詮子と倫子の暗躍?なぜ定子は出家?長徳の変、時系列おさらい…大河ドラマ「光る君へ」5月19日放送振り返り

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考えなしに放たれた矢が引き起こした悲劇……張本人である藤原伊周(三浦翔平)と藤原隆家(竜星涼)は流罪に、そして内裏を追われることとなった藤原定子(高畑充希)は自ら髪を断ち落とす事態に発展しまいました。

後世に伝わる「長徳の変」をキッカケに没落していく中関白家。これは女院・藤原詮子(吉田羊)と源倫子(黒木華)の策謀だったのでしょうか。

いかにもわざとらしい呪詛の演出と、それに対する不自然な態度から、そこはかとなくそれを感じさせます。

一方で藤原為時(岸谷五朗)は念願かなって淡路守に任官するかと思いきや、どういう訳か越前守に栄転。

これは娘・まひろ(紫式部。吉高由里子)のお陰と事情を察したのでした。

NHK大河ドラマ「光る君へ」、今週も面白かったですね。それでは第20回放送「望みの先に」気になるトピックを振り返っていきましょう!

「長徳の変」時系列をおさらい

藤原伊周(画像:Wikipedia)

長徳2年(996年)

1月16日 隆家が花山院を襲撃。矢が法衣の袖を射抜き、院の童子2名を殺害
1月25日 道長が伊周の除斥を命じる
2月5日 一条天皇が検非違使別当の藤原実資に伊周邸などの捜索を許可
※同時に伊周の家司・菅原菫宣と郎党・右兵衛尉致光の邸宅も捜索許可
2月11日 一条天皇が藤原斉信に伊周・隆家の罪名を伝えさせる
4月1日 法林寺(三井寺)の僧侶が、伊周が大元帥法を行った旨を通報
4月24日 伊周・隆家らの処罰が決定する
4月25日 中宮御所を検非違使が取り囲み、野次馬らが群がる
5月1日 重病と称して出立を拒む伊周を連行するため、中宮御所へ検非違使が乱入
※定子は自ら鋏をとって落飾
※隆家は捕らわれたが、伊周は逃亡

【第20回放送「望みの先に」ここまで】

5月4日 伊周が出家した姿で捕らわれる
※数日後に配所へ出立。母・高階貴子は同行を願うが許可されず、病に倒れる
※伊周と隆家はそれぞれ病気を理由として、道中に居座る
5月15日 一条天皇が伊周を播磨国に、隆家を但馬国に留めるよう命じる
10月初旬 母の病を案じた伊周が京都へ潜入し、定子に匿われる
10月11日 密告によって伊周が捕らわれ、大宰府へ護送される
10月末 母・貴子が薨去(病没)する
12月 伊周が大宰府に到着する
12月16日 定子が一条天皇の長女・脩子内親王(しゅうし/ながこ)を出産する

ちょっと次回の予習も含まれましたが、あれよあれよと中関白家が没落していく様子が分かりますね。

これまで視聴者のヘイトを溜めてきた伊周の哀れな姿にカタルシスを感じる方もいるのでしょうか。まさに盛者必衰の理と言えます。

血の涙を流した?為時……実際のところは

為時を憐れんだ一条天皇(画像:Wikipedia)

苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼……。

【意訳】寒い夜も学問に励み、血の涙を流してきました。除目の朝、淡路守という辞令に絶望して呆然と青空を見上げるばかりです。

劇中では淡路守さえ望外の願いと思っていたのに、娘の偽筆によってまさか越前守となった為時。

実際には長徳2年(996年)1月25日に淡路守の辞令が下るも、為時はこれに抗議。これが聞き入れられて、1月28日に越前守となったのでした。

まさにゴネ得と言ったところ。こんなの許されるのか?と思ってしまいますね。

ちなみに越前守が内定していた源国盛(森田甘路)は任官を取り消され、ショックの余り病に倒れてしまいました。

秋の除目で播磨守に任じられたものの体調は回復せず、そのまま息絶えてしまったということです。可哀想に……。

ちなみに劇中では「母上『は』聡明な方」ということになっていましたが、国盛の母親は不明です。

呪詛「大元帥法」とは?

