イスラエル国防軍のXより

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 ガザ地区に苛烈な攻撃を続けるイスラエル軍は、男女関係なく兵役の義務を負う徴兵制で成り立つ。だが、近年は軍に対する国民の信頼が低下傾向に……。“中東最強軍”を悩ます問題の根は意外にも、国家のアイデンティティーそのものであるユダヤ教にあった。【曽我太一/ジャーナリスト】

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【写真を見る】戦闘部隊の女性兵士・ミア伍長

 イスラエルのミサイル迎撃システム「アイアンドーム」といえば、軍事はもちろん、国際情勢に関心のある人なら一度は耳にしたことがあるだろう。パレスチナ・ガザ地区の武装勢力ハマスなどが発射する無数のロケット弾を、最新テクノロジーを駆使して追跡し、迎撃する。「中東のシリコンバレー」とも呼ばれる都市テルアビブのまさに上空で行われた昨秋の迎撃は、映画のワンシーンさながらの現実が一般市民によって撮影され、すぐにSNSで拡散された。

イスラエル国防軍のXより

中東最強といわれるイスラエル軍

 筆者は以前、アイアンドームの生みの親といわれるイスラエル国防省研究開発局のダニエル・ゴールド局長に単独インタビューをしたことがある。攻撃対象とされた地域をアイアンドームによって瞬時に特定し防衛することで、他の地域での経済活動を止めずに国家の安全を守ることができるという、“常在戦場”のイスラエルならではの発想には、感心を覚えた。

 そのアイアンドームを運用するのが、「中東最強」とも喧伝されるイスラエル軍だ。日本の四国ほどの大きさしかない小国の軍だが、エジプトやレバノン、それにシリアなど周辺のアラブ諸国と数々の戦争を戦い、国民の安全を守り続けてきた。その輝かしい実績は、イスラエル人の子供であれば学校教育段階からたたき込まれる。なぜならば、その子供たちが将来必ず直面するのが、軍の根幹である「徴兵制」だからだ。男女関係なく原則として全国民が徴兵される文字通りの「国民皆兵」である。

徴兵制こそがアイデンティティー

 徴兵制が導入されたのは建国直後の1948年。約600万のユダヤ人が虐殺されたホロコーストの悲劇のあと、人口およそ60万人の「ユダヤ人国家」イスラエルが、アラブ諸国のど真ん中に建国された。強大な敵に囲まれる中、国内のあらゆる人的資源を兵力、もしくは軍を支援する軍事要員として動員できる体制の構築は急務だった。

 イスラエル国家安全保障研究所(INSS)のメイル・エルラン上席研究員は、「私たちの思考は、軍事的に十分に強くなければ、安全保障が脅かされ全滅してしまうという大前提に基づいている。これはイスラエルに生まれた瞬間から身に付く感覚だ。国民全てを動員することで、国家の小ささという現実と、大きな軍隊を持ちたいという理想の間のギャップを埋める。そのために全員が協力しなければならないという発想だ」と、徴兵制こそが国の根幹でありアイデンティティーだと語る。

女性も従軍

 一般的な徴兵期間は、男性の32カ月に対し、女性は24カ月とやや短い。女性の場合、以前は就くことができる職務に制限があり、秘書などのバックオフィスでの仕事が多かったが、近年は軍内でもジェンダー意識が改善され、エリート戦闘部隊や戦闘機パイロットなど「よりプロフェッショナルな職務」(エルラン上席研究員)に就くことが増えている。

 筆者は今年2月、エジプトとの国境周辺に配備されている戦闘部隊の女性兵士ミア伍長に電話で話を聞いた。ミア伍長は、出身地は明かせないものの、国外のユダヤ人がイスラエルに移住(帰還)する制度「アーリヤ」を利用し、イスラエル国籍を取得した。親や祖父母がユダヤ人であれば、イスラエルへの移住が可能になるというこの制度を利用して、例年約2万人から3万人がイスラエルに移住する。ミア伍長は、大人になってからの移住組のため兵役は義務ではなかったが、自ら志望して軍に入り、男女混成の戦闘部隊に配属されている。

 ミア伍長は志願の理由について、「イスラエルでは誰もが参加する制度だから、社会に統合されるために志願した。私の部隊は男性よりも女性の方が多く、強い女性が多いので、男性は大変だと思う。もちろん速く走るとか重たいものを持ち上げるという意味では、男性の方が有利かもしれないけど、兵士としての職務に違いは感じない。精神力の方が大事だと思う」と、時折笑いを交えながら流ちょうな英語で話した。

