◆これまでのあらすじ
真弓(38)は、生涯独身を覚悟して手に入れた自宅マンションを気に入っていた。しかし、雄介(40)との結婚を機に、妊活に意識が向くように。子どもを持つことを想定すると、今の自宅の間取りに不安を覚え、売却を考えるが…。

▶前回:「新婚生活は順調だけど…」入籍して3ヶ月。女が親友に打ち明けた、ある心配事とは?




Vol.4 それでも、家を売る?


休日の昼下がり。

私は、友人・ミズホに紹介してもらった、不動産業者の新堂さんを自宅に招いている。夫の雄介に同席してもらおうか迷ったが、内覧の時と同様に、1人で対応することにした。

「素晴らしいお宅なのですが、いくつかの理由から、相場よりも下げた価格設定にさせていただきました」

売却査定額の話を切り出した彼の表情は暗い。

「まずは間取りです。1LDK、65平米、メゾネット。かつてはメゾネットが流行した時代もありましたが、今は新築の供給も減っているので、どの業者もメゾネットの査定には悩むと思います。

また、訴求できる層が限られます。メゾネットは“刺さる人には刺さる”のですが、小さな子どもがいるファミリーやシニア層には敬遠されますから…」

― まあ、たしかにそうだよね…。

自分を含め、メゾネットマンションを好むのは、20代から40代の健康な独身1人暮らしかDINKSだ。他の層を取り込めない時点で、市場における競争ではかなり不利になる。

「それから、築年数。不動産市場では、築35年を超えると流動性は著しく下がる傾向にあります。また、建具や一部の設備はリニューアルされているものの、お風呂や給湯器などは設置から年数が経過しているので、中期的な修繕コストの発生が懸念されます」

― 言われてみれば、給湯器は結構古かったかも。

実際、住み始めてから一度リモコンが故障したことがある。その時は運よく中古の代替品が見つかったが、既にほとんどの部品が生産終了になっていると聞いた。

新堂さんは一度言葉を切ると、重々しく口を開く。

「さらにもう1つあるのですが…」


「先日、このマンションの上の階で売り出しがありました。メゾネットではない通常の3LDKタイプで、面積は70平米。価格が7,900万円です」

新堂さんは、物件チラシをテーブルに広げる。

私の部屋は4階だが、売出し住戸は8階のファミリータイプの部屋だった。

「より面積が広く、個室も多く取れるタイプの部屋が割安で売られている状況では、これ以上の価格をつけるのは得策ではないと判断しました」

「そんな…」

7,000万円で自分の部屋を購入している私は、恨めしい気持ちで物件チラシを眺める。

いくら築古マンションとはいえ、70平米で7,900万円という価格は、エリアと今の市況を考えるとかなり安いような気がする。

「ファミリータイプのマンションの場合、売り急ぎはよく起こります。次の家を買ってしまったとか、転勤が決まったとか、実家の近くに引っ越すことになったとか…理由はいろいろですが」

身軽に動きづらいファミリー層の方が、「できるだけ早く処分したい」という心理が働くのだそうだ。その結果、市場より割安価格で売りに出すケースも多いという。

― 他の住戸の影響で安い値段しかつけられないなら、売りに出すのは待ったほうが良いのかな。

新堂さんからもらった資料を見つめながら、私はモヤモヤと考え込んだ。




― 今日は、友達に会う予定があってよかった。

新堂さんを見送った後、私は中高時代の友人たちに会うために、ホテル椿山荘東京の『ル・ジャルダン』まで足を運んでいた。

吹奏楽部時代に仲の良かったグループは、いまや皆結婚し、私以外のメンバーは子どもをもっている。コロナ前に集まったのを最後になかなか会えないでいたが、2ヶ月前から調整して、やっと今日集まることができた。

「きゃー、久しぶり!」

「元気だった?」

さすが12歳から苦楽を共にした仲。会えばすぐに“あの頃”に戻り、誰からともなく喋りはじめる。

予約していた季節のアフタヌーンティーが運ばれてくると、「わあ、素敵」「おいしそう」と、皆明るい声を上げた。

ホワイトチョコレートのムースや3種のスコーンなど、色とりどりのスイーツで彩られ、お茶会は明るい空気でスタートする。




― といっても、話す内容はめちゃくちゃ現実的だけど…。

「今2回目の育休中なんだけど、1回目の時以上に、旦那がなにも手伝ってくれないの。『ベテランだから大丈夫でしょ?』とか言って、ありえない」

「私も!来週引っ越しなんだけど、2歳と4歳の子ども2人抱えて準備するのすごく大変なのに、私に任せきりだし…」

「私も先月引っ越したよ。うちは子どもがもう10歳だから、自分の荷物はある程度自分でまとめてくれるし、手伝いもしてくれるけど…小さい子がいると、かなり大変だよね」

目下最大の関心事に話が移り、私は思わず身を乗り出す。

「やっぱりお子さんがいると大変なんだね。私、身軽なうちに今のマンションを売った方がいいのかなって、最近考え始めたんだけど…」

すると、それまで皆の話を聞いていた1人のメンバーが「たしかに、“身軽なうちに”は結構無視できないポイントだよね」と口を開いた。

「私はね、2人目の妊娠をきっかけに、今のマンションを売ろうとしたの。でも結局、つわりはひどいし上の子はイヤイヤ期で手に負えないから、せっかく内覧希望をもらっても対応できないことが多くて。色々悩んだけど、生活が落ち着くまで売らないことにしたの」

