『虎に翼』写真提供=NHK

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「私はね、法は弱い人を守るもの、盾とか、傘とか、暖かい毛布とか、そういうものだと思う」

参考:『虎に翼』の核となる尾野真千子の“語り” 伊藤沙莉の演技をさらに際立たせる秀逸な声色

 『虎に翼』(NHK総合)第2週「女三人寄ればかしましい?」の第10話で寅子(伊藤沙莉)が、この朝ドラの核となるであろう言葉を残した。

 日本初の女性弁護士のひとりであり、日本初の女性判事および家庭裁判所長を歴任した三淵嘉子さんをモデルに、女性法律家の先駆者となる猪爪寅子の半生を描く本作。

 キャラクターが屹立した猪爪家の人々や「女子部」の面々による、小気味よくユーモラスな台詞の応酬。洗練されたシーン構成。主題をわかりやすく噛み砕いて、法律とは生きることや生活に緊密なものであるのだと教えてくれる作劇。そして何より、ヒロイン・寅子を演じる伊藤沙莉の芝居の匙加減が絶妙だ。

 近年の朝ドラの潮流からすると、尾野真千子によるナレーションがかなり多弁であることでも話題だ。法律まわりの専門的な説明が不可欠となる本作において、その他の部分で見る側の集中力を乱させないために、ドラマ部分には「あいまいさ」を残さず、寅子の気持ちに至るまで、なるべく言語化する方向に舵を切ったのだろう。前作『ブギウギ』の、余白を多めに取って感性に訴える作劇とは対照的で面白い。どちらも違って、どちらも良い。

 ところで、シリーズ全110作中、主人公が弁護士を志す朝ドラは『虎に翼』のほかに、『ひまわり』(1996年度前期)がある。この作品は松嶋菜々子をヒロインに起用した現代劇だったこともあり、「トレンディ朝ドラ」と誤解されがちだが、なかなかどうして、「法とは何か」「法に携わる人間はいかにあるべきか」「人間の幸せとは何か」を描いた良作だ。そして、ヒロインの職業の他にも『虎に翼』と意外な共通点があった。それは、週タイトルのつけ方だ。

 『虎に翼』の第1週から第3週までの週タイトルは「女賢しくて牛売り損なう?」「女三人寄ればばかしましい?」「女は三界に家なし?」。

 そして『ひまわり』の週タイトルも、ことわざの後ろに「?」がつくという、全く同じ法則なのである。同作の第1週から第3週までの週タイトルは「出るクイは打たれるの?」「旨い話にゃ毒がある?」「人は見かけによらぬもの?」というもの。

 おそらく偶然の一致なのだろうが、同じ「ことわざ週タイトル」でも、照らし合わせてみるととても興味深い。バブル崩壊の1991年から物語がスタートする1996年の朝ドラ『ひまわり』の週タイトルにつけられた「?」は、弁護士を志すヒロイン・のぞみ(松嶋菜々子)の成長過程で抱く「疑問」や「思索」の意味が込められていることには違いないだろうが、「?」にそこまで強いアクセントを置いていない。「?」は「軽さ」や「とっつきやすさ」を加えるぐらいの意味合いであると感じる。

 対して、1931年(昭和6年)から物語が始まる2024年の朝ドラ『虎に翼』の週タイトルは、その週のストーリーを表すとともに、(今のところ)全て、女性を揶揄したことわざだ。こんなことわざがまかり通っていたということに、当時、女性がどれだけ社会的に虐げられていたかという現実が浮き彫りになる。そこに「?」がつく。劇中で寅子が言う「はて?」「はぁ?」と同じで、当時の社会制度に対する強い疑念と不信感、怒りまでも感じる。そしてこの「?」こそが、寅子が法曹を志す原動力となっている。

 物語の序盤は、昭和初期を生きる女性である寅子が、眼前に立ちはだかる巨大な壁を打ち破って進んでいくターンなので、とりわけ女性問題色が強く押し出されている。しかし、きっとこの朝ドラはそれだけに終始しないはずだ、と、期待も込みで言ってみる。この世の中で、虐げられているのは女性だけではない。あらゆる「弱者」に対して、法の力を借りて寅子が「暖かい毛布」をかける物語になっていくのかどうか。そこが、この朝ドラが真の名作となり得るか否かの分水嶺である気がしている。