「エリート戦闘部隊に就けば成功につながる」

 今でこそ、イスラエルが「スタートアップ国家」として知られるようになり、「8200部隊」などのエリート・インテリジェンス部隊の名を聞いたことがある人もいるかもしれない。しかし、イスラエル社会のエリート層を構築してきたのは基本的に「エリート戦闘部隊」だ。

「戦闘隊員が多く輩出する町」として知られるテルアビブ近郊のホド・ハシャロン(人口約6万人)。社会的なエリート層が多く暮らし、街はタワマンの建設ラッシュに沸く。小じゃれたワインショップの軒先には、歩兵戦闘部隊「ゴラニ部隊」のシンボルである黄色と緑の旗が掲げられていた。店主の兄弟が、ゴラニ部隊の一員としてガザで戦っているという。

 道端で徴兵前の16歳の男子高校生に話を聞くと、「対テロ特殊部隊ドゥブデバン」など複数の部隊名をあげ、「エリート特殊部隊での任務に就きたい」と語った。戦闘部隊に従事することに恐怖はなく、両親も息子の目標達成をサポートしているという。住民の一人は、「この街には社会的に成功したいと思う層が多い。軍でエリート戦闘部隊に就けば成功につながり、国に貢献することもできる」と話した。

国民皆兵制度に疑問符も

 イスラエルでは就職活動など日常のさまざまな場面で、兵役でどの部隊に就いたのかが話題となる。エリート戦闘部隊出身であれば、その時点で二重丸がつけられる。もちろんそうした部隊では厳しい訓練が課され、命の危険にもさらされるが、退役後の安泰が保証されるのだ。

 ただ、それは社会階層の再生産という負の歴史とも結びつく。徴兵制は、国民が等しく兵役という義務を果たすことで、人種や出身地を問わず「等しい権利」が与えられる理想のシステムとなるはずだったが、ペレス学術センターのゼエブ・レーラー博士は、「実際に軍がその機能を果たしたことはなかった」と指摘する。特に、中東出身のミズラヒ系ユダヤ人は、直接的な差別として重要な職務に就くことが禁止されたわけではなかったが、軍内の選抜システムの中で、欧州出身のアシュケナジ系が自然と軍高官に昇進するようになり、ミズラヒ系はいわゆるブルーカラーの職務にとどまることを余儀なくされたケースもあった。

 時代の流れと共に、この国民皆兵制度にも疑問符がつくようになってきた。かつての敵国エジプトやヨルダンとはすでに和平を締結し、安全保障上の懸念は、ヒズボラやハマスなどの非国家主体に移行。2020年以降は、アラブ首長国連邦、バーレーン、モロッコなどのアラブ諸国と相次いで国交を正常化し、情勢が変化する中で、18歳になったら原則として全員が兵役に就き、40代ごろまでを予備役とする徴兵制度は「時代遅れではないか」という議論が行われるようになってきたのだ。

志願制を望む声

 兵士に対する社会の目も変わりつつある。兵役義務後、職業軍人として軍に残った場合、40代で定年を迎え、その後は高額な年金を受け取れる。現地の報道によると、教員や公務員の年金月額が40万円弱だとすると、軍幹部経験者であれば、月額約80万円を受給できる。さらに、本人が希望すれば、年金を受け取りつつ、退役軍人という肩書だけで、すぐにでも立派な仕事に再就職することも可能だった。しかし、これまでの戦争における軍の失策などもあり、かつての「軍の言うことは常に正しい」というような風潮は薄れ、現在は以前ほどの尊敬を集めることが難しくなっている。

 イスラエル民主主義研究所が2018年に行った世論調査によると、「徴兵制度を維持すべきかどうか」という質問に対し、回答者の44%が「維持すべきだ」と答えたのに対し、39%が「志願制にすべきだ」と回答した。1998年には、それぞれ92%と9%で、圧倒的多数が徴兵制を支持していたことと比較すれば、世論には明確な変化が見られる。

 前出のINSSエルラン上席研究員は、「イスラエルは経済的に発展し、スタートアップ国家として世界に受け入れられ、国際社会の一員になった。現在のような強靭で強大な軍隊は必要ないのではないか。軍事費を増やす代わりに、国内の社会的・経済的ニーズに資金の大半を投資しようじゃないか。そういう考え方が増えてきた」と指摘する。

国民の3割が徴兵免除!?

