芥川賞候補作から受賞作を予想 現代日本文学は「死者と主体」を描く 

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ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編記事に続いて「第154回芥川龍之介賞」の受賞作を予想していきます。

身体と歴史――松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」


藤田 松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」行きますか。これは、マッサージの話ですね。揉んでいるうちに、揉んでいる人と揉まれている人の記憶や主体が混濁して身体を通じて何かが伝達されたのか歴史的記憶なのか妄想なんだかわからない世界が展開する。文体のリズムがよくて――身体的で、ユーモラスで、完成度が高い一品です。
 記憶なのかなんなのか曖昧な世界では、第二次世界大戦か何かの「戦争」が起きていて、そこで引き金を引いてしまう理由が、身体の物理的な凝りでしかない――という、悲劇の引き金の即物性が、本作の現代への批評性でしょうか。

飯田 いちおう患者とやりとりする医者の視点から断章形式で進んでいくんだけど、なぜか施術をされているおじいちゃん側の記憶が流れ込んできて盧溝橋事件がどうたらとか言い出すサイコメトリー小説w

藤田 西洋医学vs東洋医学、の基本的な考え方の違いの話もありますよね。東洋医学的な考えを一挙に捨てたことが、悲劇を招いたと言っています。それは、第二次世界大戦に至るまでの日本の近代=西洋化の経緯と重ねているんですよね、多分。

飯田 松波さんはフレーズの奇妙な反復をよく使う作家ですが、今回は心臓をはじめとする生物/医学ネタですから反復・循環もマッチしていた。もっとも、好き嫌いが分かれる、読むひとを選ぶ書き方ではあるけど。血液の比喩も使っているし、「ホモサピエンスの瞬間」じゃなくて「ホモサピエンスの循環」という感じで長編にしたものを読んでみたい。膨らませたほうがおもしろそうな着想。

藤田 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』みたいな長編にできそうですよね、身体と歴史の暗喩を重ね合わせて。

飯田 長編にしてほしいと思った、というのは、言いかえると「この長さではモチーフを展開しきれていないのでは?」と物足りなく感じたとも言える。もうちょっと突っ込んでほしかった。読みはじめたときの期待や感じたおもしろさからすると、食い足りない。

藤田 文体――文の「体」というやつで、小説にしかできない時空間を生み出しているという点では、ぼくは松波太郎氏を高く評価します。そして、それが身体、遺伝子の問題とリアルに――実生活的にもリアルに――食い込んで、かなりドライブが掛かってきているので、今後、どんな小説的展開を見せてくれるのか、期待ですね。
 松波太郎さんは、2013年の下半期に「LIFE」という作品で芥川賞候補になって、野間文芸新人賞を獲っているのですが、染色体異常の子供が生まれる話で(本来二本のが、三本あるトリソミー)、そのときに、原因として「放射能」や「原発」のせいじゃないかと、ほんの一瞬、問うんですよね。あのさりげない言及がいいなと思った。
 長編にも是非チャレンジしてほしいですね。大きなものを背負った作品を、書けると思う、というか、書く気あると思う。

飯田 ただ、変わっているので(しかし文学史的な蓄積を露骨に見せるタイプの前衛とか実験というふうでは必ずしもないと思うので)、「保守」のおめがねにかなうかどうかはあやしい。でも芥川賞関係なく、いてほしい作家です。

藤田 オリジナリティもあるし、文体も軽やかでユーモアもあるし、読みやすい小説だと思いますよ。内容の難解さと比べて、文体が気持ちよくてすぐ読める。受賞に値する実力のある作家であるし、作品です。

男子二人がよくわからないと評価不能に陥る――本谷有希子「異類婚姻譚」



藤田 さて、次は本谷有希子「異類婚姻譚」、ぼくはこれ、よくわからないw
 いや、旦那のうんざりするような動物的な感じにいらつく部分は充分にわかるんだけど、それがこういう寓話になっているのはよくわからない。殺して埋めたっていう話かな? 

飯田 本谷有希子さんの「異類婚姻譚」は民俗学っぽいタイトルですが、自分とダンナの顔がそっくりになる(夫婦が似てくる)という導入にはじまり、さいごは嫁がダンナに「山の生きものになりなさい」「好きな形になりなさい」って叫ぶとマジで人間じゃなくなっちゃっておしまい。「は?」と思うオチ。

藤田 もちろん、日本近代文学は、男の目線から妻を描くのばっかりなので、妻の目線から夫を描く作品はあるべきだし、そういう作品が蓄積されていくべきなんだけど、これは内容的にも仕掛けとしても、驚きがなかった。けど、それはぼくが男だから、ジェンダー的に「あるある!」「それを言葉にしてほしかった!」って感じないせいなのかもしれない。それはわからないw

飯田 タイトルにある「異類婚」は昔話によくある、人間と人間以外が結婚する話のことだけど、結婚してずいぶん経ってからダンナが人間じゃなくなっちゃったということなんですかね。
 主人公の女性が付き合った男の影響を受けやすいタイプで「誰かと親しくなるといつの間にか似ちゃう」みたいな設定は「あるある」感はあるけど、だからなんなんだろうか……。

