結婚して20年経ち、妻とはいまや挨拶程度という夫の苦悩とはーー?(写真:Fast&Slow / PIXTA)

「誰かのお悩みの中には、普段は律儀にみんなと同じ、大人らしい大人に擬態して生きている私たちが、最後の最後に、どうしても諦めることのできないその人そのものの形が隠れています。あなたの戦いはあなただけのものでも、あなたのように孤独に戦う同志はこの世界のどこかにたしかにいます」

そう語るのは新刊『大人だって、泣いたらいいよ 〜紫原さんのお悩み相談室〜』を刊行したエッセイストの紫原明子さん。

今回は43歳の男性から寄せられたお悩みと、それへの紫原さんの回答をご紹介します。

休日のファミレスに近寄れない

【ご相談】
平日は仕事で慌ただしくしているので特に感じないのですが、休みの日に散歩などしている際、見かける家族連れ、夫婦と思しき人、ママ友や趣味仲間らしき人たちが眩しくて胸の奥がずきんとします。

ファミレスやフードコートなどは最たるもので、なるべく近寄らないようにしています。(ファミレスにはよく行くのですが、土日の昼時はだいたい幸せオーラが放たれているので入ってすぐ出ることもときに)

結婚して20年経ち、高校2年生の娘と中学2年生の息子もいるのですが、妻とは挨拶程度で、家族4人で食事をすることもほぼありません。

息子だけは一緒に過ごしてくれるのですが、もうだいぶ大きくなって、この時間も残りわずかなのだろうなと思うと、何を支えにして生きていけばいいか、わからなくなります。

親として、子どもに甘えるのではなく、支えにならなければいけないと思っているのですが、逆になってしまっています。仕事面でたくさんのつながりに恵まれ、周りからは慕われている、人望があると言われることが多いのですが、どうしてもホームが無い、一人であると感じてしまいます。

43歳になり、仕事面ではこれまで培ってきた実績と人脈を惰性で食い潰してしまうのではと思うことも多々あります。子どもたちが巣立った後、妻とふたりでの生活は具体像が見えず、考えるたびに熟年離婚というワードが浮かびます。

一方で、一人で生きている(と見える)人に対しては心の強さ、芯の太さがすごいなと思い、自分はなんでこんなに弱いのだと思ってしまいます。幼い頃から愛情をたくさん受けて育ったと思っていて、それが大人になるにつれて甘えに変わってしまったのかもしれません。能動的に助けを求めることが苦手で、人から手を差し伸べてもらえるのを待っているだけなのかもしれないと思います。

ちゃんと自立した大人になる道筋があれば、教えていただきたいです。

(ペンネーム/いちょう並木、43歳会社員、男性)

【紫原さんの回答】

いちょう並木さんこんにちは。

いただいたお手紙を拝見して、思い出しました。私もかつての夫と離婚したての頃、まだ幼かった子どもたちを連れてショッピングモールに行くと、決まって泣きたくなりました。

これだけ多くの人たちが幸せそうにしている。結婚を続ける、家族であり続けるというただそれだけのことが、私にはどうしてできなかったんだろうと落ち込みました。

今となっては笑い話ですが、同じ頃、離婚した元夫のほうも、友人と行ったショッピングモールで、人知れず涙を流したことがあったのだそうです。そこでお前が泣くんかい!と当時は思ったものですが、今なら多少はその気持ち、分からなくもないです。

楽しそうな人、幸せそうな人ばかりに思えるけれど

街には楽しそうな人、幸せそうな人ばかりいるように思えるけれど、一体そのうちどれだけの人が心から笑っているのでしょうね。大人である私たちは毎日大なり小なりさまざまな責任を負って、誰かのために生きていかなくてはなりません。もうやめた、と投げ出したくなることのないように、自分を守れる最低限の安全地帯を確保していなければ、そんな毎日は続けていけません。

きっといちょう並木さんも、そして恐らく奥さんも、これまで家庭という安全地帯を守るために、たくさんの思いを飲み込みながらやってこられたのだと思います。ちょっとの違和感や不満が安全を大きく脅かす火種とならないように、決定的な不和を生まないように、言いたいことを飲み込んで、最低限の安全を守ってこられたのだと思います。

別々の人間同士が共に暮らしていく中でそれは、ある程度やむをえないことだったのだろうと思います。けれどももしかするとそんな日々の中で、いつの間にか、本当に必要な言葉まで失われてしまったのではないでしょうか。

