「罪を犯したのは事実だし、過去は消せない。このことを受け入れたうえで深く反省し、経験を生かすことが僕に与えられた使命だと思っています」撮影:本社写真部

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現在発売中の『婦人公論』1月28日号に高知東生さんのインタビュー記事が掲載されている。2016年6月に、覚せい剤と大麻所持の容疑で逮捕された高知さん。妻(当時)の高島礼子さんは涙ながらに謝罪し、後に離婚を発表した。そして現在、高知さんは自助グループとの出会いを得て、自らの薬物依存体験と後悔を全国各地で語り続けている。執行猶予期間の4年が明けるまで、あと約8ヵ月。高知さんの心を支えているものは何なのか──(構成=丸山あかね 撮影=本社写真部)

【写真】大切な存在を失わなければ気づけなかった

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自助グループに出会い、やっと見つけられた居場所

逮捕された瞬間に、「これで救われた」とホッとしたのを覚えています。女房を裏切り、女性と一緒にいたところに踏み込まれた。女房に対して最低なことをした僕ですが、そのときはもう、自力で薬をやめることができなかったから。このまま続けたらすべてを失うことになるとわかっていたのに……。脳が薬物の力で支配され、自分で自分をコントロールできなくなってしまう。僕は「薬物依存症」という名の病気です。

今も有名人の薬物事件のニュースを見ると、当時のことがフラッシュバックします。自業自得ですが、マスコミに追い回されたことがトラウマになっていて、さっき撮影されたときも、シャッター音を聞いただけでビクッと身構えてしまいました。

正直、「悪い夢を見た」と流してしまえたらどんなにいいか、と思います。でも罪を犯したのは事実だし、過去は消せない。このことを受け入れたうえで深く反省し、経験を生かすことが僕に与えられた使命だと思っています。

こんなふうに冷静にとらえられるようになったのは、2019年の2月に依存症患者が自らの体験を語り合う自助グループに出会い、「苦しんでいるのは自分だけではない」と知ったことが大きかった。9月には依存症予防教育アドバイザーの資格を取得し、現在は依存症予防イベントなどで講演活動をしています。

依存症当事者や家族の方の前でもお話しする機会が多いのですが、この活動に僕も助けられています。自分の体験を語ることはセルフカウンセリングの一環でもあるんです。

また、依存症の家族を持つ方々にふれ、別の角度から依存症問題を見ることができるようになったのは大きな収穫でした。パワーをもらえるのもありがたい。「家族を依存症から救いたい」と藁にもすがる思いで僕の話に耳を傾ける方々を目の当たりにして、自分のつまずきを価値に変えることができるかもしれないと考えるようになりました。

僕は今、自分の居場所があることに感謝しながら生きている。欲もプライドもない素の心で、一から人生をやり直すチャンスを与えられているのです。

判決後の苦しかった日々。死のうとまで思い詰めた

2016年の9月に懲役2年・執行猶予4年の判決が下されました。その頃は人の目が気になって仕方がなかったんです。自分に寄り添ってくれた数少ない友人たちからも、「外に出たら石を投げられるぞ」とか「奥さんのファンに殺されるぞ」とか忠告されていました。

彼らに悪気はないと理解していますが、専門的な知識のない人の感情論に耳を傾けるべきではなかったと今は思っています。正直、僕の苦しみは家にこもっているあいだに増幅し、自分と向き合うどころか、「もうダメだ」と自分を追い込むことしかできませんでした。

そもそも家から一歩も出ないなんて、現実的には無理なんです。最初のうちは友人が食事を運んでくれていましたが、次第に来たり来なかったりするようになって、そのことに対して文句を言える立場ではない。

そこで意を決して一人でコンビニへ行きました。帽子を深くかぶってマスクもしていたのに、信号待ちで隣にいた5歳くらいの男の子が「ハンゾウチーフだ! なんで出なくなったの?」って(笑)。ハンゾウというのは、『逃走中』というバラエティ番組で僕が演じていた役の名前なんです。一緒にいたお母さんが慌てちゃって。

