ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。映画『シン・ゴジラ』について語り合います。

『シン・ゴジラ』をネタバレ全開で語る!



藤田 今回は『シン・ゴジラ』です。最初に言っておきますが、ネタバレ全開で行くので、嫌な方はページを閉じてください……。
 さて、もう色々な人が色々な論を言っていますけど…… まずぼくの初見の感想は「恐るべき大傑作」。日本映画のレベルを一気に変えた大傑作でしょうし、怪獣映画という日本特有のコンテンツの真価を発揮した一作だと思います。映像、編集、リズム、野心、音楽、何をとっても、レベルが違う。庵野監督は本当に天才なんだなと思いました。ゴジラそのものの神々しさ、恐ろしさ、そして自衛隊の迎撃作戦のリアルさ、その辺りが、もう端的に興奮してゾクゾクする。
 その前提の上で、しかし、緊急事態において国民やエリートが一致団結し、技術力などで民間企業なども協力して、勝つ、「日本スゲー」映画であり、ナショナリズムを高揚させたり、緊急事態への理解を高めるという「効果」を結果として持つ国策映画的な側面も見逃せない。複雑な感情になる映画でした。
 あらすじは、ゴジラが東京を襲ってきて、日本政府と戦う、というそれだけです。日本政府側で、大量のキャストが矢継ぎ早に出てくるのも、本作の魅力ですね。政治家的・官僚的にゴジラへの対応を描く丁寧さ。そこに笑ってしまいましたよ。ゴジラに撃っても良いのか自衛隊のパイロットが訊くときに、何人経由するんだよw 的なブラックユーモア作品でもありますよね。

飯田 自衛隊が攻撃しようと思ったら避難民が残っていたので撃てずに断念、っていうシーンは、福島第一原発でベントしようと思ったら直前で「まだ退避してない住民が確認されたからストップ!」と言われて(ベントすると放射性物質が大気中に出るので住民がいるうちはできないと判断)いったんやめたことを踏まえての演出でしょうね。現実にはそんなこんなで手間取っているあいだにメルトダウンしたし、『シンゴジ』では巨大不明生物が第三形態まで進化しちゃったと。

藤田 一作目のゴジラは核兵器の暗喩なのは有名なんですが、今回は東日本大震災と原発事故の暗喩であることを、思いっきり隠しもせずに出してきますね。ゴジラ映画は『ヘドラ』で公害問題、『ミレニアム』でもインターネットやY2K問題を暗喩として取り込んで、成功しているときと成功していないときがあるんですが、今回は成功した。東日本大震災と原発事故を扱ったことで、迫力が出た。しかし、そこに問題性も出てくる……。

飯田 僕は全然ブラックユーモアではないと思ったけどね。現実に存在する手続きを可能なかぎり再現しただけで。取材に取材を重ねたリアリティによって逆説的に「現実」のエグい点を浮かび上がらせた、とは思いますが。

藤田 だとすると、現実そのものがブラックユーモアに近いということを描いていたということになりますね。そういう映画だと思います。

震災後文学の傑作としての『シン・ゴジラ』



藤田 ところで、震災後文学として本作が傑作だと飯田さんはYahoo個人の記事で書かれていましたが、確かに東日本大震災を描いたフィクションの中で本作はひとつの代表作といわれてしかるべきでしょう。
 『ゴジラ』は、初代が、核兵器の投下、空襲、第五福竜丸事件などなどの、日本が蒙った巨大災害を象徴化したような映画でしたが、ゴジラというのは、日本に起こった巨大な災害と向き合ったときに真価を発揮する特殊なコンテンツだということですが、その意味で、今回は見事に成功していましたね。そして、だからこそ、「現実」との関係でねじくれたテーマ読解や批評をしなくてはいけなくなるという、ややこしい構造になっているわけですが……。まずはその辺りの、大枠というか、社会や現実に中におけるこの『シン・ゴジラ』という虚構の意義や文脈から確認していきましょうか。

飯田  2016年にもう一回「3・11って何だったのか」を問い直したものでありながら最上のエンタメをやり抜いた作品です。この作品では震災のときの官邸や自治体、自衛隊の動き、米国からの接触等々を相当踏襲しています。震災および震災後シミュレーションした作品っていっぱいあるんだけど大半はヌルかった。『シンゴジ』は単なるシミュレーションに留まらずにその先の恐怖とヴィジョンを示している。

藤田 ちょうど、平成ガメラで助監督をやられていた佐藤太監督の『太陽の蓋』っていう、原発事故のときに官邸側がどう動いていたのかを描いた映画が、2016年の7月に公開されているんですが、比較で見てみるといいかもしれませんね。「怪獣映画」という文脈において、対応する組織の側を緻密に丁寧に描くという方法は、明らかに新鮮でしたね。一方的に被害に遭う側を手持ちカメラで描いた『クローバーフィールド』の発明の衝撃を思い出します。その手があったか!と。
 