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

 憲法14条が定めるとおり、どんな属性の人も尊重されるべきであり、自分が望む幸福を追求する権利がある。

 筆者の自戒も込めて述べるのだが、「自分の権利を守ること、主張すること」と「他者の権利を尊重すること」は必ずセットであるべきだと考える。昨今、この当たり前の大前提が、抜け落ちがちになっている気がするのだ。第10話で、DV夫・東田(遠藤雄弥)に下された判決の主旨の中にあった「権利の濫用」は、今や男性や権力者だけではなく、誰にでも起こり得ることだ。身近なところで言えば、ネットやSNSでヘイトや誹謗中傷を撒き散らして誰かを傷つける行為だって「言論の自由」という権利の濫用だ。

 第1話冒頭で、憲法第14条を読み上げながら映し出したのは、川沿いを走る少年たち、家を焼け出されて橋の下で暮らす家族、呆けて座り込む帰還兵、生き伸びるために“パンパン”になった女性たち、戦災孤児と思しき女の子……など、あらゆる市井の人々。その誰もが「書き割り」ではなく、それぞれの人生を生きている。このイントロダクションに、作品の理念が込められていると感じた。

 寅子が法曹を志すきっかけを与えた2人の言葉が、物語の鍵となっている。猪爪家に下宿している書生・優三(仲野太賀)は、「法律は自分なりの解釈を得ていくもの」と言った。穂高教授(小林薫)は「法律に正解はない」と説いた。

 過去の判例は参考にこそなれ、ひとりとして同じ人間がいないように、ひとつとして同じ事例はない。法に携わる人間は、ケースバイケースに細密に耳を傾けたうえで深慮し、判断すべきであろう。

 米津玄師が歌う主題歌「さよーならまたいつか!」がこのドラマに、より深みと広がりを与えている。出だしの〈どこから春が巡り来るのか 知らず知らず大人になった〉という歌詞の〈春〉は何を意味するのだろうか。

 自由や平和や平等を意味するのではないか、と仮に考えてみる。

 寅子の少女時代にあたる100年前に暮らすほとんどの市井の人々は、知識階級や運動家でもない限り、自由や平和や平等がどこからくるのかなんて考えてみたこともなかった。そんな概念すらなかった。

 翻って、その〈100年先〉を生きる私たちは、生まれた時から(建前上は)自由や平和や平等が当たり前にあった世代だ。当たり前だから、それがどこからきたのか、先人たちが〈口の中〉に〈血が滲〉む経験をして勝ち取った〈春〉がどれほど尊いものなのか、わからない。それにしても、「(建前上は)」などという前置きを入れなければならないこの国の現状が情けないし、だからこそこの朝ドラが多くの人の共感を呼ぶのだろう。

 より成熟した社会を目指すならば、自分とは違う属性、違う立場にある人の、事情や心情や苦しみを想像することが肝要なのではなかろうか。あらゆる犯罪や戦争、分断の根底には、「想像力の欠如」がある。寅子が志す弁護士という仕事も、千差万別の「事情や心情や苦しみ」への想像力なくしては、成り立たない。

 そして、『虎に翼』そのものが、100年前の社会制度の中で虐げられてきた弱者たちの辛苦と怒りを想像して描かれた物語であるはずだ。鏡写しとなってそれを受け取る視聴者は、100年前の人々の思いを想像しながら、いま一度、真の自由とは何か、平和とは何か、平等とは何かを考える。自由と平和と平等の維持には、個々のたゆまぬ努力と、声を上げ続けることが重要なのだ。

 人も、判例も、千差万別。朝ドラも110作あれば110色。ひとつとして同じものはない。寅子が、自分とは考え方の違うよね(土居志央梨)に「もっとよねさんのこと、知りたい」「とっても素敵」と言ったように、「違い」は「当然あるもの」という前提のうえで、尊重しあうことが大切なのではないか。本作は、そんなことを考えるきっかけを与えてくれる朝ドラになりそうだ、と期待を込めて言ってみる。

(文=佐野華英)