女子中学生が「ヤクザ」に「覚せい剤」を打たれて徘徊…戦争の名残が残るヤバすぎる「昭和のリアル」

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるまでに落ちぶれることとなる。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第27回

『刃物を投げつける父と陰口を言う継母…伝説のストリッパーを生み出した衝撃の「家庭環境」』より続く

子供に打たれた「戦争の名残」

50年4月に新生中学に入った和子は、しばらくすると家出がちになる。継母に冷たくされ、家にいても、なにも楽しくはなかった。

荒川の河川敷にある善光寺境内で寝泊まりもした。ヤクザにヒロポンを打たれ、ふらふらしているところを警察に保護されたのはそのころだ。

ヒロポンは40年代、大日本製薬が売り出した覚醒剤で、戦時下に労働力を確保して戦力を拡大するために使われた。これを打つと眠らずに数日、働ける。そのため、「魔法の薬」とも呼ばれた。戦場に向かう特攻隊員は死の恐怖を紛らわせようとこれを打った。

終戦後、ヒロポンは一般にも普及し、禁止されたのは51年である。和子が打たれたのは「戦争の名残」そのものだった。

「口減らし」とアイスキャンディ

悲しいかな、寺の境内で夜を過ごし、ヒロポンを打たれても、親は和子を探しもしなかった。比較的優しくしてくれた姉は家を出ていた。和子が家族から愛されていないと感じても不思議はない。

「家族はあたしのことなんてなんにも考えてない。働きはじめると、おカネを当てにするようにはなったけど。それだけやった」

中学1年を終えた和子は、「口減らし」のため奉公に出される。奉公先は近くの在日コリアン(韓国・朝鮮人)家庭だった。

「あたしは韓国人とはなんのつながりもないんやけど、継母が付き合っていたんかな。『あんたをほしがっている人がいるから』って。家が貧しく、食べていかれんからって」

川口の鋳物工場では、戦前から多くの在日コリアンが働き、周辺地域に住み着いていた。映画『キューポラのある街』には、コリアンの帰還事業が描かれている。今も川口には韓国の料理店や食材店が多い。

奉公先での主な仕事は子守りだった。最初は自宅に近い東京都板橋区にあった「トモヤマ」という名のアイスキャンディ店だと一条は記憶している。在日コリアン夫妻には、幼稚園に通いはじめた男女2児がいた。

「当時は砂糖が少なかったようでサッカリンを使っていました。色粉と水とサッカリンで、親方がアイスキャンディを作る。1時間ぐらいしたらできるのね。小豆、コーヒー、イチゴの種類があったんよ。

アイスキャンディなんて、食べたこともないから、どんなもんかなと思って、(親方が)いてないときに食べたら、後から見つかって怒られた」

初めて知った愛

親方はこう言った。

「カズちゃん、ほしかったら、ほしいって言うんだぞ。おじさんのいないところで、食べるのはだめだ」

親方からイチゴ味のアイスキャンディをもらった和子は、こんなにおいしいのかと思った。

次の奉公先は川口市内で鶏肉店を営む高橋という家族だった。

「ヨンチョルさんとかテオさんという人がいたかな。熱いお湯のなかにトリを突っ込んで、皮をはいでいたのを覚えています。幼稚園の子2人のお守りをした。みんな優しい人たちでした」

終戦直後の日本はとことん貧しかった。街では傷痍軍人が「お恵みを」と寄付を求めていた。子どもを売る家庭も少なくなく、厚生省の調査(51年)では、身売りされた児童は全国で約5千人にもなった。

盆や正月に実家に帰っても、和子は親からさして歓迎されない。継母は和子の稼ぎが目当てで、それを受け取るとすぐにでも奉公先に帰したがった。「だから、家に帰りたいという気持ちはちっともなかったですよ」と一条は語っている。

親に冷たくされる一方、奉公先の在日コリアンからは親切にしてもらった。この経験が、彼女の身内に対する不信、少数派への偏見のなさにつながっている。

『赤ん坊のために牛乳を盗む…伝説の踊り子がパチンコ狂いのカネなし男と結婚した理由』へ続く

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