育児疲れと夫婦のすれ違いに限界を感じた女は、夫に黙って…
結婚3年目の夫婦に、待望の第一子が誕生。
これから始まる幸せな生活に心を躍らせたのも束の間―。
ささいなことから2人の愛情にひびが入り始める。
すれ違いが続き、急速に冷え込んでいく夫婦仲。
結婚生活最大の危機を、2人は乗り越えられるのか?
◆これまでのあらすじ
娘の出産後、彩佳と昌也はすれ違いが続いている。常に体調不良の彩佳を心配した昌也は、あることを提案するが…?
▶前回:夫との不仲に悩む女のもとに、結婚したはずの元彼から連絡が。奥さんと順調なのか探りを入れると…
「さすがねぇ」
ある休日。
友人・玲子は、ソファに座るなり感嘆の声をもらした。
彼女の視線の先にあるのは、結衣の産着、散らばったオレンジボックスやブルーの袋だ。
さっきから、「すごい」や「さすがねぇ」を繰り返している。
「彩佳は、大丈夫なの?」
リビングを一周ぐるりと観察し終えると、玲子はキッチンに立つ彩佳に向かって、不意に尋ねた。
「な、なにが…?」
“大丈夫?”とは、何を指しているのだろうか。夫婦関係や育児、産後の体調など、トラブルまみれの彩佳は、思い当たる節が多すぎるのだ。
だが、玲子の質問は予想外の方に向けられたものだった。
「昌也さんのご両親よ。お宮参りにプレゼント、何から何まで、すごいじゃない。羨ましい面もあるけど、私ならしんどいかなあって。
まあ私は、自己主張しちゃうタイプだから、そもそも昌也さんのご両親に気に入られないわね」
コーヒー片手に、玲子はケタケタと笑った。
― なんでこんなに楽しそうなんだろう。
陽気に笑う彼女の隣で、彩佳は惨めな気分になった。玲子も、同じく子どもを育てている。さらに仕事にも復帰していて、なんだかエネルギーに満ち溢れているのだ。
一方彩佳は、結衣の世話で疲れ果てているし、家庭もうまくいっていない。
― 私、全部ダメダメだ…。
昨晩の昌也の言葉も重なって、彩佳はひどく落ち込んだ。
昨晩の出来事。「病院に行こう」という昌也に、彩佳は…?
夫婦の修羅場
「病院に行こう」
昌也の言葉を、彩佳はすぐに理解することができなかった。
まだ仲直りもしていないのに、急に何を言い出したのだろう。
「どういうこと?」
怪訝な顔を向けるが、昌也はいたって真面目な表情だ。なぜか、焦りすら見え隠れしている。
「どこの病院が良いんだろう。とりあえず早めに受診できるところ…。いや、彩佳のかかりつけ…」
あたふたする昌也に、彩佳は何が何だかわからない。
「ちょっと待ってよ。急にどうしたの?」
「彩佳、本当にごめんな。俺、全然気づいてなかった。産後うつだなんて…」
― さ、産後うつ!?
聞き捨てならない言葉に、彩佳は思わず目を見開く。
たしかに育児で疲れ切ってはいるけれど、まさか自分がそんなはずはない。
相変わらずズレている上に、大げさな昌也に呆れてものも言えない。それに、産後うつだと決めつけ、しきりに「ごめんな」を繰り返されるのも、なんだか不愉快だ。
「ちょっと」
この意味不明な空気を断ち切るため、彩佳は語気を強めた。
「確かに育児で疲れてるけど、病院だ、うつだって、騒ぎすぎなのよ」
すると昌也は、首をブルブルと横に振った。
「大げさでもなんでもない。彩佳、我慢しなくていいんだよ」
― だから、何なの…!?
ひとり騒ぎ立てる昌也に、無性に腹が立った。そしてこれまで我慢していたものが、プツンと切れた。
「昌也は、何もわかってない!勝手に産後うつなんて決めつけないでよ!
