人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:彼氏が怪しい…。ショックをうけた28歳女が気づいた、誠実そうなMR男の“本性”




マイナスの奇跡【前編】


「ねぇ、聞いて雅樹。奇跡が起きたの!」

呼びかけられ、外資系電機メーカーで営業を務めている雅樹は、顔を上げた。

マンションに遊びにやってきた彼女・芽依が、息を弾ませている。

「…奇跡って?」

金曜の夜だからテンションが上がっているのもあるが、芽依は普段からこうした大げさな言い回しをするタイプでもあった。

「実花いるじゃん、私の友だちの。その実花の知り合いに、すごいことが起きたんだって!」

「だから、なに…?」

芽依とは反対に、雅樹は感情の浮き沈みが少ないフラットな性格だ。もったいぶらずにすんなり話してほしいと思ってしまう。

「知り合いの子がね、長いこと彼氏がいなくて悩んでたんだって。それで占い師に相談したの。そうしたら、『花火大会に出かけるといい出会いがある』って言われたらしいの」

「へぇ、すごいね」

「まだ終わってないから!」

芽依は、勢いよくしゃべりすぎたのか、喉が詰まったようでいったんゴクッと唾を飲み込む。

「でね。先月、地元でやってる秋の花火大会があって、行ってみたんだって。そこでなんと、元カレに再会したんだって!」

「そうなんだ」

「何万人もいるのに、そんな偶然ある?そこから連絡を取り合うようになって、ヨリを戻したんだって。ねえ?奇跡でしょ?やっぱり、占いってすごいよね」

芽依は大の占い好きなので、感激している様子を見せる。

ここで雅樹も話を合わせていればいいのだが、理論派な一面がつい出てしまう。

「そんなの、奇跡でもなんでもないよ」

芽依の感動を打ち消すかのごとく、雅樹は冷たく言い放った。


「まず、友だちの知り合いの話っていう時点でピンとこないよ。関係性が遠くて、素直に驚けない」

雅樹の言葉に、芽依は口をつぐむ。

「それに、元カレとの再会についても。元カレの人数によって偶然性が変わってくるよ」

「どういうこと?」

「もし元カレが100人いたとしたら、それだけ会う確率が上がるでしょう。宝くじを1枚買うのと、100枚買うのとでは当たる確率が違うのと一緒だよ」

「でも、元カレは100人もいないと思うし…」

「例えばの話だよ。友だちの知り合いのことなんて、詳しい情報は知らないでしょう。もしかしたら100人いるかもしれないし、それ以上かもしれない」

「そうだけど…」

「奇跡って判断するのが早すぎるよ。どういう条件下で起こったことなのかを、まず把握しないと」

雅樹の指摘に、芽依はシュンとした様子になる。

雅樹は28歳で、芽依はその2つ下。

年下を言い負かすのは大人げないという思いはありながらも、雅樹は言葉が止まらなくなってしまった。




「占いなんて、信じすぎないほうがいいよ。頼りすぎちゃダメだ。そんなの他力本願でしょう。一時の運に左右されるべきではない」

雅樹は、なおも続ける。

「何かを得たいのなら、地道に努力していくしかない。奇跡なんて信じてたら、堕落するよ?」

芽依は意気消沈し、うつむいてしまった。

完全に論破したものの、雅樹にも爽快感などなく、何か釈然としない居心地の悪さが残った。



翌日。

雅樹は、同僚の仲野と飲みに行く約束をしていた。

新橋にあるワインビストロの店に、待ち合わせ時間よりやや遅れて到着した。

「お、おお…。大丈夫か?」

雅樹の姿を見て、仲野が心配そうに声をかけた。

左手の甲から手首にかけて、白い包帯を巻いているからだ。

雅樹は、仲野に遅れる旨を伝える際に、大まかな状況を説明していていた。しかし実際の様子を目にすると、かなり痛々しく感じたようだった。

「何があったのか、詳しく教えてよ」

「ここに来る前に、軽く事故に遭ったというか…」

昨日から遊びに来ていた芽依が昼過ぎに帰り、時間に余裕ができたので、買い物でもしようと少し早めに家を出た。

すると、スマートフォンを操作しながら歩いていたため、無意識のうちに歩道から足がはみ出してしまった。

車にクラクションを鳴らされ、慌てて身を引いたところ、走行中のフードデリバリーの自転車にぶつかり転倒してしまったのだ。

