日本在住者と海外在住者と。

外国に住んでいる知人は「日本にいないでこっちに逃げてくれば」と言う。かなり大真面目な顔で。

片や僕、および日本在住者の多くは、それを聞いても「素直にはいそうですね」とは思わない。報道を見ていると、日本のメディアより海外のメディアの方が「危ない」を声高に叫んでいる。海外在住者の方が、事態を深刻に捉えている様子だが、日本在住者にはそれが少しばかり大袈裟に映る。

日本に渡航していた外国人には、本国から次々と退去命令が下され、すでに多くの人が日本を離れていった。中にはサッカー選手も、野球選手も含まれている。本国にいる家族や親戚の心中を察すれば、これは致し方のない話。「情けない奴だ」と冷笑することはできない。

今回の大震災とそれに伴う原発の事故が、もし外国で起きていたらどうだろう。日本政府も、渡航者に退去勧告を出しているだろうし、屋内退避も、オバマ大統領ではないが半径20〜30キロではなく、80キロに設定しているだろう。

モンテネグロ代表、ニュージーランド代表が来日しないのは当然。日本在住者とは比較にならないほど、彼らは原発の被害を恐れている。少し世界に目を転じれば、それは一発で理解できることだ。にもかかわらず、日本サッカー協会は、キリンチャレンジ杯が中止になっても、チャリティの親善試合ならどうかと、ニュージーランドに誘いの声を掛け続けた。

ニュージーランドも大地震を経験したばかりの国。日本人の命もそこで多数奪われている。日本はそこに緊急援助隊を送り込み、捜査にも協力。両国はいま仲間意識を共有する間柄にある。だが、日本はそれに加えて原発問題を抱えている。国民は放射能に怯える生活を余儀なくされている。こちらはいまだ進行中。大量に漏れ出す危険がある、まさに予断を許さない深刻な状況にある。作業員はまさに命がけ、決死の覚悟で作業に当たっているわけだが、いまスポーツ界を揺るがしている「いまやるべきか否か」の議論を聞いていると、どうもその点の話が疎かというか、欠落しているような気がしてならない。

「自粛は好ましくない」「被災者に勇気を」「沈んでばかりいられない」「スポーツで日本を元気づけよう」と、やるべきだという人は意見する。

昨日発表になった「東北地方太平洋沖地震 復興支援」と銘打つチャリティーマッチ、日本代表対Jリーグ選抜もその延長線上にある発想だ。会場は大阪の長居。計画停電が行われていない場所で行われるのであれば、ナイター照明で膨大な電力を使っても、道義的には微妙だが、実質的な害はない。そうした視点に立てばギリギリセーフのような気もするが、今回の震災はもう一つの問題を抱えている。

地震、津波も怖いけれど、放射能汚染も怖い。もっと怖いものなのかも知れない。いま全世界は、福島原発の復旧作業を、固唾をのむように見つめている。海外在住者は、日本在住者以上に危ないと言っている。少しオーバーじゃないのと言いたくなるほど。

そこで、そのことを特に深刻な事態だと思っていなさそうな人を見ると「海外の人の意見に耳を傾けましょう!」と言いたくなる。

放射線を浴びながら決死の覚悟で復旧に当たっている作業員を「英雄」と称す海外のメディアもある。その多くが、日本のメディアの何倍もの勢いで彼らの活躍を讃えている。

チャリティーマッチは、その活躍を見届けてからでも遅くない。プロ野球もそうあるべきではないか。

日本在住者と海外在住者と。どちらの目線が優れているとか、そういうことを言いたいのではない。要はバランス。海外メディアの報道は、何事においても常に気にとめておく必要がある。人間としてのバランスを保つためにも、意識すべきは逆サイドの視点。本当は日本に最大限協力したかったニュージーランドが、それでも来日を取りやめた理由に真実はある。僕はそう思う。

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