藤田 でも、奥さんがこういう風に感じていたらと思うと恐ろしくないですか?w

飯田 いや、持ち家があるダンナと暮らして嫁は働いてない時点で「いや、文句つけんならせめて働けよ」とw

藤田 今風w

飯田 本谷さんはもっとおもしろい作品、いい作品を書けるし書いてきた作家だと思うので、これで間違って獲らないでほしい。

藤田 ぼくは、もうちょっと違って、ここに描かれているダンナの悪いところに思い当たる節があるので、「すみませんねぇ……」って思いながら読んでいましたよw

飯田 こんなの子どもいない夫婦のたいしたことない悩みだよ、とドヤりたくなったけどそんなこと言ったら多方面から怒られそうなので何も言えないですね。

総評――現代日本文学は、「死者と主体」を描く


藤田 さて、総評的な話をしますか。ぼくの本命は滝口悠生「死んでいない者」、松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」。上田岳弘「異郷の友人」と加藤秀行「シェア」は、新味があるという意味ではまだ良いが、前二人のキャリアと実力と比べると、ちょっと落ちる。未知数なところが大きすぎると思う。

飯田 共通(?)するものとしては、死者と主体の扱いをどうするか、どういうものとして、いかに表現するか、というところでしょうか。ヘタに「いかにも」な現代性を出そうとしてもうわすべりしてしまうのが文芸誌という器なのではと思うので、古典的かつ重たい、死者や主体なるものに真摯に取り組むのがやはりいいのかも。

藤田 死者と主体のテーマは、今の純文学のメインテーマと言っても良いと思います。やはり、時間が経過しているとはいえ、間接的に、東日本大震災の影響を感じますよ。死者をどう受け止めるかとか、「個」の輪郭が曖昧になって「つながり」が再編成されたこととかが関係あるのかな、って勝手に思っています。……東日本大震災に即座に対応できたジャンルは、映像や美術などでしたが、文学は、フットワークが重い分だけ、重くゆっくり受け止めて、その結果が今になってじわじわ出てきているのかなと思いましたね。それは文学や言葉の性質の持つ、遅くて重いことのポジティヴな価値が発揮されるようになったという意味ですが。
 もう一つ、傾向としてあったのが、「記憶混濁もの」というか。時間の感覚が壊れた感じの作風も多かったんですよ。認知症や走馬灯のような枠組みが使われることが多かったですが。

飯田 記憶も主体のありようと関わる要素ですね。しかし、エンタメ的な「明確な動機を持ち、悩みながらも主体的に意思決定し行動を起こす」というもの"ではない"、純文学だからこそ描ける主体があるのだとしたら、もう少し先が見たい(深く掘ってほしい)。

藤田 又吉直樹さんや羽田圭介さんのような、メディアで活躍する二人が受賞した前回と比べると地味かもしれないけれども、「文学とは」みたいなテーマに辛抱強く向かいあった作品群が多いので、重要な回ではあると思いますよ。

飯田 死者の問題は、もちろん震災のこともあるだろうし、高齢化社会ということもあるし、高度医療化社会ということもある。しかしそれらを生煮えのまま拾ってきて扱うよりも、やはりクリシェを排した切り口での取り組みが読みたいですね。

藤田 普遍的なテーマだからこそ、パターンに陥りやすいわけですからね。
 既存の言葉、物語、認識にないものを形にしていくことこそが、純文学の使命の一つだと思うので――マスメディアや既存の「物語」には乗らない感情や思考の機微を描けるのが、文学の良さなので、その使命は充分に担っている現代作家がたくさんいるし、これからにも期待できるのではないかと思っています。

飯田 今回の候補作である加藤さんの「シェア」と石田さんの「家へ」は対極のようでいて、今っぽい「イメージ」と田舎の「イメージ」をどこかなぞっていてそこからさほど逸脱していないという点では表裏。そうじゃないものが見たい。

飯田 「未曽有の経験」をした人たちが、それを言葉にするのは、きっとこれから先、時間がかかるはずなんです。震災だけじゃなくて、超高齢化社会とか、情報化社会とか、未知の経験がいっぱいあるわけですからね、現代には。
 ぼくらの知らない、感じたことも認識したこともないことが、これから発せられてきて、共有されていくきっかけのひとつの場に、文学はなりうるんじゃないでしょうか。……読み取るのが難しかったり、エンタメのように楽しくはないとしても、そういう声に耳を傾けておく意味は充分にあると思います。

飯田 「ホモサピエンスの瞬間」には「はみ出し」を予感させるものがいちばんあったけど予感にとどまっていたので、期待を込めて「もっと書いてよ!」と思ったのでした。

藤田 松波、滝口作品には、はみ出しの予感が充分に漲っていますね。既存の認識や言葉を更新することのない純文学なんてのは、単に「つまらない」だけなので、その役割は失わないで欲しいと、個人的には思っています。