 何よりも、国民皆兵制度とは言いつつ、実際のところ軍務に就くのは国民の半数超程度とされる。イスラエルの人口のうち、アラブ系が2割、ユダヤ教の戒律を厳格に守る「超正統派」と呼ばれる人たちが1割超いるためだ。アラブ系は多くが「パレスチナ人」であり、兵役免除が可能だ。

 ハマスとの戦争が続く中で、特に大きな議論となっているのが、「超正統派」の徴兵だ。超正統派は軍務に就くことを拒否し、実際に免除されてきたが、免除を可能にする法的根拠が今年4月に失効し、政権を揺るがしかねないほどの政治問題と化している。

 イスラエルには、超正統派を支持基盤とする二つの宗教政党がある。これらの宗教政党は、端的に言えば、パレスチナ問題などの政治問題には関心はなく、安息日における公共交通機関の運行禁止など、戒律に基づいた伝統的・宗教的な生活を維持することが最大の目的だ。徴兵の免除もこれに含まれる。つまり、宗教政党は伝統の維持さえ保証してくれれば、どの政党とも連立政権を組むことができる便利なパートナーなのだ。

 この2政党は現在、ネタニヤフ首相率いる与党と連立政権を組んでいる。そのため、ネタニヤフ首相としては、政権維持のために超正統派の徴兵免除を続けたい。しかし、ハマスによる奇襲攻撃を受けて、軍の拡大が予想される中、超正統派だけが引き続き兵役を免除されるという「不平等感」は、そもそも超正統派の多くが仕事に就かずに宗教勉学に励み、政府からの補助金で生活しているという「社会的な負担感」とも相まって、国民の大きな反発につながりかねないセンシティブな問題なのだ。

世俗派が抱く危機感と不平等感

 想像してみてほしい。自分は世俗派のユダヤ系国民で、命を懸けて数年間の兵役に就き、除隊後は会社で日々働き、戦争が起きれば予備役として再び招集される。かたや超正統派は、日々聖書を読みふけり、仕事には就かず、政府からの補助金で生活する。イスラエルの出生率は3を超え、先進国の中ではトップの水準にあるが、その内実を見ると、超正統派では子供が7人や10人もいるという話もよく聞く。将来の人口割合の変化、すなわち超正統派人口の膨張を考えると、世俗派が抱く危機感や不平等感も理解できるのではないだろうか。

 超正統派の徴兵については、ガラント国防相やガンツ前国防相も「免除されるべきではない」と発言するなど、ネタニヤフ政権への圧力となっている。

経済への多大な影響

 問題はそれだけではない。軍事費や予備役の動員数が拡大することになれば、イスラエル経済には大きな負担となる。これは歴史的に見れば、まさしく1973年の第4次中東戦争(イスラエルでの呼称は「ヨム・キプール戦争」)の後と同じ状況だ。イスラエルは同戦争でも、エジプトからの奇襲攻撃で甚大な被害を受け、戦後、軍の拡大・増強に着手。その結果、経済の悪化を招いたのだ。

 エルラン氏は、「今後、軍備が増強されるのは明らかだが、予算は莫大なものになり、国民経済にも大きな影響を与える。『失われた10年』と呼ばれるヨム・キプール戦争後と同じような経済状況が発生するかもしれない」と経済への影響を懸念する。

 ロシアのウクライナ侵攻を受け、欧州で徴兵制の復活に関する議論が行われ、日本でも中国の覇権主義的な姿勢により、一部で徴兵制復活を求める声がくすぶる。しかし、「中東最強」と謳われてきたイスラエルの徴兵制ですら、大きな過渡期を迎えている。徴兵制の議論は社会や政治とも結びつく極めて複雑な問題なのである。

曽我太一(そがたいち)
ジャーナリスト。エルサレム在住。東京外国語大学大学院修了後、NHK入局。北海道勤務後、国際部で移民・難民政策、欧州情勢などを担当し、2020年からエルサレム支局長として和平問題やテック業界を取材。ロシア・ウクライナ戦争では現地入り。その後退職しフリーランスに。

「週刊新潮」2024年6月27日号 掲載