●「ゴチ」が20年以上支持を得る理由

注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、放送作家の桝本壮志氏だ。

『ぐるぐるナインティナイン』をはじめ数々の人気番組を担当しながら、ABEMAで『FIFAワールドカップ』や『Japan’s Got Talent』を手がけるなど、テレビとネットを股にかけて活躍するが、最近は「オワコン」と言われることもあるテレビに「僕は未来しか感じていないです」と語る。そんな同氏が、長年にわたりNSCの講師を務めてきた経験から感じる“若い力”を信じて、「自分に課した」こととは――。

桝本壮志1975年生まれ、広島県出身。NSC(吉本総合芸能学院)を経て芸人としてデビューした後、放送作家に転身。『ぐるぐるナインティナイン』を皮切りに、『笑っていいとも!』『天才!志村どうぶつ園』『今夜くらべてみました』などの人気番組や、ABEMAで『亀田興毅に勝ったら1000万円』や「FIFAワールドカップ2022カタール」のプロジェクトも手がける。14年からは『鯉のはなシアター』(広島ホームテレビ)で企画・構成にMCも担当し、自身によって小説化、それを原作に映画化もされた。現在の担当番組は、『ぐるナイ』『鯉のはなシアター』のほか、『ナニコレ珍百景』『世界まる見え!テレビ特捜部』『池上彰のニュースそうだったのか!』『今夜はナゾトレ』『Going! Sports&News』『バズリズム』『Japan’s Got Talent』など。10年からNSC講師、20年に小説『三人』を上梓、『サンデージャポン』にコメンテーターとして出演するなど、マルチに活動する。

○■もう一度、ゼロからテレビ界と対峙してみたい

――当連載に前回登場した『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』(中京テレビ)の北山流川ディレクターが、桝本さんについて、「駆け出しの頃からお世話になっていて、2週間に1回くらい新しい企画を考える会をやっています」と言っていたのですが、どのように出会ったのですか?

中京テレビのお偉いさんに「企画が通った若手がいるんで、面倒見てくれないか?」と言われ、『オレの一行』という番組をやることになったのが出会いのきっかけです。すると、流川さんは会議の合間に新企画を何案も見せてきたんです。テレビにすごく夢を持っているキラキラした若手だなと感じましたし、財布がレシートでパンパンで、焼き芋みたいなフォルムになっていて。ダメな人が大好きな僕はすぐに好きになりましたね。

そんな流れから、今でも2週間に一度、お互いの新番組企画を持ち寄る会議をしています。僕はNSC(吉本興業の養成所)の講師をやっていて、EXITの兼近(大樹)くん、ぼる塾、オズワルド、空気階段らと接してきたので若い人の力をめっちゃ信じてるんですよ。若い能力者のしかるべきツボを押してパフォーマンスを向上させていくことが僕の得意分野でもあるので、テレビの制作者でもやってみようと思った中の1人が流川さんですね。

――他にも、若手の制作者と企画を考える会をやってらっしゃるんですか?

そうなんです。去年、力を入れてきた番組の一つ『今夜くらべてみました』(日本テレビ)が終わったので、自分というものを更地にして新たに構築していくということを自分に課して、新番組企画を100本作ったんですよ。しかも、名のある方とじゃなくて各局の若手10人ほどと一緒に会議をさせていただいてます。

――実際に通った企画もあるのですか?

番組化されたのは5本程度ですが、これから花が咲く種があると思っています。

――桝本さんほどの売れっ子作家であれば、番組のオファーはどんどん来ると思うのですが、それでも“自分に課して”若手と企画を作るという考えになったのですね。

いつもNSCの生徒に、「常に自分の身を最前線に置いてトライしてみよう」と言ってるのですが、その割には何もトライしてない自分がダサいなと思ったんです。そんなときに10年間ずっと力を注いできた番組が終わったこともあり、もう一度、ゼロから放送作家としてテレビ界と対峙(たいじ)してみたいと考えました。そんな矢先、ちょっと体調を崩して、半年くらいだましだましやってきたんですけど、それが先日ようやく完治して「よし!」と思ったタイミングで今回のインタビューのお話を頂いたので、この取材はリスタートを切る上ですごくうれしいお仕事です。