でもそのときに、「高知さんですよね。頑張ってください!」と声をかけてくれました。嬉しくて、親子を見送ったあと、その場にしゃがんで号泣してしまいました。

高知東生さんの記事が掲載された『婦人公論』1月28日号

そこから外に出るようになったのですが、現実は甘くはありませんでした。事件後、親しかった人や面倒をみていた後輩まで蜘蛛の子を散らすように離れていきました。自分のせいだとわかっていても寂しい。

ぽっかりと空いた心の穴を見透かしたように、心ない人が次々に寄ってきます。「つらいだろう? あるよ」と薬物使用をそそのかす人もいたし、「暮らしが大変だろう?」と善人のフリをして近づいてきて僕を利用しようとする人もいました。

でも一番キツかったのは、仕事を紹介しようと親身になってくれていた人から、「ごめん、採用が決まりかけていたんだけど……執行猶予中はマズイだろうという話が出て、ダメになった」とたびたび言い渡されたこと。

再起のチャンスさえ与えられないのかと心がくじけ、「もう死のう」と思いました。あのとき、僕のツイッターに「一度会って話しませんか?」というメッセージが送られてこなかったら……、そう考えるとゾッとします。

そのメッセージの主は、公益社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」代表の田中紀子さん。実は見覚えのある名前でした。逮捕された直後にワイドショーで、僕が取締官に「来てもらってありがとうございます」と頭を下げたことが報じられ、コメンテーターの一人が「甘い言葉。ふざけんな」と発言されたそうです。

すると間髪いれず、ネットメディアで「高知さんのコメントは依存症者の正直な気持ちで、私たちにはよくある話」と僕を擁護し、「コメンテーターの○○さんは依存症の専門家ではない。どうか口をつぐんでほしい」と、抗議した人がいた。それが田中さんだったのです。僕は、保釈後、叩かれまくっている記事の中、唯一の理解者を見つけてすごく嬉しかったことを思い出しました。

自らの心の傷と向き合う勇気を得て

ところが人間不信のピークにいた僕は、田中さんに「今はそっとしておいてほしい」と返信してしまいます。すぐに返事が来て、「いつ、どこで会いましょうか?」と綴られていたのにはビックリしたんですが(笑)。強引な人だなあ……とあきれながらも会ったのは、僕が心の底で救いを求めていたからでしょう。

田中さんは「夫はギャンブル依存症。私もギャンブルと買い物依存症だった」と切り出し、二人で回復への道を歩んだことを語り聞かせてくれました。

そして「依存症は脳に依存物質や依存行為の回路ができてしまう病気なので、意志の力ではどうにもならない」「なぜ依存せずにはいられないのか、原因になっている心の傷を突き止めることが先決です」と話は続き、自助グループに参加するよう勧めてくれました。「自分を苦しめる思いを分かち合い、プログラムで生き方を変えた人を私は数多く見てきました」と。

半信半疑で出かけた自助グループでしたが、同じ苦しみを抱える人たちの前でなら、すべてを打ち明けられる気がしました。それまでも精神科医の松本俊彦先生の治療は受けていましたが、先生にも自助グループに通い続けることを後押ししていただきました。

こうしたなかで僕は自分と向き合い、心の傷を浮き彫りにする勇気を育てていったのです。現在から遡って、少年時代のつらい記憶に対しても……。

僕の生い立ちは複雑で、小学校4年生までは祖母に育てられました。ある日、時々来ては欲しいものを何でも買ってくれるおばさんが母親だと知らされ、一緒に暮らすことになります。父親は任侠の世界の人で、周囲には若い衆が大勢いた。のちに母が愛人であることを知りました。

僕は中高一貫の全寮制の学校に入り、甲子園常連の野球部でピッチャーをしていましたが、試合があっても母は来てくれなかった。ところが高校3年のある日、突然学校に現れたのです。いつも着飾っていた母が、ジャージ姿で他の保護者に交じって料理を作っている姿を見たときの嬉しさといったら……。

