会員制バーでの食事会後、タクシー代5万円を渡された29歳女。「こんなにいりません」と返したら…
◆これまでのあらすじ
長年交際した顔だけのダメ男と別れたばかりの杏奈。美人でモテるが恋愛偏差値の低い彼女は、同窓会で出会った外資系金融マンの足立から誘われる。練習のつもりでデートに臨んだが、なぜか「つまらない女」とフラれてしまい…。
▶前回:食べ終わったら即解散…。カウンター鮨デートで、アラサー美女がやらかしてしまったこととは?
Vol.4 港区でお食事会を
「ねえ、私ってつまらないかな?」
足立との悪夢のようなデートから、数日後の昼下がり。
中目黒のカフェで、ランチに呼び寄せた麻沙美が席に着くなり、杏奈はすぐさま尋ねた。
「いいから。答えて」
鮨店から出た後、足立に吐き捨てられた言葉が、脳裏から離れないのだ。
『美人って、話すとつまらないんだなって───』
お姫様扱いのぬるま湯に浸かり、攻撃されることに慣れていなかった今までの自分。変わらなければならないのはわかっているけれど…それにしても、あんなひどいことを言われたのは生まれて初めてだった。
「いや……色々な意味で、面白い女だと思うけど」
「だよね!」
麻沙美の意味深な回答を素直に捉えた杏奈は、その流れで足立とのデートの件を報告する。
さすがの麻沙美も、その内容にドン引きしていた。
「それはひどいね。でも…負け惜しみが50%、ただ性格が悪いが25%、本当につまらなかったが25%…ってところなんじゃないかな」
負け惜しみ。つまり足立のひどい態度は、デート中ずっとつまらなそうにしていた杏奈への、捨て台詞のような意味もあったのではないか…と、麻沙美は冷静に分析した。
「そう…?」
「足立くんくらいのエリートなら、多少難ありでも平場じゃモテモテのはず。『イケるかも』と思ってたはずの女がつまらなさそうにしていたら、プライドを傷つけられたはずよ。面と向かって言うのはどうかと思うけど」
とはいえ、杏奈と話していて面白くなかったというのも、本音ではあるだろう。
なにせ杏奈は、足立の自慢話には何の反応もせず、話題をすり替えてばかりだったのだ。高校の同級生だからという甘えがあった結果だけれど、足立からしてみればあの日の杏奈の態度を、『つまらない』と感じてしまったのも無理はない。
「杏奈はさ、男性を喜ばせる『さしすせそ』って知ってるよね」
「え?砂糖と、お塩と…」
「そうじゃなくて…!」
麻沙美は呆れた表情を浮かべると、何冊もの本が入った紙袋を杏奈の前に差し出した。
中に入っていたのは、何冊もの恋愛マニュアル本だった。
「さしすせそなんて、基礎中の基礎。『さすが』『知らなかった』『すごい』『センスある』『そうなんだ!』かな。世の中、価値観の変化はあれど、男性の中にはいまだに古風な考えの人は多いからね。
とにかく!すぐ彼氏を作りたいなら、この返答を繰り返して男性を立てる。それだけだよ」
「立てる…ねぇ」
「女性だって、褒められて嫌な気になる人はいないでしょう」
杏奈は本を1冊手に取ると、ペラペラと中身をめくる。
メールの返信をすぐに返さない、相手を頼る、ボディタッチの極意、などの技術が、章立ててもっともらしく解説されていた。
中には、「下着で迫る」などと前時代的なワザも多いが、この類の本が売れ続けているということは、やはり相応の効果があるのだろう。
「杏奈は恋愛偏差値低いんだから、まずは基礎練習しなきゃ逃した魚は捕まえられないよ。たとえ失敗しても、学びにはなるから」
「逃した魚って…」
悔しいが、言い得て妙だと感心したその時…杏奈のスマホがブルッと短く揺れた。
SNSのフォロー通知。相手は、あのパーティーにも参加していた高校の同級生だ。
「須賀克己くんって、テレビ局に勤めているって言っていた人だよね。今さらフォロー申請なんて」
「ああ。私はチャラすぎて、高校の頃から苦手だった人だな。杏奈は?」
杏奈もゆっくり頷いた。
須賀は明治大学を出て、現在はテレビ局でバラエティ番組のディレクターをしている。パーティーが終わった後にLINEも受け取っているが、高校の時の印象の悪さゆえに、杏奈はいまだ返信をためらっていた。
「きっと返信をしなかったから、こうやって近づいてきてるんじゃないの?わざわざ名前検索して、申請してくれているんだよ」
麻沙美は恋愛マニュアルの1ページ目を開くと、そこに書かれている“じらし連絡の極意”の一部を引用して囁く。テクニック上は、連絡はすぐにしない方が効くのだという。
杏奈としては、本命にはすぐに返した方が印象はいいと思うのだが、この本の持ち主である麻沙美は、実際に恋愛、そして結婚が成就しているのだ。
この須賀とのケースにおいてもきっと、恋愛理論的にはそちらの方が適っているのだろう。
「…わかった。ちょっとがんばってみる」
杏奈は口をキッと結んで、麻沙美に誓った。
「杏奈ちゃん、こっちこっち」
「今日はお誘いありがとう!」
麻沙美とのランチから1週間後。杏奈は誓った通り須賀とやりとりを続け、食事会の誘いを受けていた。
場所は六本木の会員制のダイニングバー。店の前に到着し、須賀を呼び出すと、彼は入り口まで迎えに来てくれた。
「来てくれてありがとね」
「いいの。須賀くんともっとおしゃべりしたかったもの」
精いっぱいの笑顔で、杏奈は須賀を“立てた”。
デートではなく、食事会の誘いということに疑問はあったが、きっと最初から1対1だと照れくさいのだろう…と自身を納得させる。恋愛テクニックにまったく自信がない杏奈としても、大人数の方が安心だ。
それになにより、場所に指定されたのは“会員制のバー”。会員制、という響きが、杏奈の好奇心をくすぐった。このような秘密めいた雰囲気の場所は、芸能人やセレブだけが行くものと思い込んでいた。もちろん、訪れるのは初めてだった。
― 内装も暗くておしゃれ。さすが、業界人…。
暗証番号を押して店に入り、薄暗い照明の中を須賀の背中を頼りに歩く。
たどり着いたのは店内でも奥まった位置にある、『VIP』と掲げられた部屋だった。
「すがちーん、遅いよー。さっそく1本開けちゃったよ」
扉を開けた途端、真っ先に目に入ったのは、杏奈もテレビで見たことがある人気俳優だ。
― 霧島蓮人だ!