大元帥法とは、どんな呪法なのだろうか(イメージ)

劇中では高階成忠(なりただ。高階貴子の父)が行ったという大元帥(だいげんのほう)。どうやら呪詛の一種みたいですが、これはどんなものなのでしょうか。

大元帥法は承和6年(839年)に唐から法林寺へ伝来した呪法で、大元帥明王(だいげんすいみょうおう)に敵国や謀叛の調伏を祈願するものでした。

その性質上、大元帥法は国家を統治する朝廷のみが行うべきものであり、臣下がこれを行うことは許されていません。

しかし長徳2年(996年)4月1日に法林寺から朝廷へ通報があり、伊周が密かに大元帥法を行ったというのです。

国家の権利を侵すとはとんでもない話ですが、大元帥法って寺の許可なくこっそり勝手にできてしまうものなのでしょうか。

具体的な方法についてはよく分かりませんが、伊周たちがフラッと訪れて気軽にできるものではないため、誰か関係者が指導したのだと思われます。

ちなみに大元帥法は後世にも受け継がれ、明治時代の日露戦争や、昭和時代の大東亜戦争(太平洋戦争)でも行われたとか。

その方法や効果のほどについて、詳しく知りたいですね。

なお高階成忠が大元帥法を行ったという話はなく、また出家していたため孫たちの連座を免れたのでした。

「長徳の変」で処罰された人々は?

配所へ赴く(イメージ)

劇中では伊周と隆家だけが処罰されたように描かれていましたが、これはドラマの都合です。

実際にはここぞとばかり伊周派の人々が一斉に処罰され、中関白家の没落が決定づけられたのでした。

【左遷・実質流罪】
藤原伊周……大宰権帥へ左遷
藤原隆家……出雲権守へ左遷
高階信順(さねのぶ。伊周の義伯父)……伊豆権守へ左遷
高階道順(みちのぶ。伊周の義伯父)……淡路権守へ左遷
大江以言(おおえの もちとき。伊周の側近)……飛騨権守へ左遷

【殿上簡削除・昇殿停止】
藤原頼親(よりちか。伊周の異母兄)
藤原周頼(ちかより。伊周の異母弟)
源明理(あきまさ。伊周の義兄)
源方理(かたまさ。伊周の義兄)

【勘事・譴責】
藤原相尹(すけまさ。伊周の従叔父)
源頼定(よりさだ)

左遷される人々は、いずれも権帥(ごんのそち)や権守(ごんのかみ)などの名誉職。

肩書きばかりで仕事もなく、鬱屈の日々を過ごしたことと思われます。

やがて恩赦によって京都へ戻ってくることになりますが、もはやかつての勢いはなく、道長の下風に立たされることとなるのでした。

なぜ定子は出家したのか?

『枕草子絵巻』より、一条天皇と定子

長徳2年(996年)5月1日、検非違使たちに邸内へ踏み込まれて出家した藤原定子。

いきなり短刀を奪う場面は創作ながら、なぜ彼女は自ら髪を裁ち落としたのでしょうか。

その正解は当人に訊かねば分かりませんが、考えられるのは身の危険を避けるためと考えられます。

中宮にしてみれば、検非違使とは言え素性の知れない粗野な男たちに何をされるか分からない恐怖があったことでしょう。

落飾・出家してしまえば俗世の身ではなくなりますから、大抵の人間には手が出せなくなります。

かの『源氏物語』においても、ヒロインたちが出家した後は、あの光源氏でさえ手が出せなくなっていました。

それほど神仏の罰を畏れた時代だったからこそ、定子は貞操を守るために出家を決断したのだと考えられます。

第21回放送「旅立ち」

道長と伊周(イメージ)

望みの先にあるものは、必ずしも望み通りではなく、また幸せになれるとも限りません。

越前守として意気揚々と任地へ赴く為時。もちろんまひろも宋人たちを一目見たいと同行します。

一方で伊周・隆家兄弟は流罪として京都を追われることになるのでした。

母・高階貴子(板谷由夏)は悲しみの余り病に倒れてしまい、人々の同情を誘います。

かくして邪魔な政敵を一掃した道長は、天下の政権をほしいままにするのでした。

劇中ではほとんど何もせず、周囲の女性たちのお膳立てだったように描かれていますが、これはお相手役の道長を悪役にしたくない配慮と思われます。

次週はいよいよ伊周たちが流罪に。そしてまひろたちは新天地へ……これからも目が離せませんね!

トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより