ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編、中編に続いて映画『シン・ゴジラ』について語り合います。ネタバレあり。

「リアリティ」を生むための技法



藤田 ところで、「政治」が描けていない、という批判も見かけました。むしろそこが「リアル」という意見が多いので意外だったんですが、これをちょっと引いて考えてみたいんです。
 政治家や官僚や学者が活躍するものは、実際の様子を知っている人が少ないので、リアリティあるのかないのかを判断するのが難しいんですよね。当人たちや、取材をよっぽどしている人以外には、「リアルかリアルじゃないか」を判断する根拠となる経験が存在していないはずなんですよ。では、何を準拠にリアルを判断しているのか。
 そう考えると、その「リアルさ」は、実際に経験した現実との素朴な対応で判断されているのではなくて、映画が生み出している「効果」だと考えたほうがいいですよね。その「効果」を生んでいるのは何か、と分析していくほうが実りがありそうな気がします。

飯田 「○○が描けている/描けていない」って主観だからね。みんなが自分の主観を言えばいいだけの話だと思う。それしかわからないし。リアルとリアリティは違うし、フィクションは後者を追求するものです。観客に「本当っぽさ」を感じさせればよく、何をもって「本当っぽく」感じるかはもちろん受け手のリテラシー、ふだん触れている情報量に拠る。ポンプ車だって建設業の人たちは「あんなに便利に動かない」って言ってたけど、そりゃその道のプロからしたらそれぞれ何かしら「違和感ある」でしょう。でもそうじゃない人がみて「こういう感じなのかも」と思わせられたら十分ですよ。専門家だけが観る作品じゃないんだもの。
『シン・ゴジラ』がやたらいろんなひとから言われるのはまずなにより単純にたくさんの人が観たからだし、リアリティを追求していることを売り文句にしているので逆に突っ込まれるということだと思う。

藤田 「現実対虚構」がキャッチコピーですから、本作の「リアリティ」がどこから生まれているのかを分析してもいいと思うのですが。
 考証や映像などで、現実との対応を丁寧に積み上げたのも、リアリティの源泉の一つですね。
 しかしそれ以外にも、リズムとか勢いとか、情報量で圧倒するとか、色々な技法の「効果」によって、「リアリティ」の感覚が観客に生じている。「現実と虚構」の違いがぐらぐらさせられるような効果を、映画全体でやっていると思うんですよ。
 多分、インタビューとかこれから色々出てくる資料を精査しないとはっきりとは言えないんですが、その「効果」を生むためにどんなことがなされて、フィルムのどこがどう観客に作用したのか、今の時点でわかるところだけ分析していこうかなと。

飯田 考証をすごく地道にやっていることはパンフレットとかすでに出ているインタビューでも言われています。

藤田 たとえば、戦車がゴジラと戦うシーンあるじゃないですか。あそこ、リアリティあるなぁと感じるわけです。ゴジラと戦って橋が崩れたり戦車が逃げるシーンも生々しいと感じるわけですが、そもそも戦車が戦っているのも、橋が落ちるのもみたことがないわけです。ぼくは、自衛隊が具体的にどういう手順で戦うのかも、観ている時点で、知らない。ということは、この「リアリティ」は、対応する現実がないのに、生じている。

飯田 自衛隊の戦闘の手順は参照できる現実があると思う。橋が降ってきて戦車がつぶれるとかは……戦争の記録映像とかを観ていけばあるかもしれない。基本、ないと思うけど。

藤田 そのリアリティは何なのか。ディティールを積み重ねていることによって、「脳内で思い描いている」あるいは「これまでの怪獣映画とは違う」、「いかにも現実ではこうかもしれない」と思わせるような、ハッとする瞬間が生み出されている。そこで「ハッとする」感覚、「今までと違う何かが起きている」という感覚こそが、リアリティと心理的に繋がっている。「現実」そのものじゃないんです。