後日、母が切羽詰まった様子で今すぐ進路を決めろと迫り、「任侠の世界は絶対にダメ」と言われたのを覚えています。別れ際に母からなぜか「私、綺麗?」と訊かれたことも。「気持ち悪いことを言うなよ」と答えると、笑いながら涙をこぼしていた。話をした1時間後に、母は自殺しました。

その後、父親だと思っていた男性と血のつながりがなかったこともわかり、故郷にいることがつらくなって高知県から上京したのは20歳のときです。「絶対に成り上がってやる」。その一心でした。でも都会のハードルは想像以上に高く、仕事にもつけず、代々木公園で2週間くらい野宿していたこともあります。

そのうちに原宿の広場で雑貨を売るバイトが見つかり、交友関係が広がるなかで、年上の会社経営者と仲良くなりました。昼はバリバリ働き、夜は華やかに遊ぶ豪快な男性で、彼がカジュアルに薬物を使っていたのです。僕も勧められるまま使うようになり、正直な話、罪悪感は薄かった。

裁判で、「20歳の頃から薬物を使用していました」と言いました。メディアではほぼ毎日使用していたかのように報じられたそうですが、そんなことしたら死にますから。ただ、つらいことがあったり、未来の不安に襲われたり、孤独で胸が張り裂けそうな夜も、薬物に頼って依存してしまったのは事実。

もちろん、どんな事情があろうと言い訳にしかならないことはわかっています。でも僕が伝えたいのは、周りから人がいなくなった後で自分の孤独に気づき、それを包み隠さず人前で話せるようになったら、嘘のように楽になれたということです。

「執行猶予は謹慎期間ではない」と知ったのも、自助グループに参加してから。僕の受けた判決、「懲役2年・執行猶予4年」とは、4年のあいだに再び犯罪を起こしたら2年の刑罰に処せられる、ということです。つまり、「4年間のチャンスを与えられた」。

第一、何もせずに文字通り謹慎していたら、収入がなくなり生活に困ってしまう。そうなると、絶望からまた薬物に頼るしかなくなります。執行猶予期間中に生活を再建することが大切だと教えられました。

幸い僕は猶予期間中に回復し、再起するのに必要な人たちと出会うことができた。自分が変わることで、悪影響を及ぼす人との関係を断ち切り、愛のある人たちと入れ替えることができたのです。人生のバランスが整い、薬物に頼るしかなかった人生から抜け出せた。

同志であり親友だった妻を失って気づいたこと

なぜ再び薬物に翻弄されることなく、ここまで歩んでくることができたのかと問われたら、別れた女房の記者会見での言葉と涙が心に響いているからです。外に女性を作った僕をなんとでも悪く言えばいいのに、彼女は僕のことを「同志でもあったし、親友でもあった」と言ってくれました。それをテレビで見た瞬間、大切な人を傷つけた後悔と悲しみに襲われ、二度と同じ思いをさせてはいけないと誓いました。

女房は気にもしていなかったと思うけど、僕は、「もっと頑張らなくちゃいけない」と自分で自分を追い込んでしまっていました。芸能人として東京でそれなりに成功したつもりでいたのに、世間ではヒモ扱いされ悔しかった。自分はそういう評価に甘んじられるタイプでもなかったし、むしろ女は男が守らねば! という古い価値観に縛られるような人間でした。

今思えば、人の評価なんて気にする必要はまったくなかったし、僕ら夫婦はこのスタイルを貫くと決めればよかった。大切な存在を失わなければそのことに気づけなかったことが、ただただ悔しいです。でもそれは僕の行動の結果だから、受け入れないと未来はないと思っています。

彼女とは会っていませんし、僕のことを今どう思っているかも知りませんが、僕自身は今も心の中で同志であり親友だと思っています。だからこそ今は前を向いて、懸命に歩んでいかなければ。

女房がよく言ってくれていたんですよ。「あなたはすべてに本気だから」って……。その言葉を心の支えにして、回復し続けていきたいと思っています。僕が身をもって依存症から回復できることを証明し、当事者や家族の希望の星として輝き続けたい。それが目下の夢です。

〈ギャンブル依存症問題を考える会 公式サイト〉 https://scga.jp/