古代ローマ時代からひもとく、北アフリカのベルベル人の来歴 [橘玲の世界投資見聞録]
モロッコで出会ったベルベル人のガイド、ヨセフの話を2回にわたって書いた。
[参考記事]
●空前の観光ブーム・モロッコで5カ国語を操るベルベル人ガイドが生き残るための才覚
●モロッコのベルベル人たちが日々直面する「支配」と「被支配」の構図
ガイドのヨセフは、がっしりとした体格の中背の若者で、ナポリやシチリアなど南イタリアのひとたちとよく似ていた。世界遺産であるカスバ(城砦都市)、アイト・ベン・ハッドゥを案内してくれたガイドは同じベルベル人でも、明らかにアフリカ系(黒人)だった。それでも彼らは、お互いにベルベル語で会話し、ベルベル人と名乗った。
ベルベル人はモロッコとアルジェリアを中心に、エジプトを除くサハラ以北に暮らす原住民で、総人口は1000万〜1500万といわれている。彼らはいったいどういう来歴を持っているのだろうか。
バルバロイは、古代ローマの属州の外のひとたち
北アフリカがはじめて歴史の舞台に登場するのはポエニ戦争の頃だから、紀元前260年前後だ。当時の北アフリカはフェニキア人の植民都市カルタゴの支配下にあった。フェニキア人は古代地中海東岸(現在のシリア)に住んでいた海洋民族で、エーゲ海から南イタリア、黒海へと勢力を拡げたギリシア人に対抗して北アフリカ一帯に商業都市を築いた。
当時の北アフリカはサバンナの広がるゆたかな穀倉地帯で、フェニキア人は地中海貿易で富を得る一方、農園開発にもちからを注いだ。当時の地中海世界は奴隷制社会で、カルタゴのフェニキア人も原住民を農園の奴隷に使っていた。
カルタゴの周辺には、ヌミディアやガイアなどさまざまな部族が割拠していた。彼らは馬を操る騎兵で、カルタゴは戦争になると彼らを傭兵として軍を編成した。
古代ローマ共和国との二度のポエニ戦争によって紀元前146年にカルタゴが滅亡すると、現在のチュニジアにあたるこの一帯はローマの属州に編入され、「アフリカ」と呼ばれるようになる。その後、ローマ帝国の拡大にともなってエジプトを除く北アフリカ全体が「アフリカ」になり、近代以降は大陸全体を表わすことになった(アナトリア半島からペルシアまでの地域を指した“アジア”が中国や日本まで含むようになったのと同じだ)。
第二次ポエニ戦争では、北アフリカに侵攻したローマ共和国の将軍スキピオ(「アフリカの征服者」の意味でアフリカヌスの尊称を得た)にヌミディア騎兵が協力し、カルタゴ滅亡後はローマの同盟国となった。同盟国の住人は「バルバロイ(野蛮人)」ではなく、彼らはヌミディア人と呼ばれた。このヌミディア国は紀元前46年、共和国ローマの内乱で元老院派についたためカエサルによって滅ぼされ、ローマの属州に編入されることになる。
帝政ローマ時代の北アフリカは、大きくエジプト(東部)、アフリカ(中部)、マウリタニア(西部)の3地域に分かれていた。マウリタニアは「西国」の意味で、そこで暮らすひとたちがマウハリム、すなわちムーア人だ。エジプト人、アフリカ人、ムーア人はローマ帝国の住人なので「バルバロイ」ではない。
ローマの支配に移っても北アフリカは一大穀倉地帯だった。バルバロイというのは、古代ローマの属州の外側で遊牧生活を送るひとたちの呼称だった。