「そっか…」

― 人生のタイミングによっては、売りたくても売れない時期が出てくるのね。

その前に、家を売ってしまった方が良いのだろうか――。

「でも真弓のマンションなら、時期を選ばなくてもいつでも良い値段で売れるんじゃない?」

「ホント、港区に家を買うなんてすごいよね!憧れの暮らしって感じ」

みんなの言葉に、曖昧な笑顔を返す。

― こんなに褒められたら、『思ったほど高く売れなさそう』なんて言えない…。

私は若干気まずい気持ちになりつつ、黙ってやりすごすのだった。




それから3週間。

休日の午後、私たちは『トラットリア チッチ・ファンタスティコ』を訪れていた。

「ここの自家製ラザニアって本当においしいよね」

「ね。徒歩圏内においしいご飯屋さんがあるの、めちゃめちゃありがたい」

南欧の磁器が映えるウッディな内装のかわいらしいトラットリアだ。ランチタイムはサラダビュッフェも楽しめるから、野菜不足が気になる時は重宝している。

私はこの3週間、毎日考えてきた。

― マンションを今売るべきか、売らぬべきか。

新堂さんから査定結果を告げられた後に雄介に相談したら、彼は「真弓のマンションだし、真弓が決めていいよ」と言ってくれた。

だから、まずは自分なりに調べたり考えたりして、頭の中を整理した。

そして今、私の中でようやく結論が固まりつつあった。




「それで、真弓は家のことはあれから考えたの?」

食事も中ごろといったところで、雄介に話を切り出された。

「うん。色々考えたんだけど…やっぱり、売却を進めようと思ってる」

「そっか。査定価格が伸びなかったってこの前言ってたけど、それはいいの?」

雄介は、心配そうに私を見つめる。

「買った以上の金額では売れると思うから、大丈夫だよ。それに、はじめにしっかりと頭金を用意したから、ローンの残債はそれほど高くないんだ」

マンションを購入するとき、運用していた投資信託を一部売却して、諸費用と頭金に充てた。

今まで約3年間、毎月支払ってきたローン返済額も踏まえると、残債は5,000万円程度になる。さすがに5,000万円を下回って売ることはないだろう。

「そっか…でもさ、せめてもう少し妊活して、子どもができるってわかってから決めなくていいの?せっかく真弓が気に入って買った家なのに売っちゃって、子どももできなくて…という結果も覚悟しないといけないよ?」

まだ子どもを授かっていないことを考えてか、言いづらそうに雄介は言う。彼の主張はもっともだ。




「たしかに雄介の言う通り、子どもができてから決めるっていう手もあるかもしれないけど…この年齢だし、もしも子どもを授かれたとしたら、とにかく安心して子どもを産むことに集中したくて」

それは、この数ヶ月間考えてきたことだった。

もちろん、産む年齢が若かろうが老いていようが、新しい命の重さは等しく大切だと思う。

― でも、ここ数年、20代の時よりも生理周期が長くなっているし…。

授かれるチャンスが若い時よりも貴重になってきた今だからこそ、妊娠できたならば、「無事に産むこと」を最優先にしたい。

メゾネットの階段で滑って転んだり、引っ越しでバタバタしたり、環境の変化でストレスを溜めたり…そういった物理的・精神的リスクを、できるだけ回避しておきたいのだ。

「それに、2人暮らしだとしても、どのみち年齢を重ねたらメゾネットには住めなくなるしね。いつか売るんだったら、新婚の今このタイミングでもいいかなって思ったんだ。雄介と一緒に新しい家を探して、2人で生活を整えていくのも悪くないかなって」

「2人の生活か…。たしかにそうだね。今、俺ちょっと居候みたいな感じになってるもんね」

居候という言葉に思わず吹き出す。雄介はもともと荷物が少なかったのもあって、彼が引っ越してきてもなお、家の中で彼の“イロ”はほとんど感じない。あくまで“私の家”に、彼が同居しているような雰囲気になっているのだ。

「真弓がしっかり考えて決めたことなら反対しないし、できる限りサポートするよ。家の購入も売却も、俺は経験ないけど、できることは一緒にやるから、2人で頑張ろう」

「雄介、ありがとう!」

思わず彼の手を握る。しっかり話し合って理解し合えたことが、何よりも嬉しかった。

「実は、俺も不動産のことを色々調べてさ。提案があるんだけど…」

雄介の言葉に、首をかしげる。彼から見せられたのは、あるWebサイトだった。

▶前回:「新婚生活は順調だけど…」入籍して3ヶ月。女が親友に打ち明けた、ある心配事とは?

▶1話目はこちら:「一生独身だし」36歳女が7,000万の家を買ったら…

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