2年間支えてくれた彼女に、別れを告げた男。破局の決定打となった、彼女のある一言とは
空港は、“出発”と“帰着”の場。
いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。
それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。
成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。
▶前回:同棲2年。彼女との関係が冷えきった中、久々の海外出張が決定。男はつい浮かれてしまい…
Vol.4 香奈美の物語
お客様が、保安検査場を通過できなかったワケ
― えっと、さっきのお客様で最後ってこと…よね。よし!
「カウンタークローズの看板、出してきます」
新人の香奈美は、ミスなく仕事を終えられたことにホッとしながら、チェックインカウンターを離れる。
航空会社に就職して、もうすぐ4ヶ月。
3ヶ月のOJT期間を終え、香奈美はついこのあいだグランドスタッフとして独り立ちした。
まだ少し時間はかかるものの、複雑なチェックインもできるようになった。
とはいえ、航空業界の仕事はかなり特殊だ。未だに、わからないことのほうが圧倒的に多い。
先輩に「何がわからないの?」と聞かれたとき、そもそもそれがわからない…と思うこともしょっちゅうだ。
新しい業務を任される日は、緊張してお腹が痛くなることもある。
それでも香奈美は、この仕事が好きだと思う。
― とにかくお客様にも、先輩たちにも迷惑をかけないようにしなくちゃ。
その一心で制服のポケットからアサイン表を取り出す。次にやるべき仕事は何だっただろうか、と確認しようとしたときだった―。
「長尾さん、ちょっと保安検査場に行ってもらえる?」
同じ班で働く羽根田先輩に、声をかけられた。
「お客様が1人、保安検査で引っかかっちゃってるの」
羽根田先輩は、顔の前で手を合わせ、対応してくれないか頼んできた。まばたきに合わせて、長いまつ毛がファサッと揺れる。
― 保安検査場…か。
保安検査場で引っかかるといったら、手荷物の中に機内に“持ち込み不可”の何かが含まれているケースがほとんどだ。
― それなら、私1人でも対応できるよね。
「羽根田先輩、わかりました。私、行ってきます」
「ありがとう!これ、モトローラ持って行って。状況がわかったら教えてね」
香奈美は、制服の腰のベルトにモトローラを引っかけると、保安検査場に走った。
視線の先に、背の高い男性と検査場の職員の姿をとらえる。
― あ、あの人かな?
「お客様、どうなさいましたか?」
なにやら話し合っている2人に駆け寄って、香奈美は声をかける。
すると、職員の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「こちらの方の手荷物から、魚が出てきました」
― …さ、“魚”っ!?魚って、ダメなんだっけ?
機内に持ち込める荷物やそうでない荷物に関しては、OJTでしっかり教わっていた。だから、ひと通り頭に入っている。
だが、魚については聞いたことがない。とにかく状況を把握しなくては…と思った香奈美は、冷静を装いながら切り返す。
「それは、どういった魚なんでしょう?なにかの料理ですか?」
「いえ、生きた魚です」
聞いてみたものの、ますます状況が飲みこめなくなった。
― 確か、機内に同伴できるペットは、犬と猫、鳥だよね。しかも、事前に動物検疫を受けていないといけないから…。
香奈美は、困惑しながら男性客に目を向ける。
しかし、彼が持っているFENDIの「ピーカブー エックスライト フィット」には、生きた魚が入っているように見えない。
その代わりに、彼は小さなカメラのフィルムケースを大事そうに持っている。
「プリステラです」
「プリ…?」
「熱帯魚なんですけど…」
男性客がフィルムケースのフタを開けると、中でキラキラ光る小指の先ほどの魚が泳いでいた。
「熱帯魚…ですか」
― どうして、熱帯魚なんて。
口から出そうになった言葉を飲みこみ、香奈美はチラリと腕時計に目をやった。
17時―。
搭乗開始時刻までは、あと15分しかない。
これから出国審査を受け、ゲートに向かう必要がある。少しでも早く保安検査場を通過してもらいたい。
香奈美は、端的に伝えた。
「恐れ入りますが、お客様。航空機内への熱帯魚の持ち込みは、禁止されております」
「でも、水の量は100ml以下ですよね?…もしダメなら、この子は航空会社で預かってもらえたりするんですか?」
「いえ、私どもでは、預かることはできかねます。申し訳ございません」
「じゃあ、どうしたら…。まさか、捨てていけって言うんですか。そんなの無理です…」
小柄な香奈美は、身長180cm後半はありそうな男性客の顔を下から覗き見る。
次の瞬間、その目もとが突然潤み始めた。
― うそ…!泣きそう…?ど、どうしよう。
ちょうど、そのとき。
“ザザッ…長尾さん、状況を教えてください”
モトローラから、羽根田先輩の声が聞こえてきた。
“長尾です。お客様ですが、手荷物に熱帯魚が入っていました。どうしたらいいでしょうか?”
