時間も場所も超えて読み継がれる想像の風景。フォークナーが書いた街を歩く

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フォークナーのゆかりの地を巡って

ミシシッピ川沿いの遊歩道を北へ進み、カナル・ストリートを渡ってフレンチクオーターに入ってしばらくすると、セント・ルイス大聖堂の尖塔が見えてくる。日曜の朝のミサはまだ終わっていないらしく、前に広がるジャクソン広場は静かだ。後2〜3時間すると広場を囲うおみやげ屋やレストランが開店し、広場の周囲に並ぶ屋台や簡易なテーブルに占い師もアーティストもジャズバンドも現れ、辺り全体が賑わってくるけれど、今は広場の向こう側で、カフェ・デュ・モンドでチコリコーヒーを飲んでいる客以外、人影が見当たらない。

大聖堂の角で曲がって、路地に入る。目当ての細長いタウンハウスを探すのはさほど時間がかからない。重いドアをそっと開き、中へ入っていく。

店内は広くない。高い天井からぶらさがるシャンデリアは豪華だけれど、両側の壁に設置された高い本棚は音と明かりを吸収して、落ち着いた空気をもたらす。奥の机に座っている店長らしいおばあさんはこちらを見て、優雅な微笑みだけを送り、無言で手元の手帳に視線を戻す。どこか別の部屋から、大時計の振り子の音が定間隔で聞こえてくる。

雰囲気に感化されて、僕も音を立てないように注意しながら部屋を歩き回り、棚の中身を吟味する。僕と店長の二人しかいないようで、音を立てたところで誰にも迷惑がかかるわけではないけれど、ここは隣に立つ大聖堂に匹敵する聖地であって、自然に厳粛な気分を誘う。

ここはおそらくニューオーリンズの最も名高い書店だ。1925年に地元のミシシッピ州を出てきた若きウィリアム・フォークナーは半年、アーティストのウィリアム・スプラットリングとともにこの家に暮らし、初長編小説『兵士の報酬』の執筆に励んだ。

1990年にこの建物で開店した「フォークナー・ハウス・ブックス」は店名の通り、この歴史を前面に出している。お店とはいえ、店内はむしろ博物館のようで、本棚の間にフォークナーの写真や手紙が何枚か額に入れられて飾ってある。来客が実際に本を買うか買うまいか、店長が特に気にしている様子はない。

作家としてのフォークナーは馴染みの存在だ。南部で育つと必ず高校の英語科目で作品を読むし、先生の講義に「我々の文化を巧妙に描いた作家」や「我々の風土を愛した作家」という文句が頻出する。日本に引っ越して来た今は、毎年、学生とともにフォークナーを始めとして南部文学の作品を読む講義を開いている。英語は現代的で合理的な言語だと思い込んでいる学生は少なくなく、退廃と敗北の泥沼に潜って、人間臭さの表現を極めた南部文学は、そのイメージを払拭するのにうってつけだ。中でもフォークナーの「エミリーに薔薇を」に対して学生はよく反応してくれる。

僕は壁に飾ったフォークナーの肉筆の筆記体を注視する。ノーベル文学賞を受賞する前の、南部のみならずアメリカ文学を代表する作家として知られるようになる前の、一人の28歳の若手作家を想像してみる。ほぼ100年前に、この家の廊下を彷徨しながら、原稿の展開に悩み、独自の作風を築き上げようと必死だった青年の残影を探す。かつて彼が暮らしていたこの部屋を肉眼で見ることで、フォークナーへの理解は深まるのだろうか。作品の中で今まで見落としていた、何らかの秘密が見えてくるのだろうか。

よく考えると、このように文学者のゆかりの地をアメリカで巡るのは今回が初めてだ。

生まれ育ったサウスカロライナ州は文学に関して誇れる歴史が少ない。17世紀のイギリス人が地図の上に線を引いて「カロライナ植民地」を勝手に設立したとき、その憲法を作成したのはジョン・ロックだったが、彼が実際に新世界を訪れることはなかった。近年だと『ニューロマンサー』などの小説でサイバーパンクの先駆者となったウィリアム・ギブスンはサウスカロライナの海岸の近くの町で生まれたが、子ども時代にバージニアへ引っ越してしまったので、対象外となるだろう。一方、州境を越えてアトランタで生まれた小説家で詩人のジェイムズ・ディッキーは、第二次世界大戦の勃発まで僕の母校クレムソン大学のアメフト部に所属していたし、後のキャリアの大半もサウスカロライナ大学のライター・イン・レジデンスとして過ごしたから、サウスカロライナの作家と呼んでもいいだろう。最近話題のパーシヴァル・エヴェレットは州都のコロンビアで育ったが、大学に上がる際に無事にサウスカロライナを脱出できて、西部の小説家として生まれ変わった。それくらいだ。

