1月21日から公開中の映画『コーダ あいのうた』。耳の聞こえない家族を持つ少女が歌手の夢に向かって進む姿を描いた作品だ © 2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS

耳の聞こえない家族を持つ少女が歌手の夢に向かって進む姿を描いた映画『コーダ あいのうた』が1月21日から公開中だ。コーダ(CODA)とは、Children of Deaf Adults=「耳の聴こえない両親に育てられた子ども」の意。音楽用語としては、楽曲や楽章の締めや、新たな章の始まりを意味する。

作品では、実際に耳の聞こえない俳優が耳の聞こえない家族役を演じており、その心情がリアルに表現されていることで話題になっている。そして、新人映画監督の登竜門的な映画祭であるサンダンス映画祭にて監督賞他史上最多の4冠に輝き、配給権は最高評価の約26億円で落札された。

両親(父=トロイ・コッツァー/母=マーリー・マトソン)と兄(ダニエル・デュラント)の4人家族の中で一人だけ耳が聞こえるルビー(エミリア・ジョーンズ)は幼い頃から“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。

新学期となり、ルビーは秘かに憧れるクラスメイトのマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)と同じ合唱部に入部する。そして歌の才能に気づいた顧問の教師は都会の名門音楽大学の受験を強く勧めるようになるが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず、家業のほうが大事だと大反対。家業におけるルビーの役割はそれほどまでに大きなものだった。悩んだルビーは夢よりも家族の助けを続けることを選ぶと決めるが、父親が彼女の才能に気づく――。

今回、この作品の監督、シアン・ヘダー監督に同作の制作経緯や実際に耳の聞こえない俳優を起用した理由などについて聞いた。

デフカルチャーを掘り下げたいと思った

――この映画の制作経緯についてお聞かせください。

2014年にフランスで公開された『エール!』(エリック・ラルティゴ監督)が元になっています。デビュー作『タルーラ 〜彼女の事情〜』(2016年)を撮り終え、次の作品を考えていた時にこの作品と出会いました。特に主役の「聴こえる人」と「聴こえない人」の2つの世界をつなぐルビーのキャラクターに惹きつけられました。

実際に耳の聴こえない俳優たちにASL(アメリカン・サイン・ランゲージ=アメリカ手話)を使って演じてもらい、よりデフカルチャー(聴覚障害者の生活文化)を掘り下げたいと思っていました。

――聴覚に障害があり、俳優でダンサー、監督でもあるアレクサンドリア・ウェイルズ氏をASLの監督として迎え入れ、台本の監修の他、撮影現場での手話通訳は全て彼が担当したとのことですが、そこまでこだわった理由はどのようなものだったのでしょうか。


聴覚障害者の家族を支えるルビー(エミリア・ジョーンズ)は優れた歌唱力があることから、都会の名門音楽大学の受験を強く勧められるが…… © 2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS

自分はデフカルチャーのアウトサイダーの人間ですが、自分が経験したことのない世界を描き出す時には、その経験のある方とコラボレーションすることが大切なことだと感じています。世界中に手話は200以上存在しますが、ASLは、アメリカ英語の単なる置き換えではなく、生き生きとして創造的で流麗に体現された言語です。

自分もこの映画を作るためにASLを学んでいましたが、そこまで流暢ではなかった。そこで、今回はアレクサンドリア氏にASLの監督となってもらい、制作に加わってもらいました。

例えば、最初に耳の聴こえるスタッフが配置した家具についても「聴覚障害者のいる家庭ではこういうふうに家具は置きません」と指摘がありました。部屋のどこにいても、人が入って来たかがわかるように必ずドアが見えるように置き、視覚で物事を捉えやすいように、円を描くように物を配置するそうです。

そうした聴こえない人でしかわからないディテールの指導を受けたことにより、より映画にリアリティーを与えることができました。

障害者の描き方に違和感を抱いていた

――日本には「障害者はかわいそう。だから彼らの奮闘を描いた感動ものにしよう」という‶感動ポルノ″と呼ばれる作品も数多くあります。しかし、この作品はそうした「かわいそう」という目線を排し、彼ら彼女らの人間としてのリアルな心情が描かれていると感じました。

最初からいわゆる「感動ポルノ」にしたくないという気持ちはありました。聴覚障害者が題材となっている作品はたくさんあるのですが、しっかりと描き切れておらず、やはり「憐れむべき対象」という型にはめた感じのものもあります。それから主人公の障害者が、ノーブル(高潔)で勇気がありすぎて、普通の人では辿り着けないような描写をしているものもありました。

そのどちらも障害者を肯定的に描いたものではないと感じていました。確かに、彼らは耳が聞こえないわけですが、それが彼らのすべてではありません。「障害者」という枠組みではなく、リアルな人間としてのキャラクターを描き出したかったという思いがあったんです。

映画に出てくる父親は漁師でもあるし、小さな町の住人でもある。そして、彼らの周りの人たちとのやり取りを通して、彼らがどんな人間であるのか浮かび上がるような描き方をしたいと思いました。

