森鴎外『半日』には、明治時代の嫁姑問題のリアルが描かれています(写真:mits/PIXTA)

学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週木曜日配信)の第31回は、文豪・森鴎外の小説『半日』について解説します。

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森鴎外が最も苦労した「女性関係」

森鴎外の『舞姫』を家族の前で朗読させたという驚愕エピソードを前回(『東大医卒・森鴎外の「舞姫」背景知ると衝撃的な中身』)ご紹介した。が、エリートで野心家で真面目で几帳面な彼が最も苦労したもの、それは女性の存在なのでは……?と私はひそかに思っている。

いや、仕事にもある程度の苦労はあったんでしょうけれど。軍医だったときに「脚気」の原因がビタミンB不足にあったのをどうしても認めなくて、そのせいで何万人も軍人を死なせてしまったという逸話が残っている。ただし、この「森鴎外が日本の脚気発見を遅らせた」エピソード、最近はそこまで鴎外に軍への影響力があったのかどうか疑問視されているようですが……。

話を戻して、森鴎外の女性関係。彼は『舞姫』発表後、1人目の妻と離婚している。彼の『小倉日記』には、「故ありて別る」と書かれているが、結婚生活はたった1年だった。そもそもお見合い結婚で、鴎外が好きになったわけでもなかったらしい。

そして次に結婚した2人目の妻は、美人と評判の女性だった。が、何が困ったって、嫁・姑関係である。

森鴎外の小説『半日』は、この2人目の妻・森志げと、鴎外の母の関係が契機となって綴られた作品であると言われている。つまりは『半日』は、明治時代の嫁・姑問題のリアルが描かれているのだ。

奧さんは生得寢坊ではあるが、これもまさか旦那が講義の時間に遲れても好いとおもふ程、のん氣ではない。特別に早く起きねばならない朝は、目ざまし時計に、「高い山から」を歌はせて目を醒まして、下女を起す位の事はする。併し兎角母君の方が先に起きる。それは其筈である。母君は頗る意志の強い夫人で、前晩に寢る時に、翌朝何時に起きようと思ふと、autosuggestion で、きつと其時刻には目を醒ますのである。それと反對で、此奧さんの意志の弱いことは特別である。(『半日』「鴎外全集 第四卷」岩波書店、1972年、初版1909年)

主人公は「文科大学教授文学博士」の職をもつ、高山峻藏。彼はかわいい娘(名前を「玉」と言った)と美人な妻と暮らし、幸福な日々を送っていた。だが悩み事があった。彼は「奥さん」つまり妻と、「母君」つまり母の間で、日々板挟みになっているのだった。

妻はお嬢さん育ちだが、母は昔ながらのいい奥さんをしていた女性だったので、まったくそりが合わないのである。例えば上に引用したのは、主人公の家で起きた「嫁と姑、どっちが早く起きるのか」問題。

妻はもともと寝坊しがちな、意志が弱めの女性だった。だが結婚してからはできるだけ努力をしており、用事があるときは、目覚まし時計を使うくらいのことはしている。

が、もっと早起きなのが、主人公の母だった。彼女は目覚ましなんて使わなくても“autosuggestion”つまり自己暗示で「よし、明日は5時に起きよう」と思えば起きられる体質なのだった。凄すぎる。こんな母に、お嬢さんな妻が勝てるわけがない。というかほとんどの女性は勝てないだろう。

絵に描いたような「皮肉っぽい姑」

そしてこの母、絵に描いたような「皮肉っぽい姑」なのである。現代だったらインターネット掲示板にでも書き込まれていそうな内容なのだが、れっきとした文豪・森鴎外の小説なのだから笑えてしまう。

その時臺所で、「おや、まだお湯は湧かないのかねえ」と、鋭い聲で云ふのが聞えた。忽ち奧さんが白い華奢な手を伸べて、夜着を跳ね上げた。奧さんは頭からすつぽり夜着を被つて寢る癖がある。これは娘であつた時、何處かの家へ賊がはいつて、女の貌の美しいのを見たので、強奸をする氣になつたといふ話を聞いてから、顏の見えないやうにして寢るやうになつたのである。

なる程、目鼻立の好い顏である。ほどいたら、身の丈にも餘らうと思はれる髮を束髮にしたのが半ば崩れて、ピンや櫛が、黒塗の臺に赤い小枕を附けた枕の元に落ちてゐる。奧さんは蒼い顏の半ばを占領してゐるかと思ふ程の、大きい、黒目勝の目をばつちり開いた。そして斯う云つた。「まあ、何といふ聲だらう。いつでもあの聲で玉が目を醒ましてしまふ。」(『半日』)

