく遊ばせてくれるボランティアのお兄さん、お姉さんなわけでしょ。でも障害者は自分のしたいことをさせてくれるかもしれへんと思てる。その両方を納得させなきゃいけないというのは難しいんですよ。ごまかしは通用しないね」

障害者本人は外に出たい、できたら自立したいと思い描いているのに対して、多くの親は子供を外出させたくない、ましてや自立などもってのほかと考えている。訪問者はその狭間で双方にうまく取り入らなければならなかった。

青い芝が関西の各地で結成される頃、そのメンバーの中から、在宅生活でも施設でもない、自立生活を始める者がではじめた。関西青い芝の代表の鎌谷正代は、グループ・ゴリラのメンバーと73年から大阪府内で同棲生活を始めた。鎌谷に誘われて青い芝に入った松本孝信も、74年の夏に大阪府内にアパートを借り、独り暮らしを始めている。ちなみに当時の松本は比較的軽度の障害者で、介護を必要としなかった。

就職が困難な障害者は、自立するにはまず何よりも生活保護を取得しなければならなかった。そのためには障害の等級をめぐり、医師とかけひきをしなければならないこともあった。松本が当時を振り返る。

「自立したい障害者は全部自分で準備する、というのが当時の青い芝の原則やった。それができなんだら、自立生活なんてできひんと言われた。それまで持ってた障害者手帳は比較的軽度の三級やった。生活保護をとるために診てもらった医者は『歩けるやないか』と言う。『歩けるけど、車が通ってる時に歩いたら、どれだけ怖いかわかるか。それを恐れて道が歩けなかったら、実質的に歩けんのと同じやないか。手ェかて動く、字ィも書けるけれども、あんた読めるか?字ィ読めなんだら書けへんのと同じことやないか』。

そう言い返した。そしたら三級が一級になった。赤十字病院の整形外科のエライさんとやり合ったから、行政もなんも言えんわな」

かくして松本は、三級から一級の“二階級特進”を果たしたのだった。松本ほどの交渉力を持つ者はそういないにしても、青い芝のメンバーの中には、軽度であるにもかかわらず重度を装い、等級を上げさせる障害者が少なからずいた。就職の機会がほとんどなかった障害者ゆえの名演技であった。

(※)グループ・リボン…兵庫県姫路市の養護学校を卒業した同窓生の組織

第3回「重度障害者が施設を占拠――”無法者”たちのてんまつ」に続く

重度障害者が施設を占拠――“無法者”たちのてんまつ