――そう言っていただけると、こちらもありがたいです。

○■人生が暗転した矢先…「明日から『ぐるナイ』に入れ」

――桝本さんは、放送作家の前は芸人さんとして活動されていたんですよね。

幼少期から物語を創作するのが好きで、中学生のときは漫画を描いて『週刊少年ジャンプ』の賞に送ってたんですが、高校時代に『ダウンタウンの流』という漫才ビデオや、『GAHAHAキング』(テレビ朝日)で爆笑問題さんの漫才を見てお笑いに憧れ、漫才・コント・落語を創作するようになったんです。それで、大阪吉本に入って新喜劇や漫才を書く作家になろうと思って、高校3年の夏に地元の広島からNGK(なんばグランド花月)に行き、裏口の警備員に「吉本興業で作家になりたい」と直談判しました。するとNSCに電話をつながれ、安田さんというNSCの校長から入学願書を渡されたんです(※)。田舎者の僕は、そこで初めてNSCという存在を知りました。

(※)…当時は吉本にYCA(裏方を養成するスクール)はまだ開校していなかった。

――すごい行動力ですね。

軽い気持ちでNSCに入学して、芸人活動をスタートさせました。当初は、同期トーナメントで優勝、「今宮えびす漫才コンクール」で同期の中では最上位になるなど楽しさもあったのですが、ある日、NGKで行われた対決形式のライブで野性爆弾と戦うことになったんです。僕らは3分間しゃべり倒す漫才でややウケ、彼らはくっきー!が振り向いてひと言発するだけのコントで大爆笑。そのとき、「表現者としては三流だな」と痛感し、冷静に周りを見渡せば、次長課長、ブラックマヨネーズ、チュートリアル徳井、超新塾、クワバタオハラ、チャンス大城など、表に出るべき能力者がたくさんいました。

時を同じくして、大阪の西成というところでバイトしてたんですけど、そこで「お金を取った」とあらぬ疑いをかけられ、自宅から連れ去られてボッコボコにされて軟禁されたんです。それでうめだ花月の出番を飛ばして吉本から三行半状態になりまして。そんなことも重なって、自分が最初に吉本に行こうと思った目的の「作家」っていうのがフッと降りてきて、後に俳優になり『アウトレイジ』や『ラーゲリより愛を込めて』とかに出てる三浦誠己っていう同期と一緒に東京に出て、吉本の劇場でほぼ住み込み状態の見習い作家をやり始めたんです。

――波乱万丈のきっかけですね…。

ある日、奥谷達夫さん(現・吉本興業副社長)が、劇場の作家全員から番組企画を募る機会があって3つほど提出したら、数日後、いきなり奥谷さんに寿司屋に呼び出され、「お前は放送作家が向いてる」とおっしゃっていただき、『放送作家になろう!』(同文書院)という本を手渡されました。それで放送作家に興味を持ちながらも、目の前の劇場の雑務に追われる日々だったのですが、その劇場が突然、閉館することになったんです。東京にあった吉本のほかの劇場も閉じるとなって、ようやくスタートさせた劇場作家の職も失うことになってしまったんです。麒麟の田村(裕)さんの『ホームレス中学生』にあった「これからは各々頑張って生きてください」っていう家族の解散宣言と同じような最期でした(笑)

そこでまた人生が暗転しちゃって、「田舎に戻る」という選択肢もよぎったのですが、ふと本棚にあった『放送作家になろう!』が目に留まり、その日のうちに企画書をいくつか書き上げて、麹町にあった日本テレビに行きました。そのときに見てくださったのが、大プロデューサーだった桜田和之さん(現・静岡第一テレビ会長)で、企画書を読み終わると「明日空いてる?」って言われて、「はい!」と答えたら、「明日から『ぐるナイ』に入れ」と言ってくださったんですよ。

――えーー!!

それで僕はいまだに『ぐるナイ』をやらせてもらってるんです。だから桜田さんには本当に感謝しています。入った頃は、僕より早く数人の駆け出し作家がいましたが、毎月1人のペースでクビになっていくんです。「次は僕の番だろう」と思っていたのですが、「ゴチになります!」を考案した作家の堀江利幸さんが、「桝本のネタ面白いじゃん。あいつと一緒にゴチやりたい」と言ってくださって、「ゴチ」の担当になれました。当時23〜24歳くらいだと思いますが、何とか首の皮一枚つながって番組内でポジションを得ることができました。

ナインティナイン

――「ゴチ」では、どのような部分を担当されているのですか?

「ゴチ」はあくまでガチ勝負なので、担当しているのはリアリティ以外の部分。ゲストが決まって、どういうふうにトークを引き出していくかのストーリーラインや、スペシャル食材を懸けたゲームの考案などですね。

――やはり放送作家としての基礎となった番組ですか?