ということで故郷やその近くの町には、あの文豪がこの家に住んでいたとか、ここはあの名作で描かれた場所だとか、そのような宣伝がつく場所はない。子ども時代の僕が小説を読んだとき、たとえアメリカ文学であっても、同じ南部の文学であっても、そこに書かれた話は常にどこか遠いところのものであって、実生活と関係のない、ある種の別世界だった。日本文学を読み始めた頃にあまり違和感がなかったのもそのためかもしれない。アパラチア山脈の麓の僻地で読んでいると、ヘミングウェイのパリもフォークナーのミシシッピも谷崎の浅草も、どれも同じように遠く離れた舞台と思える。

現実と想像が重なる文学散策

初めていわゆる文学散策を体験したのは、日本に来てからだった。京都に住んでいたから、古典から近代まで文学と関わりのある場所は徒歩圏内でいくらでもあったし、近代の文壇の中心となった東京へも簡単に行ける。読んでいた作品を旅行のきっかけにして、城崎や飛鳥、舞鶴や横浜へ旅した。それまでなんとなく作家の実存と切り離されたものとして読んでいた文芸作品を、初めて実際に人の手によって施されたものとして意識するようになった。

大学院に入り、谷崎潤一郎の研究に着手してから、彼のゆかりの地を特別に注目するようになった。人形町にある生誕の地や、法然院と慈眼寺にある二つのお墓はもちろん、『細雪』に登場する家のモデルとされる倚松庵や、大正時代の様々な作品の舞台となった浅草、谷崎が晩年を過ごして『瘋癲老人日記』などを書いた熱海を訪れた。谷崎が愛顧していた吉野山の宿、櫻花壇も見に行って、いつか余裕ができたらそこに泊まるという密かな夢を長年抱えていたけれど、あいにくちょうど就職が決まった頃に閉業してしまった。院生時代を過ごした部屋のすぐ近くに『夢の浮橋』の舞台のモデルとされた石村亭があって、帰り道によくそこに寄って、谷崎が暮らしていた時期のことに想像を巡らした。

気に入りの作家がかつて暮らしていた家、あるいは使っていた小物、あるいは万年筆によって赤入れされた原稿を見るのには特別な面白みがある。ほんの一瞬、本人の実生活が垣間見えるような気もするし、作品は完成された形で生まれるものではなく、作家の実生活に絡みながら、少しずつ成立していくものだという事実を再確認するきっかけとなる。

しかし同時に、このような活動は、読者というより、一人のファンとして行っているのではないかと思う。作家がどのような生活を送っていて、作品がどのような経緯で書かれたかというのは、現に世界で流布している作品とは、別次元の問題だ。

むしろ描かれた町、モデルになった人物、書かれた時代の事情に詳しくなくても、それでも面白く読めるという性質は、優れた作品の所以なのではないかとさえ思うことがある。100年前の京都で書かれた小説が時代と海と言葉の壁を越え、京都という地名すら知らない読者の手に届く。その読者が小説を読む際に想像するのは、きっと作家自身や、現在の京都の実態を知っている読者たちが想像するものとは違う。しかし違うとは言っても、間違っているとは言えない。

自分が事前に知っている事柄が書かれた小説しか正しく読むことができないとすれば、それは読書という行為をどんなに矮小化してしまうだろう。

窓から差し込む正午の陽射しは眩しいが、少し待てば角度が変わる。バーカウンターと椅子が載っている回転盤の動きが遅くて、一周するのに15分かかるので体感することはないけれど、琥珀色のサゼラックをちびちびと飲みながら、目の前の光景は確かに少しずつ変わっている。

カルーセルバーはフレンチクオーターの由緒あるホテル・モンテレオーネの中にある。木馬を取り外されたメリーゴーラウンドにバーを取り付けるなんて、どう考えてもふざけた発想だけれど、ふざけた発想だって半世紀以上続けば伝統の威厳がつく。それに、このバーは数多くの文豪によってお墨付きを与えられた。フォークナーはもちろん、テネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティ、ユードラ・ウェルティもここに来ていた。ヘミングウェイはここで飲んだだけでなく、短編小説に登場させている。文学者に愛された宿泊先というイメージは今も強く、ロビーにここで泊まってきた作家の著書が展示されている。

フォークナー・ハウス・ブックスで買ってきた本を鞄から取り出す。ニューオーリンズを舞台としたフォークナーの作品集ということで、今回の旅にはぴったりのおみやげに思えた。カウンターが回り、読むのに良好な照明になったときに、本を開いて読み始める。

そこに書かれているのは、僕が今歩いてきた道のことだ。フレンチクオーターのこと、ジャクソン広場のこと、セント・ルイス大聖堂のこと。今朝見てきたイメージがページに書かれた描写と重なり合う。100年前に書かれた文章だし、現代の街並みとは違うだろうが、それでも見える。あるいは見えるような気がする。

次回は6月20日公開予定です。

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