実はナベツネ殿をそれなりに評価していた。
没個性的な人物が大半を占めるNPBの現場およびフロントにおいて非常に得がたいキャラだからだ。
とかく出る杭にならぬことをもって良しとするこの国のビジネス(だけではないが)風土において、あそこまで「暴君キャラ」をメディアを通じても貫ける人物は稀だ。

(読売グループ以外の)ブン屋さん(死語だ)が望むような、越権行為的発言を(誘導通りに)繰り返し、われわれファンを楽しませてくれる(オレは不快だ!と言う方もいるかもしれない。しかし、ファンを不快にさせても、ファンの感情を引き出すという点で楽しませてくれているのだ。逆説的だが)。

ある意味では、超一流選手並みいやそれ以上に、「自分の役割を知り尽くしている」。
いまやNPB有数のエンタテイナーと評して良いだろう。

しかし、今日は心底失望した。
もちろん、今朝の読売新聞における「キヨタケの乱」への批判記事である。
基本的に私は、「ナベツネVSキヨタケ」は私怨に基く個人間の戦いであると認識している。
事の発端であるキヨタケ氏の鉾先は、読売新聞や読売巨人軍にでは無く、ナベツネ殿個人に対して向けられていると承知しているからだ。
最後まで、個人としての知力/財力/人脈を駆使して戦って欲しい。
したがって、今朝の朝刊も記事ではなく、ナベツネ殿個人の私財を投じた広告として展開されたのであれば、私は「あっぱれ!」と心の底から彼のフトコロの深さを賞賛したであろう。

ところが、実態は「記事」だった。
しかも法人としての読売新聞グループからの反論である。
ナベツネ殿は代表権を持っているのだから、「彼個人への批判は法人への批判だ」というのが読売側の論拠だろうが、それは違う。
キヨタケ氏が戦いを挑んでいるのはあくまでナベツネ殿であることは明白だからだ。
これは「コンプライアンス」を超えた「ケンカのルール」違反だろう。

さらに言えば、ジャーナリズムとしての読売新聞にも大いに失望させられた。
私の知る限り、読売新聞の紙面を広告等で1ページ(業界用語で15段と言う)買えば、ン千万円するはずだ。
それを経営者1個人の私怨をはらすために使用するということが、社会モラルとして許容されるのだろうか?

いや、仮にこの一件が単なる個人間のケンカではなく、記事で取り上げるべき事件であったとしてもここまで大きく紙面を割くに値することだろうか?
日本中、世界中で多くの重大事件が日々起きている。
それなのに、12月6日の読売新聞ではたかが「ナベツネVSキヨタケ」の痴話ゲンカ以上に大々的に取り上げられた事件はなーんにも無いのだ。
これが「東○ポ」なら理解も出来るが。
これでは、ジャーナリズムとしての任務を放棄していると言われても仕方ないだろう。

ちなみに私はこの文章をカイシャのPCを使って、昼休み時間に書いた。
これも立派な「コンプラ違反」だろうが許して欲しい