そうですね。毎週、会議終わりに堀江さんと飲みに行き、作家のいろはを教えていただきました。「ゴチ」で鍛えてもらった「短文で美味しそうに耳に響くナレーション技法」は、その後の作家生活でも大いに役立ちました。

――「ゴチ」を黎明期からご覧になって、メンバーの交代が大きく注目を集めるお化けコンテンツになっていくのは、どのように見てきましたか?

これは当時の総合演出・伊藤慎一さんが語っていたのですが、企画を立ち上げるとき、ナイナイさんに「敗者の自腹はテレビ局が補填しようか?」と相談したら、ナイナイさんが「自腹じゃないと面白くならない」と否定したそうです。自腹を回避したいと祈る姿、敵を探りあうトーク、高級料理を舌先で円換算していく顔、その“リアル”が画面から染み出して視聴者に伝播していくと共に高視聴率になっていきましたね。20年以上たった今でも、千鳥ノブさん、池田エライザさん、渡辺直美さん、中条あやみさん、中島健人さんと、どこ局でも引く手あまたの彼らを、負ければいとも簡単に卒業させてしまう。そのリアルさは健在です。

また、「ゴチ」が人気企画になった一因は、“新しいトーク番組”でもあった点だと思っています。人気者のVIPゲストが出演すれば、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」や『徹子の部屋』のように、ゲストを深掘りするトークにもニーズがあります。ハラハラする自腹ゲームを縦軸にしながら、ゲストの近況や意外な一面を引き出すトークフレームにもなっている。美味しい食事×トークは相性も良い。それも「ゴチ」が20年以上支持を得ている点だと思っています。

●想像を超えたトーク番組に昇華した『今夜くらべてみました』

――放送作家としていきなりゴールデンの番組からスタートして、他の番組にはどのように広がっていくのですか?

桜田さんに救っていただいたので、「日本テレビの番組しかやるなよ」って言われてたんです(笑)。でも、桜田さんが「こんなおもろいやついるよ」って紹介してくれて、日テレだけで10本くらいになりました。本当に運と人に恵まれて、自分の型みたいなものを作っていった感じがありますね。

その中で、嵐の最初の冠番組(『真夜中の嵐』)や、AKB48の最初の冠番組(『AKB1じ59ふん!』)をやらせていただいて、「ゴチ」と一緒で国民的スターになっていく人たちのゼロイチみたいなところに立ち会えたのも、経験として大きいです。

――他局にはどう広がったのですか?

僕はスタートラインが吉本だったので、吉本の社員さんに呼ばれて番組に入ることもあって、ロンドンブーツさんの『まぶだち』でTBS、島田紳助さんの『ウォンテッド!』でフジテレビ、藤井隆さんの『Matthew's Best Hit TV』でテレビ朝日といった感じで、各局とのご縁が生まれました。

――ほかにも、『笑っていいとも!』を担当されていましたよね。

これも、自分を育てていただいた番組です。新しい血を入れたいってときに、『ぐるナイ』を一緒にやっていた小野高義さん(放送作家)が僕の名前を出してくださったようで、呼んでいただきました。やはり子役が来てもハリウッドスターが来ても、32年間、どんな相手とでも同じトークの熱、面白さを保った、タモリさんの“トークの品質管理の高さ”を間近で見れたのは非常に勉強になりました。

様々なテレビ史に残る現場に立ち会わせていただき、トム・クルーズが来たときも担当曜日でした。CM中に客席に降りて1人1人と握手してたので、本物のスターだと思いましたね(笑)

――『いいとも』で一緒にやられていたディレクターさんは、今『ぽかぽか』の総合演出をされている鈴木善貴さんですね。

出会った頃、『いいとも』の会議でいきなり「さっき雷が落ちてきて…」と、小さな雷に直撃された話を真顔で語ってきたのがまず衝撃でした(笑)。ディレクターは、編集力、企画力、ロケ力など様々な能力に秀でている方がいらっしゃいますが、タレントさんに企画をプレゼンしたり、“その気”にさせる力も必要です。彼はそのコミュ力がズバ抜けているんです。

明石家さんまさんなど大物にも気に入られていますし、『いいとも』にトム・クルーズが来たときも、まるで友達と話すみたいにケロっとしてた(笑)。会議の雰囲気づくりも上手いし、彼とはまたどこかで仕事したいですね。

『今夜くらべてみました』

――最初に、「近年一番力を入れていた」とおっしゃっていた『今夜くらべてみました』は、どのように立ち上がったのですか?

