鹿島というクラブの内部で、ジーコと直接接した人たちは、そのカリスマに感激したのかもしれないが、第3者にはそれが何なのかまったくピンと来ない。

 悲しい姿を露呈させた2006年ドイツW杯後も、ジーコは指導者として何かをしていない。指導者としては成功しなかった。まさに「名選手名監督に非ず」を地で行ったのだった。その監督としての評価は低いままだ。

 現在の鹿島の躍進と、ジーコスピリットの間にどんな因果関係があるのだろうか。非ブラジル的。最も近いのは94年アメリカW杯を制した際のブラジルになるが、先述の通り、現在の鹿島のスタイルとなっている後半追い込み型は、かつてのドイツ似だ。近場で言うならば、2002年日韓共催W杯でベスト4に進出した際のヒディンク率いる韓国代表的。ジーコスピリットへの称賛は、短絡的であり非論理的と言うべきだろう。

 現在の後半追い込み型はどこから来ているのか。一言でいえば、層の厚さだ。使える駒が多いこと。交代の選択肢が多いことだ。ピッチ上に変化をもたらしそうな選手がベンチに控えている。グアダラハラ戦で投入されたのは安部裕葵、安西光輝、西大伍の3人だが、そのたびにチームに勢いは増していった。それを可能にするのはスピリットというより選択肢の多さ、アイディアの豊富さである。その具体性が精神を奮い立たせる要因になっている。

 その逆パターンを描いたのが、ロシアW杯の日本代表だった。ラストワンプレーで逆転されたベルギー戦。西野監督は土壇場で3人目の交代カードを切らなかった。切れなかったのだと思う。選択肢がなかったからだ。本田圭佑と山口蛍を、原口元気と柴崎岳に代え、ピッチに同時に送り込んだ最初の交代も、チームを勢いづかせる交代とは言い難かった。

 追い込み型ではなく、逃げ馬が失速するパターンを描いた。2006年ドイツW杯の豪州戦と通底するものを感じた。ドーハの悲劇を含め、従来の日本サッカーの傾向はこちらだ。終盤にやられるパターンを描く方が多い。

 そうした意味で2016年クラブW杯を戦った鹿島、そしてグアダラハラに勝利し、再度レアル・マドリーと対戦することになった2018年の鹿島はよい意味で異質。画期的な存在に見える。

 とりわけ短期集中トーナメントに適していると思う。なによりW杯に向いている。まさしく日本代表のあるべき姿をクラブW杯の鹿島に見る気がするのだ。次戦で戦うレアル・マドリーは、例年ほどの強さはないとはいえ大本命だ。W杯で言えば第1シード国。日本代表がこれまでW杯本大会で戦った相手で言えば、アルゼンチン(98年)、ブラジル(06年)、オランダ(10年)級に相当する。常識的にはまず勝てなそうもない相手ながら、2年前の決勝では2-2に追いつき延長に突入。2枚目のイエロー確実だったセルヒオ・ラモスを退場にしなかったレアル・マドリー寄りのジャッジがなければ、あるいは勝利していたかもしれない大善戦を演じている。

 日本代表より期待できる。それだけに、そこにテクニカルディレクターとして、元日本代表監督のジーコが、フィクサー然と登場する姿には抵抗を覚えてしまう。鹿島のジーコより、日本代表監督としてのジーコの印象が強いこちらには、なおさらそう思う。かつてのジーコ的ではないところが鹿島の強み。レアル・マドリーとの決戦を前に、ハッキリそう言っておきたい気分である。