相手方に問題はなかったものの、雅樹は手首を負傷。

近くの病院で捻挫と診断され、治療を受けて、待ち合わせに遅れるはめになった。




「お前、最近ツイてないよな。ほら、この前も仕事で…」

つい先日、取引先との打ち合わせ時間の確認ミスで、上司から怒られたことを引き合いに出された。

「あれも、なんかお前らしくないミスだったし」

「まあな…」

仲野の指摘する通り、良くないことが続いている実感がある。

雅樹は、ふと昨日の芽依とのやり取りを思い出した。

占いの話から、教訓めいた厳しい指摘を偉そうにしてしまった。

「一時の運に左右されるべきではない」

そんなことも言った覚えがある。

今、まさに自分がその状況に巻き込まれている感覚があり、雅樹は言いようのないもどかしさに包まれた。


テーブルの上にあるシャルキュトリーを、雅樹が自分の皿によそい、フォークを突き立てたときだった。




目の前を飛んでいた小さな虫が、まるで吸い込まれるように料理の上にポトッと落ちた。

「うわぁ…。マジかよ…」

不運としか言いようのない事態に見舞われ、雅樹は肩を落とす。

向かいの席で見ていた仲野も、憐れむような視線を向けた。

「やっぱりお前、ツイてないよ。お祓いとか行ってみたらどうだ?」

「ええ…。お祓い?」

雅樹は信仰心が薄く、そういった神頼みの要素を含んだ行為に、あまり興味を持っていなかった。

「それが嫌なら、パワースポットとかに行ってみるとか?」

「効果あるのかな…」

「まあ、行かないよりはいいんじゃないか?」

仲野の提案は、幾分か敷居が低くなったようにも感じたが、やはり気乗りはしなかった。



仲野と別れ、雅樹はタクシーを拾って自宅のある渋谷方面へと向かう。

すると、次第に車の流れが悪くなり、車間距離が縮まってきた。

「あれ…。事故みたいですね」

運転手にならって前方に目を向けると、赤色灯が点灯している。

― おいおい、ここでもかよ…。

雅樹は、不幸をもたらす何かがまとわりついているような嫌な気分になった。

「裏道を知っているので、そっちを使っても構いませんか?」

「はい。お願いします」

運転手に任せ、裏通りに入る。

車も少なく、しばらくスムーズに進んだところで信号が赤になり、停車した。




タクシーの真横に、7〜8階建ての中規模マンションの入り口があった。

建物は道路側に外廊下があり、目線よりやや上の2階フロアに、人影が見える。

ドアから出ていく女性を、部屋のなかにいる男性が見送っているような光景だった。

雅樹は、何気なくその様子を眺めていた。

だが、すぐに緊張で体が強張る。

― え、ええ…?あれって、芽依じゃないか?

部屋から出てきた女性が、芽依の容姿とよく似ている。

やや小柄な体に、少しウェーブのかかったセミロングの髪。

昨日、部屋で見たのと同じ、ミドル丈の白いPコートを羽織っている。

― いや、間違いない。芽依だ!

男に手を振って、にこやかに去っていく女性は、紛れもなく芽依だった。

― 嘘だろう…。

信号が青に変わり、車が走り出す。

雅樹は後部座席に座った状態で振り返り、芽依の姿が見えなくなるまで目で追っていた。

信じ難いという思いはあるものの、目撃したのは雅樹自身であり、事実以外の何者でもない。

それに、最近の自分の運の悪さを思うと、こういった事態も起こりかねないと納得感さえ湧いてくる。

― この道を通らなければ、知ることなんてなかったのに…。

これもまた不運な出来事のひとつだと感じるが、早めに気づくことができたのは、不幸中の幸いかもしれない。

雅樹の中で感情が複雑に入り交じる。

今、負の連鎖の渦中にいることは確かだ。このままでは不運の波に飲み込まれ、深淵に沈んでしまいそうだという恐怖をおぼえる。

雅樹はスマートフォンを取り出し、東京近郊にあるパワースポットを検索し始めた。

▶前回:彼氏が怪しい…。ショックをうけた28歳女が気づいた、誠実そうなMR男の“本性”

▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由

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