【ジャニーズを全米1位に…】死から5年…滝沢秀明が実現したジャニー喜多川の「かなわぬ恋」

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4月15日、世界最大級の音楽フェスティバル『Coachella(コーチェラ)』のステージに3人の日本人青年が立った。

「We are Number_i !」

そう叫ぶと、挑発的なラップのスタイルから激しいダンスナンバーへ。会場が大いに沸く。

圧巻のパフォーマンスだった。

歴史的瞬間を見た、と思った。

あの人は、どう見ただろうか?

コーチェラはアメリカ・カリフォルニア州の南部に広がる大平原である。同じカリフォルニア州の西海岸、ロサンゼルスで93年前に産声を上げた、あの人。John Hiromu Kitagawa……そう、ジャニー喜多川である。

日本の芸能界を変革した伝説の男だ。誰もがその名前を知っているのに、誰もその姿を見たことがない。遂に一度もテレビ画面に出なかった。しかし、生涯ただ一度だけラジオ番組に出演している(’15年1月放送『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』NHKラジオ)。

ジャニーは旧知の蜷川幸雄を相手に気さくに語っている。そうして冒頭、一つの曲をリクエストした。ナレーターが紹介する。

――ここでジャニーさんの思い出の曲をお届けしましょう。世界各国に多くのファンを擁するスターを抱えるジャニーズ事務所ですが、50年前にも全米1位を獲得したかもしれない1曲があったそうです。’64年にレコード・デビューしたジャニーズ事務所の初代アイドル・ジャニーズは2年後の’66年に本格的なダンスレッスンをするためアメリカに渡ります。その時、ジャニーさんの友人である、ドン・アドリシとディック・アドリシ兄弟からジャニーズが歌ってはどうか、と彼らが作った曲を渡されます。その曲を聴いた瞬間、ジャニーさんは「絶対、売れる!」と確信したそうですが、結局、話が頓挫し、翌年、別のグループが発表します。それが、アソシエーションが歌った『Never My Love』。全米1位を獲得した曲です。

そこでジャニー喜多川の発言が紹介された。

「本当はこれ、ジャニーズの曲なんだよ。ジャニーズが全米1位になっていたかもしれない曲」

視線の先には「故国」アメリカが……

もしそうだったら、どうなっていただろう? 歴史の大いなる「if」だ。

『Never My Love』は、その後、フォーリーブス(’72年)、あおい輝彦(’77年)、少年隊(’96年)らによってカバーされている。ジャニー喜多川にとって、生涯の桎梏となった曲なのだ。ことに’13年、A.B.C-Zによってカバーされたそれは、格別のものであろう。

初代ジャニーズの誕生50年を記念した舞台『ジャニーズ伝説』でA.B.C-Zがジャニーズに扮して歌った曲なのだ。時にジャニー喜多川、82歳。死の5年前にして、彼は半世紀も昔の「青春の夢」に回帰しようとしていた。

ジャニー喜多川の87年の生涯とは、何だったのか? 彼はいったい、どこへ行こうとしていたのだろう? 音楽家で批評家の大谷能生はこんな発言をしている(速水健朗・矢野利裕共著『ジャニ研!』<原書房>、’12年刊)。

〈それはジャニーさんが外国人だから。つまりそもそも日本に根付く気がない。恐らく未だに彼は日本のことを外国、もっと言うとアメリカの植民地だと思っている。ジャパンは彼にとってファンタジックなおとぎの国であって、いずれは夢から覚めてアメリカに帰らなくてはならない、と思っているんじゃないだろうか(笑)〉

ジャニー喜多川は、アメリカに帰らなくてはならない! これは暗示的な言葉である。結果的に、そうはならなかった。’19年7月、87歳で死去。東京ドームで盛大なお別れ会が開かれ、さながら「国民的に」追悼された。遂に故国アメリカへと帰還することなく、遠い日本の地で永遠の眠りについたのだ。

その後、いったい何が起こったか?かつての偉大なるレジェンドは、「人類史上最悪の性加害者」と指弾されている。そうして、遂にジャニーズ事務所は消滅するに至ったのだ。ジャニー喜多川が、その生涯の最後にデビューさせたグループ――。それが、King & Princeである。

「かなわぬ愛」の相手とは

’15年春に6人組で結成され、’18年春に『シンデレラガール』でデビューした。メンバーの一人、岩橋玄樹は長期休養の末に脱退する。ジャニー喜多川の死後、岸優太、平野紫耀、神宮寺勇太の3人もグループを離れた。なぜだろう?

メンバーらが海外で活躍したいという夢を持っていたが、事務所サイドによって阻まれたからだといわれている。平野紫耀は退所直前に、最後の公式ブログでこう記した。

〈ジャニーさんごめんねー! 目標届かなかった!! ただできないと言われたら仕方がない!!! もし天国で会ったら怒られるんだろうなー笑〉

しかし、King & Princeを脱退してジャニーズ事務所を離れた3人は、後に合流して他の事務所からデビューを果たす。それが、Number_iだ。

デビュー曲『GOAT』のMVは公開3日で1000万回再生、世界1位を獲得した。iTunesのヒップホップチャートでも、全米トップに輝く。’60年代半ば、初代ジャニーズが歌って全米1位になったかもしれない曲、『Never My Love』。その邦題は、〈かなわぬ恋〉と訳されている。ジャニー喜多川にとって〈かなわぬ恋〉の相手とは、そう、アメリカなのだ。

しかし、それから半世紀あまりを経て、ジャニーの遺伝子を継ぐかつてのKing & Prince、後のNumber_iの3人の若者たちが、遂に〈かなわぬ恋〉をかなえたのだ。そう、ジャニー喜多川の故国アメリカ、生誕の地・カリフォルニア州の輝くステージに立って。誰がそれを実現させたのだろう?

そうだ、あの男だ。5年前の葬儀の日、霊柩車のフロント助手席に座り、ジャニー喜多川の遺影をしっかりと胸に抱いていた。

――滝沢秀明である。

取材・文:中森明夫