相手の心に触れて、自分の心に触れられる。相手をかけがえのない存在だと実感する会話の機会まで、失われてしまったのではないでしょうか。もしそうであれば、家庭は安全でありながら安心のない、ホームとは呼べない場所になってしまうでしょう。

能動的に助けを求めることが苦手だと書いていらっしゃいますが、いちょう並木さんが今欲していらっしゃる助けというのは、「最近どう?」「どんな毎日を過ごしてる?」「どんなことを考えてる?」と、誰かに耳を傾けてもらうことではないかと思います。そして、もしそうであれば、まずはいちょう並木さんから奥さんに、これと同じことを問いかけてみてはいかがでしょうか。

恐らく最初はとても勇気のいる、居心地の悪い時間になるかもしれません。真面目に取り合ってもらえないかもしれません。警戒されるかもしれません。それでも諦めずに、ぜひ繰り返し続けてみてください。毎日同じテーブルに向かい合わせに座って、「調子はどう?」「今日は何する予定?」と尋ね続けてみてください。

長年放置していたコリをほぐすには長い時間がかかるように、一度膠着してしまった関係を再び柔らかい状態に戻すにも、やっぱり時間がかかります。あなたともう一度ちゃんと話がしたいといういちょう並木さんの意志を、根気強く示し続けてください。そしてもし奥さんが自分の話を始めたら、最後までじっくり耳を傾けてください。

それから、今ならできそうだと思ったら、いちょう並木さんも自分のことを話してください。そうやってこれからまた二人でたくさん話をして、父と母でなく、夫と妻としての時間を、改めて積み重ねていかれると良いと思うんです。

どんな大人も、みんな子どもっぽいことで悩んでいる

いちょう並木さんは自立した大人になれないのが自分だけかのように思っていらっしゃるかもしれませんが、どんな大人もたいていみんな子どもっぽいことで悩んでいます。こと夫婦関係のいざこざだってそうです。

「もうこの人は自分に関心がないのかな」

「自分より子どもが大事なのかな」

「自分より仕事が大事なのかな」

夫も妻も、大体が同時にこう思っていて、けれどもそれを口に出すのはあまりにも子ども染みていると思うから言葉にしないまま飲み込んで、寂しくないふりをする。するとそんな態度が相手にはさらに「あなたがいなくても平気」というメッセージに映るので、自分の寂しさを余計に打ち明けられず、こうしてお互いが誤解を抱え込んだまま悪循環を生みます。

むしろ子どもだったらそんな生煮えの時間には早々に耐えきれなくなって、派手に喧嘩した後で「ごめん」と謝って仕切り直しできたりする。この点、大人のほうが意地っ張りなので余計に厄介です。

けれどもいちょう並木さんのお手紙を拝見して、こんなふうに自分の寂しさを言葉にできる方ならば、ご自分から働きかけることもきっとできるはずだと思いました。

年齢を重ねたからこそ「出会い直す」ことができる

周りの人がみんな幸せそうに見えている中で、意地や虚勢を脱いで正直な思いを吐露するというのは、誰にとっても決して簡単なことではないのです。勇敢さが必要なのです。

この点、いちょう並木さんは十分にそれをお持ちなのだから、家族の再構築という大変な作業に取り組む一歩も、きっと踏み出せるはずです。


年を重ねる中で、周囲で起きることが次第に既視感のあることばかりになって、もうこれ以上自分の物語に、新しく刺激的な出来事は何も起こらないんじゃないか。そんなふうに感じるときが、私にもあります。

けれども私たちは年齢を重ねたからこそ「出会い直す」ことができるのだと、最近よく思うんです。かつて一度出会って、すっかり知った気になったものと、時間を経て再び出会い直す。本でも、映画でも、久々に見直してみると、かつてとはまったく違う、新しい感動を与えてくれるものって少なくないですよね。

夫婦関係にも同じことが言えると思うんです。いつも誰よりも近くにいて、だからこそいつしか最も遠い人になっていた妻が、あるいは夫が、一体どんなことを考えながら、どんな日常を過ごしているのか。夫婦の間にもう一度橋を架けて、言葉を交わして、それまでの空白期間を埋めていく。

「出会い直し」は年を重ねた大人だけに許された、人生後半からのご褒美です。いちょう並木さんのこれからの人生には、きっとたくさんのご褒美が待ち受けているはずですよ。

(紫原 明子 : エッセイスト)