飯田 庵野監督は「特撮は現実空間に虚構を混ぜ込めるのがいいんだ」とずっと言っていますよね。現実と虚構(特撮、CG)を極力シームレスに感じさせるのは技術の産物であるとしか言いようがないですね。
初見は勢いとアイデアにびっくりしているうちに観終わっていてほとんど気にならなかったけど2回目観たら無人在来線爆弾のところとか「CG、しょぼいなあ」って改めて気づいたりしたんだけど、つまりテンポよく画面を切り替えてアラを目立たなくさせる、とか、細かい技術の積みかさねでリアリティを出している。あるいはリアリティのなさを隠している。『シンゴジ』はけっこうカネかけてるんだろうなあって画も容赦なくカットを切り替えていくのが庵野さんらしいと思ったw

藤田 CG(?)は、ちょっと安っぽいところありますね。序盤の船の辺りとかも。でも、迫力はあった。

飯田 ギャレゴジは真っ暗なシーンばっかりでCGのアラとか重量感の出しにくさが目立たないようにしていたけど今回はゴジラが日中に歩行しているから「どういうこと?」って思ったけど、よく観たら煙とか水蒸気とかが地味に出まくっていて全身があんまり見えないようになっていたりする。

藤田 煙には監督はこだわったらしいですね…… 結構リテイクしたとか。エヴァを作っているカラーの人たちが「プリヴィズ」っていう、CGや特撮のシーンを、アニメやCGなどで作った見本をおそらく用意したようで、コマ単位で直しの指示を庵野さんが出してきたとか。

飯田 あと、ゴジラが意外と動いてない画が多いw 動いていないか、ほかにより動く(建物倒壊とか)ものがあって視線誘導させているので目立たない。ニュース画像やニコ動の画面みたいにしてカメラの画像がそもそも粗いものになっている、とかね。特オタでもないので適当なこと言ってすみませんという感じですが。

藤田 引きの絵が割と多かったですよね。ゴジラの最初の登場のシーンも、目玉がおっきくてかわいい感じにして、ファニーなイメージにしてリアリティを揺さぶるところから始めているので、その後の受け取り方が代わりますね。

ミニチュアとCGなどを混合させたビルの崩れ方はハリウッドより新鮮


飯田 第三形態になるまではCGもわりと軽いというか異物感のほうが強い感じにしていて、いつものゴジラっぽい姿になってからグッとシリアスさと重みを増す(野村萬斎の独特の歩行になる)ので「おお!」って気持ちよく騙されちゃう。
 建物の壊し方、崩れ方は日本独特のセンスとリアリティが息づいていて好きでした。ギャレゴジ見直したらそこも物足りなく感じた。「ハリウッド映画のCGっていつもこうなんだよなあ」って。

藤田 ミニチュアは、CGとは違って、一応「物体」なので、設計したのとは異なる崩れ方や動きをする部分があるので、それもCG全盛期の今だからこそ、リアリティに寄与していた。「巨神兵東京に現わる」の時点でそうでしたが。

飯田 そこは本当よかったですね。現実にある「モノが壊れている」感じを体感させつつ、CGをするっと混ぜてくる。言葉でいうのは簡単だけど、つくるのは死ぬほど大変だと思う。

リアリティ・レベルや解像度の違う映像の連射



藤田 画面の解像度を変える(作中のカメラの映像を使う)ことでリアリティを出すのは最近よくあるテクニックですが、本作では望遠の実景がやたら多いので、これがうまく効いている感じがしました(作中のカメラの解像度の差を利用するのは、『ラブ&ポップ』のときの技巧ですね)。第四班の仕事かな? 望遠で空気で霞んでいる「現実」の映像が加わると、「虚構」の映像との関係がぐっと近づくんですよ。第三班の作る、ニュース映像などと組み合わさって、解像度や、映像としての水準が違うものが連射されていくなかで、虚構と現実の境界が曖昧にかき混ぜられる。あのスピード、編集、映像は、そのために必要だったのだと思うんですよ。精査するだけの時間的余裕を観客に与えない。

