元ナイキジャパン社長が語る、フィル・ナイト流の「人材活用術」とは(撮影:今井 康一)

10月27日の発売開始後すぐに10万部を突破し、早くも「2017年最高の書」と高い評価を得ているナイキ創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG(シュードッグ)』。
10月26日(木)には本書の刊行記念イベント「フィル・ナイト・NIGHT」が日本橋浜町「Hama House」で行われ、1993年から2年間、ナイキジャパンの社長を務め、フィル・ナイトと直接議論を戦わせてきた秋元征紘氏が登壇した。フィル・ナイトを「憎らしくて尊敬できる、いい兄貴」と評する秋本氏が語ったフィル・ナイトの人物像と、その人材活用術をご紹介する。
聞き手:佐藤 朋保(東洋経済新報社 翻訳委員長)

(前編はこちら)

逆らう奴には「6カ月の有給休暇」を


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――ナイキのバットフェイス(経営幹部会議)に参加されたことはありますか?

もちろんあります。そのときのテーマはサッカー。来期、どうやってサッカーに参入するか、皆で考えようというわけです。バットフェイスのミーティングは、『シュードッグ』にもあるように、とにかく長い。会議の場所が何にもない山奥の山荘で、ほかに何もすることがないので、日中の会議の後も参加者全員での食事会、後は深夜から翌朝の2時3時までひたすら飲んでしゃべっているんです。

そのとき、フィルに「サッカーなんかやらないほうがいい」とずっと訴え続けている幹部がいました。普通なら、絶対に言えないですよね。社長がサッカーをやるという方針を出して会議をしているのに、やめたほうがいいなんて(笑)。

さすがに心配になって、「彼、大丈夫なのかな?」と他のメンバーに聞いたんです。すると「近づかないで、ここにいなよ」と言う。その後も楽しく仲間たちと飲んでいたんです。それでも気になって「ああいうことはよくあるのか?」と周囲に聞いたら、みんな「まあ見ていろ」と言うだけ。

翌朝、見回してみると、フィルに食い下がっていた幹部がいない。そばにいた社員に事情を聞くと、「彼は6カ月間の暇をもらった」と。「えっ!」と驚いたら、彼が言うには、「給料は出るけれど、出社するなってことだよ。言うのを忘れていたけど、わが社ではよくあることなんだ。あいつも、こいつも……実は俺も」と。

後からわかったのですが、フィルは徹底的に議論する人で、妥協する人間は嫌い。でも、意見が異なる人を会社に置いておくわけにいかない。そこで6カ月、間を空けて、お互いに頭を冷やして、やる気があるなら続けていいし、辞めてもいいと。普通はクビですよね。「ここがフィルだな」と感じました。

私もフィルからこう言われたことがありました。「秋元、これはお前が今後、マネジメントをするうえで大事なことだ」と前置きしたうえで、「自分がおかしいと感じたら、とにかくそう言え。そういう勇気をもて。Aggressive Honesty(過激な正直さ)、それがわが社のバリューの1つなんだ」と。僕は決して、従順なタイプではなかった。でも、さすがに6カ月間も仕事から放逐されるのは嫌なので、言動には気をつけていました(笑)。

「グジュグジュしている」フィルの素顔

――フィル・ナイトは独断的なカリスマ経営者だった?


秋元 征紘(あきもと ゆきひろ)/元ナイキジャパン社長。1944年生まれ。1993年から1995年まで、ナイキジャパン代表取締役社長を務める。ナイキ創業者フィル・ナイトとビジネスで深く関わった経験を持つ。1970年日本精工入社。ニューヨーク、トロント駐在を経る。その後自ら起業するも失敗、35歳のときに時給600円のアルバイトとしてケンタッキーフライドチキンで働き始めて人生を再スタートさせ、日本ペプシ・コーラ副社長、日本KFC常務取締役、ナイキジャパン代表取締役社長、ゲラン(LVMHグループ)代表取締役社長・会長などを歴任。現在はジャイロ経営塾代表、ワイ・エイ・パートナーズ代表取締役。著書に『こうして私は外資4社のトップになった』(東洋経済新報社)、『一流の人たちがやっているシンプルな習慣』(フォレスト出版)、『ビジョナリー・マネジャー』(クロスメディア・パブリッシング)など(撮影:今井 康一)

