忘れないで!実は9代目まで続いていた鎌倉幕府の将軍たちを一挙に紹介!

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建保七1219年1月27日、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)公が甥の公暁(くぎょう)に暗殺されたことで、頼朝公の血筋を引く将軍が絶えてしまいました。

月岡芳年「美談武者八景 鶴岡の暮雪」より、公暁に暗殺される実朝公。明治元年1868年

これ以降、鎌倉幕府の主導権は執権である北条氏に移行していったのは間違いありませんが、鎌倉幕府に将軍がいなくなった訳ではなく、滅亡するまでちゃんと将軍は存在していました。

そこで今回は、実朝公の亡き後の歴代将軍について紹介したいと思います。

鎌倉幕府・歴代将軍の略系図

ちょっと見づらいですが、歴代将軍の系図を作りましたので、参考になればと思います。

第4代・藤原頼経(ふじわらの よりつね)

【生没】建保六1218年1月16日〜建長八1256年8月11日(享年39歳)
【在位】嘉禄二1226年1月27日〜寛元二1244年4月28日(約18年3ヶ月)
【改名】三寅⇒九条頼経⇒藤原頼経⇒行賀

『集古十種』より、藤原頼経肖像。江戸時代。

頼朝公の妹・坊門姫(ぼうもんひめ)の曾孫に当たり、実朝公の暗殺後、源氏の血をひく将軍候補として2歳の時、鎌倉に迎えられます。

将軍に就任した当初は執権・北条一族の傀儡(かいらい。操り人形)将軍として後見されていたものの、成長するにつれて父・九条道家や反執権勢力と共に幕政を牛耳ろうとしたので嫡男・頼嗣に将軍職を譲らされ、それでも反抗し続けたため、京都に追放されてしまいました。

第5代・藤原頼嗣(ふじわらの よりつぐ)

【生没】延応元1239年11月21日〜建長八1256年9月25日(享年18歳)
【在位】寛元二1244年4月28日〜建長四1252年2月20日(約7年10ヶ月)

6歳の時に父・頼経から将軍職を譲られるも、父以上の傀儡将軍であった上に、父が関与した謀叛のとばっちりで将軍職を解任されてしまいます。

父ともども京都に追放された4年後、父と1か月違いで病死。死因は当時都で流行していた赤斑瘡(麻疹)と言われていますが、親子が相次いで亡くなったことから、暗殺されたとの説もあるようです。

第6代・宗尊親王(むねたかしんのう)

【生没】仁治三1242年11月22日〜文永十一1274年8月1日(享年33歳)
【在位】建長四1252年4月1日〜文永三1266年7月20日(約14年3ヶ月)

後嵯峨天皇の第一皇子。幕府に皇族を送り込みたい朝廷と、九条家を幕政から排除したい執権との利害が一致、11歳で将軍として鎌倉に迎えられましたが、この頃は執権による専制政治が確立しており、結局は傀儡将軍となってしまいます。

そこで親王は和歌に打ち込むようになり、御家人から有名な歌人を多く輩出するなど、鎌倉で歌壇文化の隆盛を極めます。

しかし25歳の時に正室・近衛宰子(このえの さいし。九条道家の孫娘)が謀叛を企んでいた疑いによって引退させられました。

第7代・惟康親王(これやすしんのう)

【生没】文永元1264年4月29日〜嘉暦元1326年10月30日(享年63歳)
【在位】文永三1266年7月24日〜正応二1289年9月14日(約23年2ヶ月)

宗尊親王の嫡男。3歳で将軍職を譲られ、7歳で臣籍降下(しんせきこうか。皇族から朝臣≒民間人に格下げ)されて「源」の姓を賜り、源惟康(みなもとの これやす)と名乗ります(後嵯峨源氏、一代のみ)。

竹崎季長『蒙古襲来絵詞』正応六1293年

これは蒙古襲来(元寇)という未曽有の国難を前に、将軍を初代・頼朝公(源氏の棟梁)になぞらえて御家人の結束力を強めるための施策と言われ、その甲斐?あってか、幕府軍は元軍の撃退に成功します。

しかし、いざ脅威がなくなると、惟康将軍のカリスマが邪魔となった執権は惟康将軍を皇族に復帰(親王宣下)させ、従兄弟である久明親王(ひさあきらしんのう。後深草天皇の第六皇子)に将軍職を譲らせた上、京都に追放してしまいました。

