20代の頃と全く同じ服に、レディディオールで街を闊歩する35歳独身女。痛い若作りを続けた結果…
夜が明けたばかりの、港区六本木。
ほんの少し前までの喧騒とは打って変わり、静寂が街を包み込むこの時間。
愛犬の散歩をする主婦や、ランニングに勤しむサラリーマン。さらには、昨晩何かがあったのであろう男女が気だるく歩いている。
そしてここは、六本木駅から少し離れた場所にあるカフェ。
AM9時。この店では、港区で生きる人々の“裏側の姿”があらわになる…。
▶前回:帰宅するなり「風呂が沸いてない」とキレ散らかす夫。恐怖心を抱いた31歳妻は、まさかの行動に出る…
Vol.4:愛(35)「まだ独身だけど、若く見えるほうだから大丈夫…!」
「来月には36になるなんて…。あぁ、考えたくもない」
もうすぐ誕生日を迎える私は、将来への危機感に苛まれていた。
港区に入り浸って早10数年。若さと美しさを振りかざして六本木通りを闊歩していた頃の自信は、どこにいったのだろう。
― あのとき告白してくれた人と、結婚しておけば良かった。
そう後悔したって、もう遅いのだ。
「彼氏の年収は、最低1,000万円以上じゃないとイヤだ」とか「私ならもっといい人に出会えるから、きっと今じゃない」とか…。
そうやって男を値踏みして得られた結果は“36歳独身・彼氏ナシ”という惨めな肩書だった。
今日はそんな私の悩みを、少しの間だけ忘れられる日。リッツ・カールトンの『タワーズ』でモーニングを堪能する予定なのだ。
この習慣は、港区での遊びを覚えた頃に始めたもの。ハイスペ男性と釣り合うために教養を深めようと、高級ホテル巡りをしていた時期の名残だ。
ラグジュアリーな空間にいる時間は、かつて私が無双していたあの時代を思い出させてくれる。
「ヤバっ!もうそろそろ準備しないと…」
私はいそいそと支度を始めた。20代の頃から変わらないロングヘアは、毛先だけゆるく巻く。フォクシーのワンピースを着てレディ ディオールを右手に持つと、鏡の前に立った。
「うん、悪くない!」
35歳でも若く見えるほうだし、まだまだ甘いワンピースだって全然着られる。そう安心してリッツへと向かった。ここに、まさかの出会いが待ち受けているとも知らずに…。
45階に位置するここのホテルモーニングは、東京を一望できる絶景がたまらない。すでに顔馴染みのスタッフに軽く会釈をすると、窓際のいつもの席に案内してくれた。
― 残念、今日は雨だからよく見えないなぁ。
空気中の水分が東京タワーの輪郭を柔らかくとらえる。その姿を、しばらくぼんやりと眺めていた。
オーダーを済ませ、ふと視線を上げる。すると近くの席に、私と同じように1人で来店している男性がいることに気づいた。
平日の朝8時に、1人でこんなところに来ている男性はなんだか珍しい。
― だけど、なんていうか…。
平日はビジネスマンとか優雅なマダム、あとは品の良さそうな親子連れなどが多い。でも彼はシンプルな黒のシャツで、ヘアスタイルもあんまり洗練されていない。
一言で言ってしまえば、場違い感がある。
「まあ、いろんな人がいるもんだよな」と思考を巡らせていると、出来立てのエッグベネディクトがテーブルの上に置かれた。
ハムの上には、ほうれん草とポーチドエッグ。特製のオランデーズソースと絡めて食べると、口いっぱいに幸せが広がる。
「うん、美味しい…!」
至福の瞬間だ。ずっとこの時間を、そしてこういう朝を味わっていたいと心から思う。
…でも、いつまでもこんな生活ができるとは思っていない。たいしたお給料ももらえない仕事だし、貯金も目減りしている。
昔は若さと美しささえあれば何でも手に入ると思っていたけど、そんなことはない。おかげで周囲に誇れるスキルや才能を身につけることなく、ここまできてしまった。
何者にもなれない行き遅れた三十路過ぎの女に、どんな未来が残されているんだろう。
将来への不安が拭えなくて、エッグベネディクトの味を感じたのは最初の一口だけ。せっかくの朝食なのに、食べ進めるごとに味を感じなくなっていった。
「また、お越しくださいませ」
いつもだったらウェイターの言葉にも笑顔で返すのに、今日はそんな気分にはなれなかった。
「また」とは言われても、あと何回こういう場所に来れるのだろうか。やっぱり優雅な暮らしを続けたいなら、結婚するべきなのだろうか。
― でも、そもそも私って結婚したいのかな?