「まだ湯は沸かないのかねえ」と鋭い声で言う姑 VS 「なんという声だろう、いつでもあの声で子どもが起きちゃうわ」と言う嫁。

美人すぎて強盗に襲われることを恐れ、毎日すっぱり顔までパジャマで覆って寝る彼女も、まあまあエキセントリックであることがわかる描写ではあるが。しかしこの美人が起きてまず言うことが「あのお義母さんの声、子どもを起こすんですけど!」なところに日々の嫁姑バトルが見えるところである。

しかし妻も妻で負けていない。嫌なことは嫌だと言う性格だったらしい。例えば主人公は休日、母を連れてピクニックをするのが昔からの習慣だった。結婚後、これに妻も誘ったところ、「お義母さんと一緒なら、嫌です」とぴしゃりと言われたという。

「どうもあなたのおかあ樣と一しよに徃くのは嫌ですから、どうぞわたしに嫌な事をさせないやうにして下さい」と云つた。これを始として、奧さんの不平を鳴す時には、いつでも此「嫌な事をさせないやうにして下さい」が、refrain の如くに繰返されるのである。奧さんは嫌な事はなさらぬ。いかなる場合にもなさらぬ。何事をも努めて、勉強してするといふことはない。己に克つといふことが微塵程もない。これが大審院長であつたお父さまの甘やかしたお孃さん時代の記念(かたみ)である。(『半日』)

……どこまでフィクションなのかはわからないが、鴎外、毎日こういうバトル見てたんだろうな、と思わせる描写だ。「奧さんは嫌な事はなさらぬ。いかなる場合にもなさらぬ。何事をも努めて、勉強してするといふことはない。己に克つといふことが微塵程もない」あたりの言葉には、なんだかやけに力がこもっているように見えてしまう。

子どもの前で「あんな人」呼ばわり

実際、鴎外の2人目の妻は、この小説そのまんまの、美人なお嬢様育ちの女性だったらしい。『半日』の「奥さん」は甘やかされたお嬢さんだったという旨がよく綴られるが、それはもう鴎外の妻そのものだったという。

『半日』は、主人公から見た奥さんへの愚痴が綴られ続ける。例えば義母のことを「あんな人」と言って、子どもにも「あんな人のところには遊びに行くんじゃありません」と述べている。

ちなみに主人公は「おいおい、子どもの前で『あんな人』呼ばわりは」とたしなめるのだが、妻は「あんな人だからあんな人と言うのだわ」と即座に返すのだった。嫁、強い。そして義母のことを「まるであなたの女房気取り」と悪口を言うのだった。

主人公は妻にもっと芸術的になってほしいと思うのだが、まったく芸術にも興味を持たない。自然に対しても興味は持たない。

博士は花なぞを持つて歸つて遣つたことがあるが、奧さんは少しも喜ばなかつた。それから「お前は月なぞを見て何とか思つた事があるかい」と問うて見た。奧さんは不審らしい顏をして、「いゝえ」と云ふのみであつた。さういふ訣(わけ)だから、散歩をしたつて面白くないのも無理はない。町を歩いて窓の内に飾つてある物を見ても、只ゞ見て面白いとは少しも思はぬ。(『半日』)

森鴎外はガーデニングが趣味だったというのだから、この「まったく自然にも興味を持たない」ことへの不満にも、力がこもっているように見えるのだ。ちょっと笑ってしまう。

こんな妻について、『半日』の主人公は、このように語る。「東西の歴史は勿論、小説を見ても、脚本を見ても、おれの妻のやうな女はない」と。もっと義母のことを敬えよ!と思うのだが、妻はまったくそんな努力をしないのだった。

だが、主人公は離婚もしないし、なんだかんだいって、妻のことを好きらしい。なぜなら美人だからだ。

『半日』には妻の容姿のよさだ繰り返し描かれており、一方で、強気な性格と趣味がよくないこともまた繰り返し描かれている。読めば読むほど「うーん、顔が好みだと許せちゃうってことか!?」と読者としては言いたくなるのだ。

森鴎外の哀愁が見えるラストシーン

そして『半日』という小説は、嫁姑問題に何の解決も見せず、終わる。ラストシーンの文章はこれである。

臺所(だいどころ)の方でこと/\と音がして來る。午(ひる)の食事の支度をすると見える。今に玉ちやんが、「papa, 御飯ですよ」と云つて、走つて來るであらう。今に母君が寂しい部屋から茶の間へ嫌はれに出て來られるであらう。(『半日』)

なんだか鴎外の哀愁が見えて、いい終わり方だ。家族の問題に解決はない。だがそれでもお昼の時間はやってくる。みんなでごはんを食べる。『半日』には鴎外の人間らしさが詰まっていて、「いい小説だな……そして鴎外、大変だったんだな……」と読むたび感じてしまうのだ。

(三宅 香帆 : 文筆家)