フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○買い手を探しに

1928年 (昭和3) 春に商工省から交付された3,500円の発明奨励金も、あっという間に使い果たしてしまった。スムーズには進まない研究、加速する経済上の苦痛のために、もともと痩身だった茂吉はさらに痩せた。[注1] 茂吉は41歳、信夫は27歳になっていた。

実用機製作は完全ではないまでも、おおよその目処がついたと茂吉がかんがえた同年秋ごろには、すでに資金の都合がつかなくなってしまっていた。

困った茂吉は、これまで自分たちの仕事を支持してくれており、印刷界に顔の広い『印刷雑誌』発行兼編集人の郡山幸男に相談してみることにした。

郡山は茂吉から開発の進行状況を聞くと、「なるほど、そこまで進んでおれば、資金調達には、機械の買い手を見つけるのがいいな。共同印刷がいいかな……」そう言って、共同印刷の大橋光吉社長 [注2] あての紹介状を書いてくれた。当時の大きな印刷会社のなかでも、あたらしい機械への投資にもっとも積極的というのがその理由だった。

茂吉は郡山の紹介状をたずさえて、さっそく、共同印刷をたずねた。対応してくれたのは大橋光吉社長と、常務の君島潔だった。

共同印刷 初代社長・大橋光吉 (青潮出版編著『日本財界人物列伝 第二巻』青潮出版、1964 口絵より)

茂吉たちは写真植字機の金額を、文字盤を含めて3,800円と決めていた。大橋は茂吉の話を聞くと、「それは価値ある研究だな。よし、1台注文しようじゃないか」と言ってくれた。そして1台を予約注文すると同時に、全額を前金で支払ってくれたのだ。茂吉たちの研究を援助する意味での前払いだった。[注3]

○「機械道楽」大橋光吉

共同印刷は、1925年 (大正14) 12月26日に発足した印刷会社である。その源流は、明治・大正期に日本の出版業を牽引した博文館。新潟県長岡出身の大橋佐平 [注4] が1887年 (明治20) 6月15日に各界の名論各説を収録した『日本大家論集』を刊行してベストセラーとなり、以降『太陽』『文芸倶楽部』といった人気雑誌をはじめ数多くの雑誌や書籍を刊行し、おおきく発展した出版社だ。

博文館は、さらなる発展のために1897年 (明治30) 6月、自社専用の印刷工場・博文館印刷所を創設した。この博文館印刷所と、大橋光吉が1906年 (明治39) 4月に創設した各種美術印刷 (石版、コロタイプ、木版、写真網目版など) の専門印刷工場・精美堂を合併して創設されたのが、共同印刷である。大橋光吉は初代社長だった。[注5]

茂吉が大橋に会いに行った昭和初期には、共同印刷は凸版印刷、秀英舎、日清印刷とならんで4大印刷会社といわれていた。[注6]

1926年 (大正15) ごろの共同印刷 小石川本社 (『印刷雑誌』大正15年9月号、印刷雑誌社、1926に綴じ込みの広告より)

大橋光吉は「攻撃型」の経営者だった。機械が好きで、大正末から昭和はじめの不況期のあいだも、あえて増設を続けた。[注7] 早くから海外の機械も輸入し、共同印刷の創設前、1925年 (大正14) 4月2日から10月28日までの約7カ月間にかけては、欧米に印刷業視察におもむき、数十社を訪ねている。[注8] すでに50歳を超えていた大橋光吉が半年以上もの超過密日程を消化できたのは、ひとえに機械への熱意と事業人としてのひたむきな情熱あってこそのことだった。

大橋は、「これは」とおもう機械はダース単位で注文した。たとえば、共同印刷は1932年 (昭和7)ごろ、「活字の一回限り使用」を始めたが、[注9] これを実現するには、活字鋳造機をたくさん設置しなくてはならない。そこで大橋は、20数台もの鋳造機を工場に設置して、会社のひとびとをおどろかせた。[注10] 1934年 (昭和9) ごろにはアメリカのミーレー社から高速度二回転印刷機数十台を輸入し、中馬鉄工所にも自動給紙機菊倍判二回転機を1ダース、単色全判機を1ダース注文した。[注11]

ことに新機械には目がなく、あたらしい機械と聞けばまっさきに手に入れた。新機械を買うためなら、惜しむことなく借金すらした。そして〈その機械を愛し、その機械を生かすことに一生懸命だった〉。[注12] 周囲からは「機械が唯一の道楽」といわれ、新機械を設置したときの喜びかたはたいへんなものだった。[注13]

いっぽう、あたらしい機械を増設して旧機械をどけなくてはないとき、大橋は決して他の同業者に売ることはしなかった。「これを売れば、敵に武器を与えることになる」といって、どんな高価なものでもすべて廃棄したのだという。[注14]

ちなみに、1930年 ( 昭和5 ) ごろまでに大橋光吉が共同印刷に導入した機械類のおもなものは、つぎのとおりだ。[注15]

HPストップシリンダー手差活版印刷機 (HPは博文館印刷所の頭文字。この機械は共同印刷で製造販売した)

マリノニ社活版輪転機

ミーレー社2回転活版印刷機 (手動)

中馬鉄工所2回転活版印刷機

ポッター社自動1色オフセット印刷機 (B全判8台、菊全判2台)

ハリス社自動1色オフセット印刷機 (B全判8台)

マイレンダー社手差B判半裁1色オフセット印刷機16台

ローランド社手差B判半裁オフセット印刷機2台

アルバート社自動B全判2色オフセット印刷機1台

アルバート社手差菊全判1色オフセット印刷機2台

フォマーグ社菊全判長巻オフセット輪転機 (6色1台、4色1台)