飯田 『シンゴジ』では「怪獣」という言葉は一回も使っていないけどね。『シンゴジ』では終盤、コンクリートポンプ車が大活躍しますよね。あれは現実の3・11でもそうで(ついでに言えばチェルノブイリのときもそうで)、東電が世界中から買いまくって福島第一原発を収束させた。あ、『シンゴジ』と同じく中国(北京)からも調達しています。福一を収束させる、ほとんど最終手段だった。原発に注水しまくって、冷やして。現実には無人だったみたいですが、『シンゴジ』は有人で動かしているっぽいのが違いですかね。そういう意味で『シン・ゴジラ』のコンクリートポンプ車のシーンは震えます。「は? あんなんで……」って思うかもしれないけど、現実も「あんなん」で原発を冷却したからあのていどで事故が済んだし、けっこうギリギリのギリギリだったことまでいっしょなんですよ。

藤田 ぼくも原発事故のとき、映像で見ていましたけど、確かにそうでしたね。でも、あのときは、自衛隊が空中から水を撒いたりとか、なんか間抜けな印象だったんですけどね。映画の方がカッコいいw

飯田 いや、自衛隊がヘリで水撒いたからだいぶ温度が下がったんですよ。それまでは消防車だからね。消防、警察も事態の収拾にあたっていたけど装備的にもルール的にも限界があって、自衛隊がいなかったら福一は本当にやばかった。

現実の人間との対応関係



飯田 矢口がカヨコに「アメリカは大統領が決める。日本は誰が決めるの?」って言われているけど、ああいうことは政治家たちが米国側から実際言われています。誰が意思決定するんだ、って。
 主人公・矢口の造形は、ポジション的に同じ福山哲郎官房副長官と細野豪志首相補佐官(菅直人首相が東電本店に作らせた原発事故の対策統合本部の事務局長であり、アメリカと交渉・協力する日米連携チームの実質的なとりまとめ役)、および福一の吉田昌郎所長を合体させたようなキャラクター造形と役割を果たしています。あとは、強いていえば「このままだとこの国はなくなる」「命かけてやるしかない」と腹くくって檄を飛ばしまくったところは菅直人も入っているかもしれません。

藤田 なんと、『シン・ゴジラ』は国策映画や右傾エンタメではなく、民主党万歳映画だった!?w

飯田 民主党かどうかはどうでもよいです。東電は民主党関係ないですし。
 上司にもずけずけものを言い、最悪のシナリオを想定して現場で陣頭指揮をとるところは吉田所長、政治家まとめてアメリカとネゴするところは福山・細野、政治家として未熟でブチキレまくるんだけどそのおかげで他の人間に火を付けたところは菅直人。もちろん、現実の彼らはそれぞれに問題も限界もあったわけですが、フィクションではきれいなところだけ合体している。髪型は細野豪志っぽいですね。あと外国人顔の女になびくところ。ちなみにヒラリー・クリントン国務長官も当時、日本に来たことがあるので「将来の大統領候補」カヨコは普通に考えればヒラリーでしょうね。
 原発事故のあとで「日米安保使って米軍に片づけてもらおう」とかぬかした政治家がいて「日本人がやらないとダメだしむり。米軍はあくまでサポートしかできない」って幕僚監部にたしなめられているのも震災後の資料に出てくるけど、巨大不明生物をめぐる官邸のやりとりにもまんまそういうのがありましたね。

ゴジラと日米関係


藤田 今回のゴジラは、所詮はエンターテイメントで怪獣映画だから、東日本大震災や原発事故は「関係ない」って言う人もいますけど、様々な証拠から、東日本大震災と原発事故を想起させるように作っていることは、間違いないですよね。全体も、なんとか冷温停止した原発とこれからのぼくたちは共存しなければいけないというメッセージ。あの事故と後始末でうんざりして鬱になっているとこに喝を入れてくるような映画ですね。
 現実との対応で言えば、福島の原発は、日本とアメリカで共同で作ったので、今回のゴジラの生まれが日米の両方に由来しているのは、いいところに踏み込んだなと思いました。戦後から、現在にまで、原子力政策にまで及ぶ日米関係、「戦後は終わらない」問題に踏み込んだのは、「単なる娯楽」とは切り捨てられない勇気を感じました。
 初代ゴジラは、原爆というアメリカの攻撃を受けた結果の産物(として象徴的に解釈できる)感じでしたが、原発のメタファーも抱え込んでしまったので、日本は「被害者」ではない。生み出した人間でもある。そのことは、冒頭の博士の書き残しと、ラストのカットから推測されます。自分達が生み出してしまったものと、自分達が戦うという、非常に現代的な「危機」との戦いですよ。