飯田 ヱヴァも『破』や『Q』を観ると、めっちゃ説明ぜりふなんだけど画面でアクションしまくってるので気にならない、とかやってきた人だけある。画面と音の情報量が多いので、丸ごと受け止めていると細かいアラとか画としての魅力の薄さがある部分があっても目立たない。
 テロップ使いとかは岡本喜八から来ているっていうけど岡本喜八だってあんなには使ってないし、あそこまでポンポン進まないですからね。最初から1.3倍で再生感のあるリズムは庵野さん独自……というか「物語シリーズ」をはじめとする最近のアニメのスピードですよね。それを実写でやった。

情報の圧縮と連呼によって生まれる「リアリティ」


藤田 岡本喜八監督の映画は好きで、割と観ていんですが、あんなにたくさんテロップが勢いよく出てくる映画はないはずですよ。
 長いテロップは、観客、読めてないと思います。むしろ、それでいいんだと思うんですよ。情報は提示した、しかし観客は全てを把握できない。だから、映画がフェアだと思って、脳内で補完する。「考証」をしっかり積んだのは、そこで「虚構」に飛ぶためでしょう。
 同時に、情報が多すぎて事態が把握できない現場の緊張感も追体験できるし、311後のぼくらを襲った、情報が多すぎる状況も想起させる。
 役職も場所も、一回観ただけでちゃんと把握し切れている人はいないと思うんですよ。あれで圧倒することが重要だし、何より、視線を「文字」に誘導して、「字を読むモード」などに脳を切り替えさせて水準を混乱させてくる。

飯田 そうですね。庵野さんが監督したアニメ『彼氏彼女の事情』もずーっとしゃべりっぱなしで、せりふと画面の動きはえてしてバラバラ(だけどタイミングは完璧に合ってるので気持ちいい)という作品だった。あっちはせりふは内面吐露なので『シン・ゴジラ』の状況説明ぜりふとはもちろん違うんだけど。
 演出と編集が鬼。庵野さんの過去の実写、『ラブ&ポップ』とか『キューティーハニー』は全然もう、あらゆる点で今回ほどの水準じゃなかったから(予算の規模がそもそも違いすぎるけど)、そういう意味でもびっくりした。

藤田 圧縮の美学ですよね。この隅々まで神経の行き届いた作品が、庵野作品だなぁと思って、ぼくはもうそこで絶賛。普通の邦画では、それは期待できない。日本映画では、出演されていた塚本晋也監督の映画ぐらいですよ、この圧縮感と緊張感が漲っているのは。
 庵野監督の実写、『式日』『ラブ&ポップ』とも方法論が違う。こちらは、むしろだらだら長回しをすることに力点を置いている。本作は、庵野実写の中では、かなりの異色作に見えます。
 電線とか線路とかを執拗に撮っているところは『式日』だ! と、個人的には喜んでいましたが。

飯田 『シン・ゴジラ』観る前に『キューティーハニー』を観て「このくらいチープなゴジラになっているかもしれない」とハードルを下げまくって観に行ったからね、僕は。だからよけいに仰天した。庵野さんのほかの実写作品も全然嫌いじゃないけど。

藤田 『キューティーハニー』は、「現実に戻れ」って、エヴァの旧劇場版で言ったくせに、お前どうなってるんだって、当時は怒ってましたよ、ぼくはw
 だから、今回の『シン・ゴジラ』は、ようやく、「現実に帰れ」って言ったあとの落とし前をつけてきた感じがしています。そこは作家論的には、筋が通った感じはしています。

『シン・ヱヴァ』はメカゴジラになる!? 大胆予想!