自分では判断できない―。そう思った香奈美は、羽根田先輩に助けを求めた。
“まず、お客様の座席番号を確認して”
“はい。3B(さんベーカー)のKIMURA LEON…様です”
航空業界では、聞き違いをなくすため、独特なアルファベットの読み方をする。
“3Bね、わかった。今から向かいます”
― あぁ、よかった。羽根田先輩が来てくれれば、もう安心ね。
羽根田先輩は、入社5年目にして、チェックインカウンターやゲートでの責任者も務める頼りになる存在だ。
語学も堪能で、英語や韓国語、簡単な中国語も話せる。
香奈美は、彼女と同じ班に所属することになり、OJT期間中からずいぶん助けられてきた。
ホッと安堵のため息を漏らし、保安検査場の入り口を出たところで彼女の到着を待つ。
そのすぐ後。
「木村レオン様。お待たせしてしまい、申し訳ございません。羽根田と申します」
「HANEDA…さん?」
凛とした佇まいの羽根田先輩の登場に、その場の空気が引き締まる。
「木村様。そちらの熱帯魚は、機内への持ち込みも貨物室への搭載も承りかねます。また、我々どもで、お預かりすることもできかねます。大変申し訳ございません」
深々と頭を下げる彼女の横で、香奈美も慌てて同じ体勢を取る。
「…でも、これだけは…。どうしても手放せないんです」
木村さんは、言葉を続けた―。
「この熱帯魚は、ある人からもらった大事なものなんです」
木村さんは、香奈美たちを前に、熱帯魚にまつわる話を始めた。
◆
ドイツ人の父親と、日本人の母親を持つ木村さんは、学生時代にドイツでスカウトされ、モデルの仕事を始めた。
運よく、有名なファッションブランドのモデルを務めた後、日本の大手芸能プロダクションから声がかかり、4年前に来日。
コロナ禍ではあったけれど、日本でのモデル活動は充実していたし、恋人もできた。
だが、いい時期はそう長くは続かなかった。
3年契約で所属していたプロダクションを離れ、フリーのモデルになった途端、仕事が激減。それでも、交際2年になる恋人は変わらずに側にいてくれた。
それなのに、落ち込む姿を見せ続けるのが情けなくて、木村さんは自分から距離を置くようになっていったのだ。
そして、1ヶ月前。
「ねぇ、私の家に引っ越してこない?なにかできることがあったら、力になりたいの」
自分よりも社会的地位が高く、収入もある2つ年上の彼女からの好意。木村さんは、ついむきになってしまった。
「ごめん、ドイツに帰ろうと思う」
荷造りは、すぐに済んだ。
彼女が「見ていると癒される」と言って僕の家に連れてきた、1匹のプリステラが泳ぐ、小さな水槽だけを残して―。
元いた場所に返してあげたほうがいいと思ったのだけれど、彼女に連絡をする勇気がなかった。
◆
「だからといって、このプリステラを置いていくわけにもいかなくて」
そう言い終えた木村さんは、スマホをしきりに気にしている。
元恋人に連絡をするかどうか、まだ迷っているのが丸わかりだ。
― こんなことって、あるんだ。
香奈美は、ただ茫然とするだけだった。
羽根田先輩のほうに顔を向けて、出方を待つ。
その途端、2人のモトローラからは“搭乗開始”の声が流れる。
― もう、時間がない…。
少しの沈黙の後、羽根田先輩が口を開いた。
「木村様、ご事情は理解いたしました。ですが今は、プリステラを手放して搭乗するか、このまま出発を取りやめるかのどちらかに決めていただかなくてはなりません」
彼女の言葉は業務的だったが、マスク越しにもわかる柔らかな口調や表情からは、どこか温かみさえ感じられた。
答えを決めかねている木村さんに、羽根田先輩はこうも言う。
「もしくは、“どなたか”にプリステラを引き取りにきてもらえないか、連絡をしてみてはいかがでしょうか。それまでのあいだでしたら、チェックインカウンターでお預かりします」
「うーん…。それはどうだろう」
木村さんは、こめかみのあたりを指でかきながら、スマホの画面をジッと見つめる。
その様子を見て、羽根田先輩はポツリとつぶやいた。
「もしかしたら…今はまだ、そのときではないのかもしれませんね」
「え、そのときって?」
「悩んでいるのに、勢いで決めてしまうときではないのかと。私は、それで大きな後悔をしたことがあります」
「そうですか。…あの、HANEDAさん。今から出発を取りやめることって、できるんですか?」
突如、木村さんは、吹っ切れたような表情に変わった。
羽根田先輩は、諸々の手続きを済ませると、機内に搭載されたスーツケースを彼に引き渡した。
「ご迷惑をおかけしました。でも、ありがとう。もう一度、彼女に連絡をしてみようと思います」
「いえ、またのご利用をお待ちしております。プリステラ、仲間のもとに戻れるといいですね。群泳するのが好きな魚ですから」
こうして、香奈美は“出発取り消し”のシーンと、人の人生が変わる一幕に立ち会ったのだった。
◆
1ヶ月後―。
「羽根田先輩っ!このネットニュース、見ましたか?」
興奮した香奈美は、スマホの画面を羽根田先輩の前に突きつける。
そこには、ドラマや映画に引っ張りだこの人気女優と、“木村レオン”の交際について書かれていた。
2人の関係が知られるようになったきっかけは、双方がInstagramに投稿したある写真だ。
それは、大きな水槽で泳ぐプリステラの群れ。
背景の家具が同一であることから、記事には「同棲しているのでは」と書かれている。
彼女の事務所は恋愛関係に厳しいと、香奈美はなにかのゴシップサイトで読んだことがある。
そのルールを強行突破して、ここまでわかりやすい写真を投稿したのだ。互いの将来に覚悟があってのことなのだろうと香奈美は感じた。
「こんなことって、あるんですね」
― 空港って、本当にドラマみたいなことが起こる場所なんだ。
香奈美は、1ヶ月前と同じ言葉を、今度は口に出してつぶやいたのだった。
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