それと、この際だから言わせてもらうけど、大声出して結衣を起こしたり、結衣が寝てる時間帯に宅配便を頼んだり、はっきり言って迷惑。
それからね、銀座に寄ってプレゼントを買う暇があったら、1秒でも早く帰ってきて結衣の面倒をみてほしいの。
もう私、昌也と…」
彩佳の目から、涙がとめどなく溢れ出す。自分でも、もう訳が分からなかった。
そんな時。寝室から結衣の泣き声が聞こえてきた。
彩佳は、「俺が行く」という昌也を振り切って、寝室へと向かう。
「私、どうしたら良いんだろう…」
寝室に入った彩佳は、うなだれた。その間も、結衣の泣き声が、耳をつんざくように響く。
我が子は本当にかわいいし、宝物だ。結衣と一緒にいる時間は幸せそのもの。
だが、幸福な気持ちと同じくらい、しんどさも感じていた。
寝不足で身体はフラフラするし、意識も朦朧としている。
いつの間にか腱鞘炎になってしまい、結衣を抱っこする度に、手首や腕がピキッと痛む。
加えて、最近は膝が痛い。立ったり座ったりするのが、とにかく苦痛なのだ。
出産前にはなかった症状が出てきて、悪化している。
心身ともにボロボロの状態で、昌也とスキンシップなんて、とても無理なのだ。
「もう疲れた…」
泣き叫ぶ結衣を抱きながら、彩佳もさめざめと泣き続けた。
◆
「まだ起きてたの…」
結衣を寝かしつけた彩佳は、疲れ果てて寝てしまっていた。
ハッと目を覚まし、ヨロヨロリビングに戻ると、昌也が神妙な面持ちで待っていた。
「さっきはごめん。でも、俺、やっぱり心配だよ。まずはご実家に帰ったらどうだろう?」
昌也に今までの不満をぶつけて少し気持ちが落ち着いた今、話を蒸し返さなくても良いのに。しかも、実家に帰れだなんて。
彩佳は聞こえないフリをして、お風呂に直行した。
幸せそうな玲子の隣で惨めさだけが募っていく彩佳はついに…
ついに爆発
「半年のブランクがあったから、仕事の感覚を取り戻すのも一苦労だよ。
あ、そうそう。ようやく直樹が育児をマスターしてきたの。色々頼めるようになって、かなりラクになったわ〜。
って、このバウムクーヘン美味しい!」
ソファに腰掛けて一方的に話していた玲子は、『ホレンディッシェ・カカオシェトゥーべ』のバウムクーヘンを一口食べるなり、歓喜の声を上げた。
シュガーコーティングされたカリッとした表面に、しっとりとしたなめらかな生地。
バターの風味がよく、苦めのコーヒーによく合う。コーヒーラバーの玲子が嫌いなわけがないと、彩佳が三越で買っておいたものだ。
美味しそうに頬張る玲子を、彩佳はまじまじと眺める。
肌艶もよく、メイクが馴染んでいる。高めの位置で結われた髪は、無造作風だが、しっかりセットされているではないか。
手元に目をやれば、コーラルピンクのネイルが美しい。
玲子は、同じ産後とは思えない美しさを放っていた。
今の彩佳には、そんな余裕などひとつもない。つい、ポロリと本音が漏れてしまう。
「玲子はすごいね。メイクもネイルも完璧で」
すると玲子は、「だって、仕事に行くのに、すっぴんってわけにはいかないでしょう?」と笑って、こう続けた。
「仕事は大変だけど、やっぱり張り合いもあるわね。妻やママとしての自分ではなくて、私、玲子に戻れるって感じ」
― 私には、自分に戻れる場所がない…。
彩佳の目に、どんどん涙が溜まり始める。
家庭以外に居場所があり、そして文句を言いながらも、夫と良好な関係を築いている彼女が羨ましかった。
彩佳が鼻をすすった音で、玲子は異変に気づいたようだ。
「どうしたの、彩佳」
「私、もうどうしたらいいかわからない。結衣はかわいい。でも毎日つらくて…。昌也とももう無理かも。なんでこんなことになっちゃったのかな」
涙がポロポロとこぼれ落ちる。
差し出されたハンカチで涙を拭うが、涙はなかなか止まってくれない。泣きすぎて、過呼吸のようになってしまった。
「落ち着こう。深呼吸して」と、玲子が背中をさすってくれる。
手の温もりがじんわりと伝わり、彩佳の呼吸も少しずつ落ち着いていく。
玲子は、温かい飲み物をと、とりあえず紅茶をいれてくれた。
「色々疲れちゃったのかな。産後って、本当に大変だもんね」
優しい言葉に、「…うん」と、彩佳は頷く。
「彩佳、よく頑張ってるよ。彩佳が頑張ってるから、結衣ちゃんだってここまで元気に育ってきたんだから」
再び、彩佳の涙腺が決壊する。何もかもうまくいかないと感じていたが、自分の頑張りを認めてもらえたことで、心が少し落ち着いた。
本当はこの役割を、昌也に担ってほしかったけれど。
そして玲子が言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。
「彩佳、少し休んだ方がいいよ。今、昌也さんといるのが辛いなら、距離を置くのもアリだと思う」
◆
「ただいま…?」
帰宅した昌也は、すぐに違和感を抱いた。
急いでリビングに向かうと、部屋はガランと静か。寝室にも、彩佳と結衣の姿はない。
全身から、サッと血の気が引く。
「彩佳、どこに行ったんだ?」
昌也は、大声で叫びながら家を飛び出した。
▶前回:夫との不仲に悩む女のもとに、結婚したはずの元彼から連絡が。奥さんと順調なのか探りを入れると…
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結衣を連れて家を出て行った彩佳。パニックに陥った昌也は…?