テニスを「文化」に 伊達公子が語る日本テニス界への危惧と錦織圭への評価

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先日、約2週間にわたる全豪オープンテニスが幕を閉じた。男子シングルスの優勝はジョコビッチとなり、期待された日本の錦織圭はベスト8に終わった。
ベスト8を残すことは無論素晴らしいことであるが、優勝もと期待していたファンにとっては、悔しさが残るとともに改めて「世界」の壁を実感した大会となった。

さて、そんな世界を舞台に奮闘する錦織のおよそ80年前、日本テニス男子史上もっとも「世界」に近づいた選手がいたことをご存知だろうか。

その男の名前は佐藤次郎という。
彼の世界ランキングの最高順位は世界3位であった。この時のテニス界はまだオープン化前(プロ選手の出場の解禁前)とはいえ、錦織が現在5位であること等を考えるといかに凄いことかよく分かる。
そのランキングの実力どおり、佐藤は4大大会で5回もベスト4という成績を残し、伝説的な選手として知られるフレッド・ペリーに勝利したこともある。

その佐藤は、テニスをよく知る者からは「伝説」と呼ばれているが、それは成績以外にも彼の悲劇的な最期が理由に挙げられる。
選手として絶頂期を迎えていた1934年、デビスカップ(現在も実施されている男子テニスの国別対抗戦)に向かう途中で、船から投身自殺をし、26歳の短い生涯を終えたのだ。

この投身自殺の背景は「さらば麗しきウィンブルドン」によると、デビスカップでの成績やそれを受けてのテニス協会の対応が一因となったのではと考えられる。
佐藤はデビスカップでの成績があまり良くなかった。「国」を背負って戦うという意識が今と比べ物にならないほど強かった当時において、国別対抗戦に当たるデビスカップのプレッシャーは相当なものだった。
そのプレッシャーの影響か、佐藤はデビスカップの前には必ず神経性胃腸痛に悩まされ、本来の実力を発揮できないでいた。さらに追い討ちをかけるように、当時のテニス協会は成績を残せない佐藤に対して"弁解の余地がない"、"実に醜態"などと面前で批判している。佐藤の試合の結果が協会の資金にもろに直結する背景があるにしろ、あまりに常軌を逸する発言だ。このような協会の態度や過度な期待、デビスカップへのプレッシャーなどによって佐藤は次第に精神を病むようになり、自殺に繋がってしまったのだろう。

ところで、このような昔のプレイヤーを知ることの大切さを説く人物がいる。ウィンブルドンベスト4という好成績を残した伊達公子だ。彼女は「Number」(文藝春秋)での金子達仁とのインタビューで語る。
内容を簡単に紹介すると、ヨーロッパでテニスが強く盛んなのは、テニスが「文化」になっているから。その一方、日本ではまだ「文化」として根付いていないと主張する。文化になるためには、テニスの歴史をよく知ることが重要だと語る。例えば、先述したフレッド・ペリーや佐藤次郎などの過去の名選手たちについて知ることだ。
彼女がテニスが「文化」として日本に根付いていないことを危惧する理由は、錦織がきっかけとなって巻き起こっているテニスブームが一過性で終わるのではないかと心配からだ。かつて、伊達公子自身が全盛期のときに起きたテニスブームが彼女の引退後、すぐ終わってしまったように。
また、伊達は「ため息ばっかり」と試合中に叫んだことが騒動となった。日本での試合中、伊達のミスで失点した後に観客からため息が漏れたことに際して発せられたもの。この件の真意に関して、伊達は「ため息が出ることは選手に感情移入しすぎだからだ」と語る。観客もまた、選手とともに「テニス」という劇場の担い手だという意識が薄いという主張は、テニスそのものというより、錦織圭自体のブームになっている今の日本での現状に一石を投じるものだろう。そして、ため息がなくなれば、日本でテニスは「文化」に近づくと語る。

最後に、世界ランキング4位にまで登りつめた経験を持つ伊達は錦織のことをどう評価しているのだろう。伊達は新たなショットを簡単に習得してしまう錦織のことを「天才」と称している。
また、錦織は伊達公子のみならず、松岡修造にも天才と絶賛されている。そんな名選手たちから手放しの賞賛を受けている錦織は世界5位として今シーズンを戦う。佐藤次郎、そして伊達公子でもなし得なかった日本人初の4大大会優勝達成を、テニスを「文化」として捉えることを意識しながら応援したい。
(さのゆう)