飯田 ヱヴァの新劇場版が始まる前は庵野さんは「アニメに対しての失望が実写に向かわせていた」と本人も言っていたけど、今回は庵野さんのアニメーターとしての生理感覚で貫かれた実写/特撮という感じで、融合してますよね。
だから『シン・エヴァ』が昔のエヴァみたいに実写がいきなり入ってきてももう驚かないw というかそれしかないんじゃないかと。押井守における『ガルムウォーズ』のように、アニメ的なものと実写的なものをひとつにする。その庵野秀明バージョンを集大成としての『シン・エヴァ』で。
 いや、もちろん、普通にアニメでも全然いいんですが。『シン・ゴジラ』撮ったあとにそんな素直な作品になるわけないだろうなあって……庵野さんが素直な作品を作ったことなど一度もないですけど。

藤田 「現実対虚構」というキャッチフレーズですけど、実は「現実/虚構」の二項対立をやめたっていう印象が強いんですよ、本作は。そう思えば、『ガルムウォーズ』と近いですね。若干、パトレイバーっぽさ(『踊る大捜査線』っぽさも)がありましたが。

飯田 虚構(ゴジラ)が日本のど真ん中(東京駅)に居すわり続けるなかで現実世界は続いていく……っていう話だからね、『シン・ゴジラ』は。虚構がいつ暴走して自分たちを終わらせるのかわからない状態で現実を引き受けて生きつづけなきゃいけないんだ、という話。虚構が現実に居すわっている世界に僕ら、生きてますしね。虚構=ゴジラ=原発。

藤田 押井監督も、パトレイバー実写版の中で、熱海に怪獣が現れる怪獣モノを撮っているのですが、やっぱ、押井監督は、ネタで逃げちゃった感あるなぁ。
 ネタにしないでシリアスに怪獣モノをやりきって、シラケさせなかったのは、繰り返すけど、本当に凄い。

飯田 僕は『シン・ゴジラ』がきれいに落ちていたから、正直もう『シン・エヴァ』でちゃんと完結しなくてもいいとすら思ってますよ。なんか別のものにつながるとか、また全然違う切り口でエヴァやるとかでもいいかな、と。理由はわからないけど、ふしぎとそう思った。

藤田 『シン・エヴァ』で完結しないで、三週目に突入してもいいんじゃないですか?w そういうことはありそうですよね。
 『Q』の世界より、『シン・ゴジラ』の世界の方がマシなのは、守るべきものがちゃんとあることなんですよね。『Q』の後はそれがないので、マジでキツい。作れるのかなぁ……。
 そういえば、ゴジラ世界で何度も繰り返し問題になっているのは、メカゴジラなんですよ。ゴジラから作ったりしていて、『メカゴジラ』は何度もリメイクされている。ゴジラから作る人造兵器といえば……エヴァの元ネタですよね、これは。
 だから、ゴジラ映画のアキレス腱ともいえる「メカゴジラ」問題に切り込む形で『シン・エヴァ』をやって、戦後日本のサブカルチャーの総括的な内容を作ってくれたらと期待しています。

飯田 僕はゴジラとエヴァはくっつけなくていいと思っていますが……。ゴジラはゴジラで、庵野さん路線ともまた違うものでもちろんいいので、誰かに何年かに一本でいいからつくってもらえたらうれしいし、庵野・樋口で何かしら特撮をまた作ってもらえたら最高だし。『シン・ゴジラ2』は蛇足になるからやらないでほしいですけど。
『Q』との比較で言うと『シンゴジ』の結末に話を戻すと、全世界を滅ぼすのは『Q』でやっているから、やっぱ『シン・ゴジラ』ではやらなくてもよかったんだよ。

藤田 そうですねw エヴァでは世界滅ぼしちゃったけど、現実のカタストロフを見たあとでは、ゴジラに世界を壊滅まではさせないで止めた。それは成長なのかもしれません。中盤以降、エヴァだったらもっとエスカレーションして『Q』や『EOE』になってただろうけど、今回は、ちゃんと「壊さないで、守る」方を描いた。そこが偉かった、成長したともいえるけど、でもよく考えたらエヴァの前半もそうだったような…… っていう、循環に迷い込まされるようにできている(ヤシマ作戦≒ヤシオリ作戦)。よくできた作品ですよ、本当に、憎らしいぐらいw