前身番組が終了することになって、僕と上利竜太さん(総合演出)と桜井慎一さん(放送作家)さんで話していたんですけど、上利さんが「なんか比べる番組をやりたいんですよね」っていうひと言から始まりました。

最初は又吉(直樹)さん、オードリーの若林(正恭)さん、ゴールデンボンバーの鬼龍院翔さんという3人を比べて、そこから女性を比べるということに活路を見出しました。「女性くらべ」に手応えを感じたのは、例えば同じ「ディスニーランド好き」でも、Aさんは「アトラクション好き」、Bさんは「ディズニー内のグルメ好き」、Cさんは「ディスニーにある植物が好き」と、同じ“好き”でも女性は十人十色でバリエーションに富んでいたからです。

――会心の回や印象的な回を挙げると、何になりますか?

通常3人のゲストをくらべる番組でしたが、山田孝之さんや、きゃりーぱみゅぱみゅさんの回では、あえて無名のリアル友達を座らせたんです。すると、リアル友達だからこそ知っている、ネットにもSNSにも載っていない暴露ネタや第一情報のオンパレードで、想像を超えたトーク番組に昇華したことですね。

このリアル友達シリーズはいつも新鮮で、桐谷美玲さんの回では学生時代の5人のリアル友達が登場して「美玲はカラオケに行くと、モー娘。を立ち上がって熱唱する」と暴露して、実際にカラオケをかけたら、ご本人がガチで熱唱してくださったんです。あれはネットのザワつきを含め印象的でしたね。

――テーマ設定とともに、あのボード作りが命ですよね。

番組開始からしばらくは、僕がすべてボードを構成する任務を与えていただきました。『今くら』は、ゲストのスマホをモニターにつないで「注文履歴」を公開したり、バーチャル化したゲストをスタジオに登場させたり、当時としては画期的なデジタル演出をやっていたんですが、全部デジタルじゃつまんない。そこで編み出されたのが、あえてアナログな巨大ボードを使う手法でした。

お昼のワイドショーからヒントを得たのですが、ワイドショーでの“めくり”は「重要な情報」部分だけど、バラエティでの“めくり”は「おもしろ」の部分。「次はどんなおもしろいことが隠れているんだろう?」というワクワク感が、視聴者の方にうまく伝播していったんだと思います。

○■本田圭佑の「これ、誰がBGM決めてるんですか?」に成功を確信

――最近では、ABEMAの『FIFAワールドカップ』もご担当されていました。

元々『日曜×芸人』をやっていたときのテレ朝のディレクター・片野(正大)さんがABEMAに行かれて、「桝本さん一緒にやりませんか?」と誘ってもらい、『◯◯に勝ったら1000万円』から、『72時間ホンネテレビ』「天心vs武尊(THE MATCH 2022)」「安室奈美恵引退特番」と、大きな番組に携わらせていただいて、ワールドカップでは立ち上げ段階から大きな肝を決める会議に参加させていただきました。

正直言って、ワールドカップの放映権を勝ち取り、本田圭佑さんをキャスティングした藤田晋社長が一番の企画屋だと思います。その企画の中で僕がやらせていただいたことは、ABEMAさんが掲げたキャッチコピーが「ネットを揺らせ」という、ゴールネットとインターネットにかけた打ち出しだったので、「今までのスポーツ中継がやってこなかったことやろう」という想いを念頭に置きながら会議に挑みました。例えば、中継カメラもセンターだけじゃなく、上から俯瞰するもの、日本側のアングル、相手国側のアングルなど、「視聴者が自由に選べるシステムにしませんか?」と言ったり、本田さんの解説は必ず革新的なものになると思ったので、試合終了直後に「解説のまとめ」をすぐにYouTubeで流したり、スペイン戦のハーフタイムに事前告知なしで本田さんとイニエスタとの対談を入れてみたり、ネットユーザーが驚く“サプライズ”をたくさん用意しました。

――地上波だったらハーフタイムは前半の振り返りやCMの時間ですもんね。

ほかにも、サッカーに興味のなかった人たちを取り込むために、「(ABEMA FIFA ワールドカップ)サポーターイレブン」と題して、平成フラミンゴ、にじさんじ、恋愛リアリティーショーに出ていた岡田蓮さんといった方々のご協力を頂き、ワールドカップとの接触機会を増やすとか、そういった“側(ガワ)”をどんどん作っていきました。約半年間、どうやったら今までにない国民行事にできるか? どうやれば波が伝わるか?と、ずっと考えていましたね。

