逸材といわれながら、苦悩を続けてきた狩野。飛躍のチャンスとなる08年、その真価が問われることになる

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 2004年冬、静岡学園でプレーしていた狩野健太のもとには複数のJ1クラブから獲得のオファーが届いていた。しかし、03年に続き、04年シーズンもチャンピオンシップを制し、2連覇を飾った横浜F・マリノスへの加入を決めた。その理由はたったひとつ。「強いチームでプレーしたい」というものだった。

 レベルの高いチームは、成長のための刺激に溢れていた。けれど、レギュラーポジションを手にするまでの距離が長いことも痛感させられる。まず第一に自分のサッカーがプレーできない。

「マリノスに入れたたことは、幸運だったと今でも思っています。でも最初の半年くらいは本当に辛かった。とにかく練習中からミスばかりで。僕がミスをすると練習が止まるから先輩からは“またかよ”って空気が流れてくるんですよ。自分の考えるプレーなんて全く出来なかったですね」

 高校時代はテクニックの高さ、広い視野から放たれる想像力豊かなパス……超高校級と多くのスカウトが声をそろえた狩野だったが、代表選手揃いのマリノスでは、通用しなかったのだ。ミスをしないようにと萎縮したプレーではアピールどころの話ではない。

「プレーはもちろん、当時チームはACLを戦っていて、過密日程の中であっても闘志を失わない姿勢など、本当に多くのことを学べました。でも僕はただの見学者みたいな状態で、戦力と呼べるまでにはいかなかったですね。何故あそこでミスしてしまったんだろう。頭で理解していても身体が動かない。いろいろと悩んでしまった時期でしたね」

 たまに試合に出ても、試合の流れに乗れず、残るのは自己嫌悪ばかりだった。自分のプレーの特徴をチーム戦術の中で活かすことの難しさも痛感していた。

「僕が悩んでいると、先輩が“悩み続けてもしょうがない。前に進むことが大事なんだ”と言ってくれたんです。少し吹っ切れました。2年目(06年)途中から監督が代わり、『自由にプレーしてもいい』と言われたこともあって、自信を持ってプレーできるようになってきました」

 けれど、新たな監督を迎えてスタートした07年シーズンだったが、順調とは言えなかった。狩野と同時期に移籍加入した山瀬功治とのポジション争いは続いていた。ベンチ入りメンバーの座をルーキーに奪われることもあった。高卒選手の正念場と言われるプロ3年目を迎えたというのに……前途は多難に思えた。しかし、本人は違っていた。

「悔しいという思いは当然ありましたよ。でも、焦りというのはなかったです。短い時間であっても試合に出たとき、昔に比べれば自分のやりたいことがどんどん出せるようになってきていると感じられていたので。しっかりとやっていれば、チャンスは必ずやってくると考えていたから」

 そして、そのチャンスがやってくる。

 11月4日天皇杯4回戦対佐川急便SC戦。攻撃的MFなど攻撃的なポジションで起用されていた狩野が、守備的MFとして先発。JFLのチーム相手だったが、勝利に貢献。「久しぶりの先発だったので、緊張感もありました。もっとやれる部分があった」と笑顔はわずかしか浮かべなかった。

 そして、続く11月10日鹿島アントラーズ戦でも先発。2−3と敗れたが上位チーム相手に得た手ごたえは大きかった。攻撃面で彼の持ち味が発揮できていたのだ。

「ボランチは結構面白い。自分のアイディアなどを出しやすいんですよ。もちろん課題はたくさんありますけど」

 11月18日ジェフ千葉戦。8月29日以来のホームゲームでの勝利。68分に交代したが、チームの一員として戦った手ごたえはあった。

 その3日後の11月21日、22歳以下の代表による北京五輪アジア予選があり、日本は苦しみながらも北京への出場権を得た。U−22代表の選手の中には、過去代表で共に戦った選手も多い。