飯田 いや、『ゴジラ』シリーズはずっと「人間が生み出したものに人間が襲われる。そして(基本的に)勝てない、対処しきれない」ということを描いてきていますし、それが根幹のひとつにあると語っているスタッフもいます(『ゴジラのマネジメント』などを参照)。もちろん、原爆と原発ではそもそも目的が違いますけど。

藤田 「未来」や「平和」のためによかれと思って作った原発という、外交と国策とテクノロジーが生み出したものを、外交と国策とテクノロジーでねじ伏せる。危機の解決が、危機の原因と循環している。そういうタイプの脅威を今回は描いていた、そこを評価したい。
 ちなみに、エドワード・ギャレス版のゴジラでも日本の原発事故を扱っているのだけどあれでゴジラが日本から、平和条約を結んだサンフランシスコを襲いにいくのも、なかなか日米関係のねじれを象徴していて、嫌いではなかったですね。ギャレス版の『ゴジラ』も、ハリウッドで、日本の原発事故を題材にした社会派ゴジラを成立させようと、『ゴジラ対ヘドラ』の坂野監督がすごく頑張ったので、ぼくは嫌いな作品ではないです。
 あっちのバージョンでは、核実験はゴジラを倒すために行われていたのだという歴史改変(笑)が行われていましたが。

飯田 ギャレゴジ、『シン・ゴジラ』観るまでは「いいじゃん」と思っていたけど『シンゴジ』のあと見直したら非常にかったるかったw また時間が経ったら見え方も変わるんだろうけど、今の時点では。

藤田 『シン・ゴジラ』、他には、どの程度現実が反映されていますか?

飯田 巨大災害のときにいちばん頼れるのは自衛隊ってところでしょう。福一も消防、警察はルールとかで動けず、福一の現場の約七十人(「決死隊」と吉田所長が呼んだ人たち。ちなみに現場の東電職員六百数十人は苦渋の末、避難)と自衛隊で収束させたわけですが、自衛隊いなかったらまじ日本終わってましたからね。いざというときケツもってくれるのは自衛隊だけだと菅も細野も原発事故対処にあたった政治家は当時みんな言ってました。

藤田 現実との対応を強調されると、原発については、ぼくは、そもそも、あの炉は構造的欠点もわかっていたんだし、危険性も指摘されていたのだから、廃炉しとけよって立場なので、ちょっとむしろ白ける部分もあるんですよね。アメリカ用に設計されたものだから、津波に弱いのは分かっていたし、本来廃炉にするべき時期を過ぎていたし、かなり警告されていた。

飯田 911のあとに「原発テロやべえぞ。とくに電源が落ちたらアウト」ってNRC(アメリカ合衆国原子力規制委員会)が言い出してアメリカでは対策が練られるようになり、「日本も対策しろや」ってさんざん言われていたのに電源対策をスルーした結果、福一では津波を喰らって冷却機能が死んでメルトダウンしたわけだからね。吉田所長もスルーしたひとりです、フェアに言っておくと。

藤田 それを無視したせいで起きた事故なので、そもそも起こさないで済んだ人災だと思っているんですよ。メルトダウンに対処した行為は英雄的で崇高な行為に見えるけど、その原因はしょうもないセコい人災というか、政治的意思決定のダメさですよね。それを考えながら『シン・ゴジラ』を見ると、複雑な思いもします。必要のない空騒ぎマッチポンプを見ているような喜劇性もありますよね。
 もちろん、そんなことは当然織り込んでいるだろう、と思うほどには、作り手たちを信用していますよ。

飯田 日本の組織はベースがぐだぐだ、という点に関しては作中前半部分で強調されているとは思います。
他に現実と対応しているのは、「ゴジラに核兵器落としたら事態は収束するかもしれないけど関東圏に人が住めなくなる」というやつ。現実の原発で「福一がアウトになったら福二もアウト……みたいに原発が連鎖的に爆発、東日本に人が住めなくなって3000万人の避難が必要、日本は北海道と西日本に分断される」という、当時考えられていた最悪のシナリオを踏まえたものでしょうね。
 首相が使うヘリが自衛隊のスーパーピューマというのも現実といっしょですね。菅直人はそれで福一に乗り込んだ。『シンゴジ』ではゴジラにぶっ殺されるわけだけども、あのとき菅直人が死んでおいたほうがもろもろ混乱しなくてよかったんじゃないかと言っている映画にも見えますが。

藤田 そうかなぁ(笑)

飯田 閣僚11人が一気に死ぬという展開には「老害が一掃されたら気持ちよく仕事ができるのに」という願望が明確にあるでしょう。あそこは全然現実的じゃないと思ったし(リアルワールドでは老害に退いてもらうのはほとんど不可能)、作中ではあそこからゴジラおよび国際社会との戦いはあるんだけど、内敵がいなくなるんですよ。意思決定の主体が矢口たちになるので話がはやくなる。それによって「これ、ムリゲーじゃね」感が一段階下がっている。

中編記事に続く