――聴覚障害者をキャスティングしたのは、よりリアルさを追求したということなのでしょうか。

はい。自分にとっては聴覚障害者の人以外がこの役を演じると言うことは想像もできませんでした。確かに、耳の聴こえる俳優に手話を学んでもらうという方法もあります。しかし、手話をネイティブでやっている人とその後に学んだ人ではやはり差があります。ネイティブで手話を学んだ人は、即興もしやすいし、遊び心のある演技もしやすい。よりリアルな感情が描けるのではないかと思って、ネイティブの話者を起用しました。また聴覚障害者であれば「どのように演じたら良いか」ということについて葛藤をしなくて済みますよね。

母親であれば娘とスムーズにコミュニケーションが取れない、父親であれば生計を失うようなことがあれば、どうやって家族を養っていくかを悩み、自分の人生を振り返って悩みます。そうしたことは障害の有無とは関係がありません。そして、俳優自身が聴覚障害者であればその部分にのみフォーカスして演技ができます。

本当に聴こえない人に演じてもらうことによって、監督としてより自由に演出することができたと思っています。

映画の世界では障害者の登場が少ない

――アメリカは多民族国家であり元来さまざまな多様な文化が根付いている印象がありますが、障害者も含めたダイバーシティー&インクルージョンは進んでいると思いますか。


ASL(アメリカ手話)も見所のひとつ © 2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS

多様性という観点からすると良くなってきているのかなという気はします。例えば、LGBTQの人たちの生き方など、今まではあまり映像表現として取り上げられなかった、多様な生き方をする人たちが映像でつづられるようになりました。

しかし、障害がダイバーシティーの文脈ではあまり語られないのが残念です。もっと取り上げられていいのではないでしょうか。彼らの人生や物語というのはきちんと表現されていない。その点はこれから変わってくれればいいなと思っています。

今回のように聴覚障害者が登場する映画がきちんとエンタメ性があって、そして皆さんが見ることによってヒットすれば、よりそうした作品が増えるのではないかと。

――本作の主人公ルビーは耳の聴こえない両親をケアしながらも彼らの大きな愛に育まれて育っていますが、日本では貧困や家族の中の年長者の介護等の事情があって、子どもが両親や祖父母の面倒をみる「ヤングケアラー」という存在も話題になっています。

アメリカでは1990年に障害を持つアメリカ人法という法律が制定され、例えば医師にかかったりする時に聴覚障害者であれば必ず、手話通訳者が立ち会うという法律があります。


シアン・ヘダー/Sian Heder 1977年アメリカマサチューセッツ州生まれ。監督デビュー作の短編映画『Mother』(2006)で、カンヌ国際映画祭のシネフォンダシヨン賞ノミネート。フロリダ映画祭、オックスフォード映画祭、シアトル国際映画祭で最優秀短編賞を受賞。長編監督作品『タルーラ 〜彼女たちの事情〜』(2016年)では、サンダンス映画祭でプレミア上映され高い評価を受ける (配給会社提供)

しかし、都市部ではこうした制度が充実していますが、今回登場するロッシ家のように小さな町に住んでいる人たちにとってはまだ不十分であるという現状があると思います。子どもが手話通訳の役割を果たしている場合もあります。

そうしたアクセシビリティーの問題は障害のある人たちに限りません。移民の子にも共通している問題でもあります。

試写会後に韓国人男性が、「この物語は自分の物語であると感じた」と泣きながら話してくださいました。両親が英語を話せなかったので、自分が両親と社会との架け橋になっていたと。そして家族の下を離れた時に、自分が家族を離れたら、生き伸びていけるのかと心配になり、とても罪悪感が残ったと言っていました。ケアしなければならない家族を持つ子は、障害の家族を持つ子も移民の子も同じなんです。

大切なことはそうした重荷を子どもたちに課さないように、社会の側が制度を充実させることなのではないでしょうか。

自分の物語として受け取ってほしい

――お客さんの反応はどのようなものでしたか。

みな泣いています。そんなに泣かせるつもりはなかったのですが……。この物語は、障害のみに焦点が当てられているわけではなく、お互いを思いやる家族へのシンプルなストーリーです。家族へのラブレターと言っても過言ではありません。

今まではコロナ禍で上映され、(接触を避けるために)家族が離れ離れになる人もいたので、より感覚がビビッドになっていたのかもしれません。しばらくお父さんと会っていなかったけれども、この作品を見て会いたくなったと言った人もいました。私自身、映画を見た人たちが個人的な話をしてくださることに心を打たれています。自分の作った作品を自分の物語として語っていただけるのは本当に幸運なことです。

愛や家族など自分を自分たらしめているものは何か、ということについて考えることのできる映画なので、まずはリラックスして見ていただきたい。そしてデフカルチャーについて知っていただけたらうれしいです。そして、彼らはたまたま自分とは異なる手話という言語を持つ人たちで、自分たちと変わらない、普通の家族を持つ人なのだと感じてもらえたらいいですね。