本田圭佑氏 (C)AbemaTV, Inc

――やはりABEMAの中継は、本田圭佑さんのブレイクが大きかったと思います。

そうですね。“側”をそろえたものの、目玉はやはり本田さんですし、人生初解説になのでどんなテンションで声を届けるのか、全く読めないまま初戦のドイツ戦を迎え、食い入るように第一声を待ちました。すると、選手が入場して、本田さんが「これ、誰がBGM決めてるんですか? もっと気分上がる曲でもいいでしょ?」って、いきなりツッコミを入れたんですよ(笑)。その瞬間に、「やった!」とガッツポーズしましたね。

僕らは事前に、本田さんがサッカー少年たちに向けて解説してる過去動画をチェックしていて、とても深いプレー解説をする方、独自のサッカー哲学を持っている方だとは分かっていましたし、接点のない選手には「鎌田さん」と“さん付け”、知ってる人は「(吉田)麻也」と“呼び捨て”になることも読んでいました。心配なのはテンションだったんですが、BGMへのツッコミに始まり、試合が始まれば「オフサイやろ! オフサイやろ!」「ギュンドアンうざいわ〜」って、まるで自分がピッチに立っているかのようなテンションになった。それが、深いプレー解説と最高のマリアージュを醸成して、僕らが想像していた以上の“90分間の本田節”になったんです。

よくテレビマンが、予想しているものを超えたときにヒットすると言いますが、ワールドカップでは本田さんの周りでそれが起こったんです。テレビを作っていて、うれしい瞬間を何度か経験していますが、それがスタジアムのBGMへのツッコミだったんですよね。

――「ゴチ」がガチでやったからみんな本気になって、予想しなかったドラマが起こるというのに通じる話ですね。

そういうのって、あると思うんですよ。この前、『サンジャポ(サンデージャポン)』の後に喫煙所で太田(光)さんとしゃべってて、欽ちゃん(萩本欽一)の何がすごいかって、それまではコント55号で「いかに画面からはみ出すか」ってことばかり考えてた人が、『欽ドン!』では動かない自分のバストアップを撮らせて、カメラの前にお客さんを並べる演芸スタイルの収録を始めたいと言った。スタッフは「なぜだろう?」と疑心暗鬼だったんですが、画面を通して見たら、一同が「これは新しい!」と膝を打ったんですって。

テレビマンたちが出会ってきた想像を超える瞬間っていろいろあるんでしょうけど、その一端を見た気がしましたね。去年は体調を崩して入院もしていたのですが、ABEMAのワールドカップがあったおかげで支えになりました。

●テレビには「未来しか感じていない」

『Japan’s Got Talent』 (C)AbemaTV, Inc

――ABEMAでは、こちらも大型企画の『Japan’s Got Talent』を担当されていますが、地上波のテレビと違う面白さは、どんなところに感じていますか?

テレビはゴールデンタイムになると100人ぐらいスタッフがいることもあり、プロデューサーも作家も何人もいるんですが、ABEMAは僕1人で考えなきゃいけない会議や、オーダーに応えないといけないことも多いので、それがやりがいにつながりますね。そのやりがいは、しばらく地上波で味わえてない部分でして、「ワールドカップやります。本田さんで成功させなきゃいけません。お願いします」って言われたら、やっぱり燃えますよね。本当に少人数なので、作家ではあるんだけど、演出面も考えさせていただいたお仕事だったんです。ABEMAさんの仕事はそういうことが多くて、今回の『Japan's Got Talent』も結構俯瞰で見させていただいている部分があります。

放送作家って、最初は青島幸男さんがクレイジーキャッツのコントを書いていたところから、高田文夫先生、秋元康さん、鈴木おさむさんと、時代の変化とともに役割も変わってきてると思います。酒井健作さんが『ドッキリGP』(フジテレビ)の演出になりましたが、これもまた1つ新しい形になってきたなと思いますね。

――地上波とネット配信を分け隔てなくやってらっしゃいますが、よく言われる「規制」の部分で大きな違いは感じますか?

地上波はBPO(放送倫理・番組向上機構)もあり、テレビ局がやや自主規制する側面もあるのかもしれないですが、そんなには変わらないと思います。

――企画の発想の仕方は違いますか?

これは全然違いますね。テレビというのは1クールとか2クールとか、中長期的にランニングしながら数字を育てていくということができますが、ネットは1打席なんです。もちろんレギュラー番組もありますけど、終わろうと思ったらすぐ終わらせられる。だから、初回は確実に当てていかないといけないというのが、より強いですね。サムネイルのインパクトも考えますし、『亀田興毅に勝ったら1000万円』なんてネットならではだと思いますね。

――番組タイトルも、内容がすぐ理解できるところを意識されるのですか?