後深草天皇に仕えた女房・二条の日記『とはずがたり』によると、惟康親王が鎌倉を追放される時、親王が輿(こし)にも乗らない内に、下級武士たちが将軍の今まで住んでいた御所を土足で踏み荒らし、破壊する様子に、女房(にょうぼう。女官)たちは泣いて右往左往するばかりであったと言います。

筵(むしろ)に包まれた粗末な輿に乗せられて、惟康親王は大いに泣いたそうですが、未曽有の国難には散々利用しておきながら、用済みとなれば無情の仕打ち、かつての義経公を彷彿とさせるようです。

第8代・久明親王(ひさあきらしんのう)

【生没】建治二1276年9月11日〜嘉暦三1328年10月14日(享年53歳)
【在位】正応二1289年10月9日〜延慶元1308年8月4日(約18年10ヶ月)

後深草天皇の第六皇子。執権からの要請で将軍職に就任するも、名目上の存在に過ぎず、和歌に打ち込んだ辺りは伯父の宗尊親王に似ています。

やがて惟康親王の娘(女王)との間に生まれた嫡男・守邦親王(もりくにしんのう)に将軍職を譲りますが、これまでの将軍職と異なり、いわゆる「円満退職」だったようで、久明親王が京都で薨去(こうきょ)された時には、幕府も喪に服したそうです。

第9代・守邦親王(もりくにしんのう)

【生没】正安三1301年5月12日〜元弘三1333年8月16日(享年33歳)
【在位】徳治三1308年8月10日〜元弘三1333年5月22日(約24年9ヶ月)

鎌倉幕府最後の将軍。久明親王の嫡男として8歳で将軍職を譲られますが、この頃にもなると将軍は傀儡ですらなく完全に形骸化しており、詳細な事跡もほとんど伝わっていません。

おまけに倒幕運動の先駆けとなった護良親王(もりながしんのう。後醍醐天皇の第一皇子)からは無視されてしまう(討伐対象とすら見なされなかった)など、すっかり「空気」な存在です。

極めつけには鎌倉幕府が滅亡し、執権・北条一族が東勝寺(とうしょうじ。現:鎌倉市小町。廃寺)で集団自決を遂げた元弘三1333年5月22日の時点でさえ「どこで何をしていたか」という記録がなく、将軍はもはや「どこで何をしていようと、幕府の行く末に何の影響も及ぼさない存在」となってしまっていたことが察せられます。

幕府の滅亡後、将軍職を辞した守邦親王は出家、間もなく薨去されていますが、まさに「鎌倉幕府の幕引き役」と言える人生でした。

おわりに

鎌倉は幕府滅亡後、政治の中心地としての役割は徐々に薄れていきますが、室町時代にも「鎌倉公方(かまくらくぼう)」が置かれ、戦国時代にはかの信玄公・謙信公も攻略できなかった名城・玉縄城が築かれるなど、鎌倉は東国経営の要衝として機能し続けます。

また、かつて隆盛を極めた鎌倉仏教の聖地として信仰の命脈を保ち続け、その精神を今に伝えていることも徳筆に値します。

ただ、こうした功績は勝者によってのみ成されたものではなく、時として望まぬ結果に甘んじた者たちの累々たる営みもまた、その礎となっています。

傀儡と呼ばれた将軍たちだって、好きでそう呼ばれた訳ではなく、時代に翻弄されながらも、その時その場でできる最善の選択を望んでいた筈です。

出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
(意訳:私が出ていけば、もうこの家に主はいなくなる。それでも軒端の梅よ、春を忘れず咲いておくれ)

源実朝公 御辞世

幕府が滅んでしまえば、もう鎌倉に「主」はいない……それでもまた春はやって来るし、綺麗な花も咲くでしょう。そこでもう一首。

枯るる樹に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ
(意訳:枯れ木に花を咲かせて見せる。また鎌倉を、昔のように)

伊勢新九郎長氏

これは室町時代末期、伊勢新九郎長氏(後世の北条早雲)が戦乱ですっかり荒廃してしまった鎌倉を「いっちょ復興してやろうぜ!」という気概で詠んだ歌とされています。

私たちもその心意気を受け継ぎ、日本人の大切な財産として、鎌倉を守って行きたいものです。