何度考えても答えを出せない問いに、脳内が支配される。
そしてまっすぐ家に帰る気分ではなくなってしまった私は、近くのカフェに向かうことにした。
天井が高く開放感のあるカフェで美味しい深煎りのコーヒーを飲めば、モヤモヤした気持ちも少しは晴れるかもしれない。
入り口のドアを開けてすぐ、左奥のカウンター席に向かう。一番端っこの席が私のお気に入りなのだ。
でも今日は、その席にすでに先客がいた。
「…あれ?」
私は足を止め、先客をじっくりと観察する。その姿にはなんだか見覚えがあった。
それは先ほどホテルモーニングを堪能していたときに見かけた、1人客の男性だった。こちらの視線に気づいたらしく、目の前の彼が顔を上げる。
「…お姉さん、さっきホテルにいましたよね」
「えっ!?」
驚いた。向こうも私のことを認識していたらしい。
「あっ…。はい、お兄さんもいらっしゃいましたよね?平日の朝に、男性が1人でなんて珍しいなと思って。私も覚えてました」
彼の雰囲気は全くタイプではないけれど、覚えていてくれたことが嬉しかったので好意的な返答をしてみた。すると、こんなことを言われたのだ。
「僕も、イタい人がいるなって思って見てました」
― えっ。この人今、何て言った?
戸惑いすぎて返す言葉も見つからない私を見つめながら、目の前の男は続けた。
「若作りしたいんだろうけど、その服全然似合ってないし。むしろ痛々しいですよ。
それと、偉そうな態度。自分がイイ女なんだと勘違いしてるようですが、上から目線でウェイターに注文してる感じが残念だなって」
唐突に罵詈雑言を浴びせられ、面くらった。ただ、赤の他人にそこまで言われる筋合いはない。
「ちょっと失礼すぎません!?私があなたに何かしました?しかも人を見た目で判断するなんて」
「君も、僕を見下すような目で見ていたじゃないか。だけど僕は君と違って、決して過去に生きていない」
― 何、いきなり。どういうこと?
「その服もバッグも、結構前に買ったものでしょう。どちらも少し傷んでいるから。僕からしたら、贅沢な暮らしをしていた過去に縋っているように見える。
当時のものばかり身につけているあたり、今を生きていない証拠だよ」
その言葉に顔が真っ赤になる感覚を覚えた。どうやら先ほど出会ったばかりの男に、私の考えはすべて見透かされていたらしい。確かに私は、過去に縋りついて生きている。
「…だとしても、見知らぬあなたにそんなこと言われたくありません」
思わず捨て台詞を吐くと、荷物をまとめて店を出た。
◆
「なんなのよ、あの失礼な人は…!」
でもこれだけイラついているのは、彼の言葉が事実だから。見ず知らずの彼に、私の浅はかな生き方がバレていたなんて。
― あぁ、もう。本当に最悪!
そして私は帰宅するなり、20代の頃に集めていたブランド品の数々をゴミ袋にまとめ出した。「絶対に捨てられない」と古くなっても保管していたのだけれど、感情に任せて全部処分することにする。
だけど、いざ手放すと意外とスッキリした気持ちになった。
「そっか。私、もう港区女子じゃないんだ…」
とっくの昔に終わりはきていたはずなのに、未だに過去の煌びやかな生活に必死に追いつこうとしていた。
でも現実を受け止めて、新たな一歩を踏み出せばいい。そう思った瞬間、サーッと目の前が晴れたような気分になった。
◆
あれから3ヶ月。私はバッサリと髪を切り、仕事を変えた。そして今は、ある編集プロダクションでグルメ雑誌の編集者をしている。
ブランド品にこだわることも、ラグジュアリーホテルのモーニングを巡る習慣もやめた。
唯一残ったのは、港区女子として培ってきた知識や経験。その1つが、美味しい飲食店の情報だった。
食べることは昔から好きだったし、いろんな店に連れて行ってもらった。その経験が活かせる職に就けたことで、これまでにはなかった充足感が得られるようになったのだ。
― あぁ。私、今幸せだ。
そんな満たされた気持ちで、あのカフェの前を偶然通り過ぎたとき。窓際のカウンターに、あの失礼な男が座っているのを見つけた。
今の私を見て、彼は何て言うだろうか。話しかけてみたくてカフェに立ち寄ろうかと思ったけれど、次の取材先に向かわなくてはならない。
私は心の中で彼にお礼を言うと、六本木駅に向かって走り出した。
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独身のまま駐在へ行き、日本に戻ってきたけれど…。いつまでも結婚できないハイスペ男