1打席もあり得るので、おのずと番組の持つストロングポイントを短文で伝えるタイトルワークになっていきますね。古くから地上波では、『笑っていいとも!』『アッコにおまかせ!』『題名のない音楽会』など、末永く番組の世界観を愛してもらえるタイトルが主流でしたが、ネットの普及とともに『ポツンと一軒家』『池の水ぜんぶ抜く』など、パッケージより内容物を伝えるものが増えました。ネット番組は『〇〇に勝ったら1000万円』をはじめ、特にその流れが強く出ていると感じますね。

――テレビとネットを股にかけてご活躍される中で、「オワコン」と言われることもあるテレビの役割は、どのように考えていますか?

テレビの前からあったエンタメはラジオですが、ラジオは「radiko」が生まれて、また新たな魅力あるエンタメになっていますよね。芸人学校にも「ラジオをやりたい」という芸人の卵がたくさんいます。テレビもそうなっていく移行期だと思っています。

ラジオ産業は映画産業が出てきて、言葉は違えど「オワコン」と言われ、映画はテレビ産業が出てきて「オワコン」と言われた。ですが、ラジオ界にも映画界にもテレビ界にも輝いている人たちがたくさんいます。消えたのは「銀幕スター」「TVスター」という呼称だけで、単純にユーザーが楽しむ選択肢が増えているんですよね。なので、テレビの役割はTVerなどの新たな試みをどんどんやりながら、変容し進化する。僕はその渦中の中で、好きなテレビをずっとやっていくと決めていますから。

――テレビに未来を感じてらっしゃるんですね。

僕は未来しか感じていないですね。ただ、土曜夜8時に家族がお茶の間にそろって、そこに鎮座するテレビをみんなで見るというスタイルは当然変わる。でも、テレビがやれることは、まだまだあるんじゃないかと。

例えばですが、テレビを視聴しながらスマホ画面をタップして解答するクイズ番組があれば、日本と韓国の視聴者が対決することもできる。ワールドカップであれだけ盛り上がるのであれば「テレビも国際マッチができないか?」って考えると、一気に可能性が広がりますよね。「みんな土曜の8時に集まれー! 今日はアルゼンチン戦だー」とか言って、自分のパーソナル情報を入れて、「まずは60代への問題です」ってなると、正解したおじいちゃんが家族のヒーローになる。「次は10代への問題です」ってなると「子どもたち頑張れ!」みたいなことになる。茶の間の団らんもよみがえる。

そういったことを想像できなくなった人が「テレビってオワコンじゃね?」って言い出すんだと思います。僕はまだそういう可能性を感じてるから、テレビ界で「もがく」とも思ってないです。まだまだ楽しく泳ごうと思ってます。

――流川Dをはじめ、若手制作者と100本企画を作ったというお話をされたじゃないですか。これは、全部テレビの企画ですか?

はい、全部テレビです。もちろん、その100本以外でテレビじゃない企画も考えてはいますが、人生が暗転したとき救ってくれたのは間違いなくテレビなので、そのテレビに恩返しするためにも、今年も最低100の番組企画を作って提案していきたいですね。

○■「とりあえず受けてみよう」を続けてきた結果の現在地

――放送作家から、小説家、コメンテーターと活動が広がっていますが、どのようなきっかけがあったのですか?

日頃からNSCの生徒に、仕事に対する姿勢として「二度目は断っていいけど、一度目は受け取った方がいいよ」と言っているんです。一見、自分には向いてない仕事だと思っても、受けてみると未来の自分を切り開く剣になることが大いにあるからです。僕自身、何か声がかかったときは「とりあえず受けてみよう」を続けてきた結果が現在地になっていると言えますね。

例えば、最初は自分には不向きだと思っていた池上彰さんの番組に10年以上携わってきましたが、小説を出版したとき『サンジャポ』のプロデューサーが読んでくださって「コメンテーターをお願いできないですか?」と電話がかかってきて、「受けてみよう」の精神で飛び込んでみたら、選挙や、貿易摩擦、TPPなどの話題を振られたときに、いつの間にか答えられる自分になっている。それは池上彰さんの番組をずっとやってきたおかげなんですよね。

――だから、担当番組の幅も広いんですね。

とりあえず絶対受けることにしてるんです。合わなかったら向こうがお断りしてくるでしょうし。そういったスタイルなので、動物番組、アイドル、スポーツ、音楽、コント、ドキュメント、クイズ番組もやらせていただきましたし、いつの間にかあらゆるオファーにも対応できるようになっていきました。

――出役を経験して演者さんの気持ちが分かるようになって、裏方の仕事に生きる部分もありますか?