テレビや映画で多大な人気を誇る霧島蓮人は、ソファにふんぞり返り、シャンパングラスを傾けていた。
横柄な態度に小さく失望するものの、それでも、顔が小さく足もすらりと長いその姿に、杏奈の目は輝いた。
俳優である霧島蓮人だけでなく、芸人やベンチャー企業の社長など、VIPルームの中にはありとあらゆるジャンルの有名人の顔が並んでいる。
ふと、そのうちのひとりが声を上げた。
「あれ?彼女、どこかで見たことあるなあ」
「はい!メーカーで広報をしているので、メディアには多少出ています。倉持杏奈といいます」
「そうだった。“美しすぎる広報”って見たことあるよ。かわうぃー」
これがいわゆる“業界ノリ”というものなのだろうか。皆、妙に馴れ馴れしかった。
― …ん?これって、食事会なの?
しばらくするとそんな疑問が出てきたが、これも経験のうちだと杏奈は必死で笑顔を作る。
暗記したばかりの『さしすせそ』を駆使し、隣に座った自称・放送作家の男をひたすらほめ続けることにした。
「さすがです。あの番組に携わっているなんてすごい!」
「そんなでもないよ。統括Pと笑いのツボが一緒でよく呼ばれているだけ。あ、Pってプロデューサーのことで…」
「知らなかった。でもすごい、センスいいんですね」
杏奈は懸命に料理の皿を取り分け、ドリンクを注ぎ、ほほえみマシーンと化す。
そのせいか、場の空気は華やぎ、どんどん盛り上がっていった。
謎の美女が脇をガッツリ固めていたため、霧島蓮人とは話すことはできなかったが、その会の中心は明らかに杏奈だった。
宴が終わったのは、午前2時を回ったあたりだった。
翌日は休日とはいえ、食事会でこんな時間まで拘束されたのは久しぶりだ。
支払いはいい、というので、杏奈はそのままタクシーに乗って帰ろうとする。すると、須賀が慌ててやってきて、5枚の一万円札を目の前に差し出した。
「今日はありがとう、これ…」
「え、何これ」
「タクシー代。霧島さんから」
「うち、池尻だから、そんなにかからないと思──」
手に取り、そう言いかけたところで、杏奈は金額の意味に気づく。そして須賀はニヤニヤと笑みを浮かべて告げた。
「お疲れさま。また、会いたいな」
いつのまにか杏奈の手には、なかば無理やり5万円が握らされている。
杏奈は口角を上げて頷いていたものの、頭の中は真っ白になっていた。
― そういうことだったんだ…。これは、タクシー代じゃない。コンパニオン代なんだ。
須賀との食事会で、恋愛の経験値を積むつもりだったのに。
須賀にとっては杏奈は、恋愛の対象ではなかった。
“美人すぎる広報”という、ちょっと変わったタイトルを持っているコンパニオン。
業界人たちのお酒の場を盛り上げるための、余興のひとつ。恋愛どころか、対等な扱いさえされていない。
― これって、フラれるとか以前の問題だよね。
多分もう、須賀に会うことはない。恋愛対象男性のリストの中から須賀の名を消そうとしたけれど、ふと思う。
そもそも杏奈の名前は、須賀の恋愛リストには載りすらしていないのだろう。
5万円の形をした屈辱を握りしめながら、杏奈は暗いタクシーの中で、顔を引きつらせることしかできなかった。
◆
タクシーを降り、家までの夜道を歩きながら、爆発しそうな気持ちを必死で抑える。
確かに、あのような世界があることは知っていた。
店に入った途端、色めき立って、浮かれてしまった自分が憎い。
しかし、勉強にはなった。
本に書かれていたマニュアル通りの対応が、あれだけ重宝されるということ。やはり、古風な考えの男性はいまだ多いのだろう。
モノ扱いされているような感覚には、もちろん納得はいっていない。
けれど、これまで美人広報としてお姫様のようにちやほやされ、女の利点を今まで享受してきた身なのだ。文句を言うのもお門違いな気がした。
― 私の人生、これでいいのかな…。
タクシー代のおつりは、もちろんほとんど残っている。
麻沙美に高級なランチでも奢ってしまおうか。
このモヤモヤを解消するためにも、とにかく何かどうしようもないことに一気に使って、なかったことにしてしまいたかった。
▶前回:食べ終わったら即解散…。カウンター鮨デートで、29歳美女がやらかしてしまったこととは?
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災難続きの杏奈の恋愛。自信を失う彼女に衝撃の再会があり…