いや、そういうタイプではないですね。一言でいうと、グジュグジュしている(笑)。明快なイエス・ノーを言わない。一つひとつの案件について、すぐに反応しないんです。

『シュードッグ』でも、正社員第1号のジェフ・ジョンソンがしつこく手紙を出しているのに、フィルはほとんど返事をしないという記述がありますよね。万事、そんな感じです。ちなみにジェフは、ハンサムで最高な男でした。変わり者で、フィルの悪口も臆せず言っていました。

当時、フィルは社内で「PK」または「PKファクター」と呼ばれていました。彼の影響力は圧倒的でした。時間をかけてみんなで議論して、「これで行こう」というところまで詰めても、「ちょっと待って。PKの意向を聞いてから決めよう」となるのです。

マイケル・ジョーダンとの契約にしても、いくらで契約したか、社内の誰も知らない。社内で聞くと、「PKに聞け」と言われるんです。アスリートとの契約の多くは、フィルの独断だったんですね。当時はナイキといえばフィル・ナイトであり、いうなれば彼の一挙手一投足がナイキだったんです。

フィルはおカネが払えなかったり、FBIに捕まりそうになったり、政府から2500万ドルを請求されたり……、いろいろなピンチを経験しますよね。それで僕は思ったんです。フィルはおカネに関することも含め困難をすべて自分で背負ってきた。いろいろと苦労してきたからこそ、即座に安易な決定をすることはしないんだと。

それにフィルは野球チームに入れてもらえなかったり、夢だった偉大な陸上選手になれなかったりと、コンプレックスがある。彼には負け犬的なところがあり、決してカリスマ的リーダーではなかった。

自分にも他人にも「背水の陣」を強いる

――秋元さんが感じた、フィル・ナイトの人物像は?

「いい人」ではないですね。ナイスガイですが(笑)。風貌がかっこいいわけではなく、洋服がおしゃれでもなく、いつもギャバジンのグリーンのスーツを着ている。グリーンというのは、彼にとって意味のある色だったんですね。1962年に初めてオニツカを訪れたときにグリーンのギャバジンスーツを着て行ったという『シュードッグ』の記述を見て、そうだったのか!と思いました。


会場は立ち見が出るほどの熱気に包まれた(撮影:今井 康一)

フィルの性格は内向的でシャイ。だから、自分の目線がばれないように、いつもオークリーのサングラスをかけている。彼は非常に読書家で、僕も本が好きなので話が合いました。彼は特に『孫子』が好きで、自分にも他人にもいつも「背水の陣」を強いていた。追い込まれるほうはきつかったですよ(笑)。

あるとき、フィルがすごくいい感じで話しかけてきて、「実は以前、ロン・ネルソンに約束しちゃったんだ。秋元が2年社長をやったら、次の日本の社長はお前だと。秋元、ナイキジャパンの経験を活かして次は香港かベトナムに行って、どちらでもいいから社長をやらないか」と。

これは寝耳に水の話で、正直なところ、ショックでした。ナイキジャパンでは僕も社員も禁煙を貫き、体も鍛えて、社員と一緒にホノルルマラソンにも出ました。ナイキジャパンの「ナイキ化」はある程度成功したと思っていました。それに、当時Jリーグができたころで、サッカー選手にナイキを身につけてもらおうと頑張っていましたし、野茂英雄選手をアメリカの本社に紹介して、JUST DO IT.キャンペーンを盛り上げたりしていました。大変でしたが、楽しかったですから。