それはあると思います。裏方をやっていると「なんでここでしゃべれないんだろう」とか「なんでここでこんなこと言っちゃうんだろう」とか思うこともあったんですよ。でも、いざ『サンデージャポン』の生放送で「30秒前です」って言われたら、「これはできないわ…」って思いました。だから、タレントさんに対するリスペクトがさらに深まったし、それを経験することによって生まれる企画もありますね。視野を手に入れるとそこから生まれる企画もあるので、すごくプラスになっています。

●一番敏感な人たちと向き合ってるのが、楽しくてたまらない



――長年NSCの講師をやられていますが、若い芸人さんの最近の傾向はどのように見ていますか?

講師になった14年前は『(爆笑)レッドカーペット』(フジテレビ)全盛期だったので、みんな短いネタを作るのは上手いけど、長尺ネタは下手で、ショートコントを合わせただけのネタが散見されました。ですが、霜降り明星が『M-1(グランプリ)』(ABCテレビ)でチャンピオンになって、“第7世代”が一気に出てきくると、みんなショートコントから漫才に移行し、長尺ネタも巧みになっていきました。

そして今は、TikTokや『有吉の壁』(日本テレビ)などの影響もあって、みんな“切り取られて面白くなるネタ”が巧みになってきましたね。若手芸人界は1年ごとに変容していくので見ていて面白いです。一番敏感な人たちと向き合ってるのが、楽しくてたまらないですね。

――そうしたネタの傾向は分析した結果ではなく、感覚で変化していくんですね。

そうですね。やっぱり敏感なんだと思います。

――やはりYouTubeの登場によって、ネタの性質も変化していますか?

変わってきていますね。僕らの世代って、他者に向けて真剣に文字を書くのはラブレターくらいしかなかったんですよ。でも彼らの世代は、フォロワーを獲得するために毎日SNSに真剣に向き合っているので語彙力も豊かですし、幼少期からカメラの前に立つことに慣れているので、カメラが回っても億劫(おっくう)にならない、文章と動画に対するリテラシーが高いと、おのずと新種が生まれてくるんです。

例えば、昭和時代から「カツアゲ」のコントはありましたが、今の生徒は、不良にカツアゲされながら「ちょっと待って」と言って、ポケットからスマホを出して、「今カツアゲされてます!」って世界配信を始めるんです。不良に対しては「すいません、お金出すんで」って言いながら、視聴者に対しては「ボコボコにしまーす!」って強がる。1人が2つのキャラクターを演じていて、昔は不良と弱者の直線だった会話が、不良・弱者・視聴者と三角になって奥行きを生んでいるんですよね。『キングオブコント』でも、そういった奥行きのあるネタをどんどん作る世代が出てきてるんいるんですよ。

――ネタの構造が重層化してるんですね。

そうですね。自分で音楽を編集して、それに合わせてリズムネタをやるコント師もいますし、漫才はストロングスタイルの本格派も増えていますが、コントに関しては音楽や動画などのツールを使い高品質になってきています。あと、トリオが増えていて、1人女の子が入るパターンが非常に多くなってきてますね。

――それはなぜでしょうか?

やっぱり“かぶり”を消去しているからでしょうね。東京03、ジャングルポケット、ジェラードンなど、上の世代に優秀な3人組がいると、おのずと変容したくなります。女性を一人入れたほうが目新しくなる。それができるのは、女性芸人の数が増えてきたからなんですよ。昔は圧倒的に男性社会でしたけど、芸人界でも女性進出が進んでいて、男女比は東京校で7:3、大阪校も8:2くらいになっていますね。

――今はネットの登場によってYouTubeからいきなり売れるなんてこともあるじゃないですか。そうすると、わざわざ授業料を払って入るNSCの存在意義というものが揺らぐことはないのでしょうか?

そういうのもあると思いますけど、NSCに入学する人たちが何に一番魅力に感じているかというと、吉本の劇場の多さなんですよ。みんながテレビを目指しているわけではなく、舞台で自分の作品を提示したい表現したいという欲求も実は高いんです。

今、社会がどんどんバーチャルになっているからこそ、リアルなものに価値がつくという側面もあります。ずっとリモート会議をやっていると、ちょっと対面するのが楽しみになるみたいに。みんながYouTubeを見ているからこそ劇場で生で見て笑いたいということに価値を見いだしている世代が、もう始まっているのかもしれないですね。

○■「俺、ヒーローになりたいです」と言ったEXIT兼近

――今後こういう番組を作っていきたいというものはありますか?

自分が育てたと言ったらおこがましいですが、見守ってきた教え子たちが、どんどんテレビ界に羽ばたいていくんです。EXIT兼近くん、ぼる塾、オズワルド、空気階段、コットン、レインボーと、すでに羽ばたいてる人もいますが、今後もめちゃめちゃ面白い逸材がテレビ界をにぎわしてくれるというのを、僕は分かってるし、たぶん誰よりも知っている人間なので、ワクワクしてますし、彼らと一緒に番組を作ってみたいですね。携わらなくてもいいから、何かしらでその枠を用意したり、できれば一緒にゴールデンへ上がるという経験をしてみたいです。

在学中、自分が彼らのために何かやってあげたなんて本当に思ってなくて、僕は彼らの横でゆっくり並走して、息を切らさないように何とかゴールしてもらった伴走者にすぎないんです。そうやって卒業してくれたので、今度はその才能がテレビという畑の中で育ったときに、僕も筆が衰えていないようにいい企画を考えようって思いますね。

――次のスターが必ず出てくるという自信があるんですね。

もう才能を見てしまってますから。まだ誰も世の中の人が知らないけど、(吉本興業の)大崎(洋)さんが、18歳のダウンタウンさんに会って「これは!」と思った感覚を、僕は実際に目の当たりにしているんです。今注目されているのは、4年目の令和ロマンより上の世代だと思うんですけど、その下の原石がすごいネタを見せてくださっているし、まだメディアに発見されていない中堅の教え子もたくさん知っているので、楽しみしかありません。

――その感覚は、どのような点で感じるのですか?

NSCは生徒が多いので、1人1人に語りかけることは難しいんですけど、生徒の前で講義していると、うなずくタイミングがあるんですよ。そのリズムで、「こいつ、会話できるな」って分かるんですね。ある年、僕がしゃべる句読点やブレスの中に、すごく相槌のリズムが上手い生徒がいたんですよ。それが兼近くんで、この子はすごくトークのセンスがあるんだろうなと思ってました。

そのときに、「君は将来何になりたいの?」って聞いたら、「俺、ヒーローになりたいです」って言ったんで、こいつ少年だなって(笑)。このピュアさがあれば芸能界で活躍するなと思ってたら、上下関係の厳しい吉本で、4年先輩のりんたろー。を捕まえて「一緒にM-1出てぶちかましましょうよ!」って言うんですから。ぼる塾の田辺(智加)さんにしても、在学中から「まあね」って言ってて、当時から女性心をくすぐる多才な趣味と才能があった。そういうところを見てますね。

EXIT・兼近大樹

――元日テレの土屋敏男さんが、お住まいの鎌倉の若い人と交流があって、刺激を受けるのが楽しいという話をされていました。

おっしゃる通りだと思います。いつの間にか僕も上の世代の方のカテゴリーに来ちゃいましたけど、逆に僕らがマイノリティーだなと思いますね。日本は少子高齢化ですが、地球上の3分の1が「Z世代」と言われる人たちなんですよ。だから、日本にいたら上から押さえつけられるシステムで肩身が狭いと思うかもしれないけど、彼らがその目を一気に世界に転化したときに、自分たちがマジョリティーだということに気づく。そのために、僕らは何をすればいいのか? その視座が僕の中にあります。

――ご自身が影響を受けた番組を1本挙げるとすると、何でしょうか?

企画という点では、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)ですね。総合演出をされていたテリー伊藤さんと『サンデージャポン』で何度か共演させていただいているのですが、70歳を超えて「さすがにテレビ離れされているのかな?」と思っていたのに、CM中にテレビ談義を振ってきますし、「電話ボックス型のホストクラブをやったら面白くない?」など、企画もバンバン出してくる。レジェンドだなぁと感銘を受けました。

――いろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、気になっている“テレビ屋”を伺いたいのですが…

先ほどもお名前を出させていただいた、堀江利幸さんです。『ぐるナイ』で堀江さんが「ゴチ」のスタッフに指名してくださらなかったら、僕の放送作家として今はないです。企画の着想も発想法も、あの頃からずっと堀江さんに影響されています。当時から毎週ご飯を一緒にしてくれて、今も誘ってくれる堀江さんをお慕いしています。

次回の“テレビ屋”は…



放送作家・堀江利幸氏