ちなみにロン・ネルソンは『シュードッグ』にも登場します。フィルがアパレル部門の責任者として抜擢したのに、服装のセンスをまったく持ち合わせていなくて、たった1回プレゼンしただけで製造部門に移動させられたという(笑)。彼が僕の後任の社長でした。まさか、そんな密約のせいでナイキジャパンを去るとは、思ってもみなかったですね。

ナイキを辞めた後、私はLVMHグループのゲラン株式会社の社長になりました。しばらくして、パリでゲランの新香水「シャンゼリゼ」を紹介する、1週間にもわたるビッグイベントがありました。ゲラン日本法人の社長として、パリで最高級のホテルの1つであるホテル・ド・クリヨンに泊まっていたら、そこでフィルと再会したんです。彼は、テニス観戦が趣味で、フレンチオープンを観戦しに来ていました。

ホテルの中庭を散歩しているフィルに、「Hi Phil !」と声をかけたら、彼は私がまだナイキの仲間であるかのように話しかけてくる。だから、「僕はもうナイキで働いているんじゃないよ」と言うと、悪びれもせず、「ああそうだっけ。まあいいか」なんて軽いノリでいましたね。そのとき、「とんでもなく悪い奴だな」と思いました(笑)。

フィル・ナイトは悪い奴だった?

――フィルは悪い奴だった?

いえ、逆にこんなこともありました。僕がナイキジャパンの社長に就任したときに、フィルがメッセージをくれたんです。「お前はポートランドで評判がいいから、日本でも受け入れられるように頑張れよ」といったことが書いてありました。そのメッセージは、今でも額に入れて大切に飾ってあります。


社長就任時に送られてきた直筆のメッセージ(撮影:秋本征紘)

『シュードッグ』でも、裁判で公正な発言をしてくれたイワノさんがオニツカを退職したとき、電話1本してあげなかったと後悔していますね。フィルとけんか別れをして、アディダスに移った盟友のロブ・ストラッサーをつねに裏切り者呼ばわりしていましたが、彼が心臓発作で亡くなったときは、本当に残念がっていた。それは当時のフィルのスピーチを聞いていたからわかります。彼にはそういう気配りがある。憎らしいとも思いますが、尊敬できる、いい兄貴なんです。

――人間的な魅力にあふれた人だったのですね。

今思うと、あんなに遊び心があって刺激的な人はいない。フィルは東京のレストランをよく知っていて、2人で「どちらが選んだレストランがうまいか」を競ったこともありました。1度、彼が選んだレストランが移転してしまい、つまらない店になっていたときには、本気で悔しがっていましたね。

そして、フィルらしいなと思ったのは、全資産の約2.8兆円を慈善事業に使うと宣言したこと。この本の最終章にもそれが記されています。彼は、長男を亡くしたときからそう思っていたと言うんですが、次男はまだ生きている。ビル・ゲイツですら、慈善事業には資産の半分しか割いていない。おカネに翻弄されない人ですね。

彼はもちろん大富豪ですが、すごく高級な家に住んでいるわけでもないし、そうした贅沢には興味がない。ただ、車だけはたくさん持っていました。特にホンダのスポーツカーが好きなんです。彼の車のナンバープレートは特製のジュラルミンでできていて、そこに「NIKE 1」と書かれている。アンテナには、テニスボールが刺さっていて、本社の駐車場にその車があると、今日もフィルが来ているんだなと思ったものです。彼は「これが俺の贅沢だ」と話していました。

私の社長就任会見のとき、彼は、ホテルのメモ用紙に箇条書きにした4つか5つの文章だけで、見事なスピーチを行いました。日本人の経営者の方々は、人からどう見られるかを気にする人が多いと思いますが、フィルは自分らしくいられるかどうかを重視していました。自分の言葉で話すことができる人だった。

パリのホテルで再会したあと、実はフィルに手紙を書いたんです。「あなたのおかげで健康になったし、もちろん、たばこも吸っていない。またホノルルを駆けることができた。ありがとう」と。

彼は本当に魅力的な人でした。もし機会を与えられるなら、これからも、もっとフィルのことを紹介していきたいと思っています。

(構成:大内 ゆみ)