オグデン社殖版機

ランストン社欧文モノタイプ

邦文モノタイプ

写真植字機 (試作品)

ウェーベンドルファー社1色グラビア輪転機

また、活版部門では書籍・雑誌印刷を主体に設備を充実させ、1932年 (昭和7) にはつぎのような能力を備えていたと記録に残っている。[注16]

ミーレー社 菊・四六全判活版印刷機25台

アルバート社 菊全判活版印刷機10台

ウインズブロー社 菊全判活版印刷機5台

ウインズブロー社 菊倍判活版印刷機5台

マリノニ社 菊・四六全判活版輪転機20台

東京機械製作所 菊・四六全判活版輪転機20台

エリオット社 四六全判活版印刷機25台

HP四六全判活版印刷機30台

HP菊全判活版印刷機20台

フェニックス社 四六全判原色版印刷機8台

ミーレー社 縦型四六全判原色版印刷機2台

 

合計 平台130台、輪転25台

これら155台の印刷能力は、1日平均290万枚だった。

○終生わすれられぬ恩

そんな「機械好き」の大橋社長のところに、茂吉は邦文写真植字機の話をしにいったのだ。まだ世界でどこも実用化に成功していない未知の機械、国内第1号機である。あたらしもの好きの大橋が、ためらいもなく注文を決めた様子が目に浮かぶ。

それまでにも大橋は、優秀な機械を外国から輸入しては広く日本国内の印刷機械製作者に公開したり、多額の資金を投じて技術者に研究させ、国内機を製作させたりしていた。[注17] 邦文写真植字機についても、同様の思いだったのだろう。

じつのところ、茂吉が大橋光吉をたずねた1928年 (昭和3) は、末頃から出版界がやや不況となり、大衆雑誌の廃刊や部数の漸減が目立ってきた時期だった。しかし大橋は、そんな時期だからこそ「新鋭機の採用と優秀な技術がますます必要」とかんがえて、資力の許すかぎり増設に専念していた。[注18] 大橋の「機械道楽」は、つねに明敏な判断力と果敢なる決断力をともなっていた。[注19]

こんな大橋からの邦文写真植字機注文の声は、茂吉を天にものぼるような気持ちにさせた。彼はこのときのことを、つぎのように書き残している。

〈全然従来の印刷技術とは異る尖端的新考案であり、まだ海のものとも山のものとも分らぬ、ほんとの私の研究室の写真植字機に対し、早くもその将来性を洞察し、かつ発明援助の意をも含めて、製作第一機の予約注文をさるると同時に、前金を以て製作費を手交された〉[注20]

これは1928年 (昭和3) 秋のことだった。茂吉に大橋光吉を紹介した郡山幸男の『印刷雑誌』は、昭和3年10月号でこう報じている。[注21]

邦文写真植字機

第一機共同印刷へ売却

 

石井茂吉学士等の邦文写真植字機は、文字板 (ママ) の製作に就て多大の苦心をなしたるため、完成発売の運びに至らなかったが、此程に至り、それもほぼ完成に近づいたので、いよいよ近く発売されることとなり、その第一機は、共同印刷株式会社に売約済となった。恐らくは、オフセット版およびグラビア版の説明文字組版として利用されるであろうと思う。

大橋と君島は、茂吉にとってまさに救い主だった。〈私の写真植字機が世に出る為に、最初の手引をして下さったのは大橋君島両氏〉[注22] 。自分が写真植字機とともにあるかぎり、この恩顧は終生わすれまい。茂吉はそう心に刻んだ。

(つづく)

[注1] 「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931 p.160

[注2] 大橋光吉 (おおはし・こうきち/1875-1946) 兵庫県生まれ。1894年、博文館に入社。同社の創業者・大橋佐平に認められ、三女・幸子と結婚して大橋家に入籍。大垣姓を大橋姓に改めた。1906年、美術印刷の精美堂を設立。1925年 (大正14) 、博文館印刷所と精美堂を合併して共同印刷を設立し、社長に就任した。

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.109-110、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.118-119

[注4] 大橋佐平 (おおはし・さへい/1836-1901) 越後 (新潟県) 長岡生まれ。越材木商の二男に生まれる。地元の町政にたずさわったのち、長岡で新聞を発行。1986年に上京し、翌年、出版社・博文館を設立。大出版社に育てたほか、印刷所 (現・共同印刷) や洋紙専門店 (博進社) 、取次業 (東京堂) なども起こした。

[注5] 『共同印刷百年史』共同印刷社史編纂委員会 編、1997 p.83

[注6] 4社のうち、秀英舎は1876年 (明治9) 、東京・銀座で創業した印刷会社。日清印刷は1907年 (明治40) に設立された印刷会社。両社は1935年 (昭和10) 2月26日に合併し、大日本印刷となる。

[注7]『共同印刷百年史』共同印刷社史編纂委員会 編、1997 p.136

[注8]『共同印刷百年史』共同印刷社史編纂委員会 編、1997 pp.61-63

[注9] 活字の1回限り使用:一度使用した活字を棚に戻さずにスクラップし、毎回あたらしく鋳造した活字をもちいること。

[注10] 石山賢吉 (ダイヤモンド社会長)「大橋光吉氏を偲ぶ」『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.224

[注11] 中馬嘉一 (中馬鉄工所社長)「大橋社長の思い出」『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.283

[注12] 下中彌三郎 (平凡社社長)「日本印刷事業界の大先達だった――大橋光吉さんの霊にかたる」『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.269

[注13] 大野治輔 (二葉社長)「事業の父」『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.233

[注14] 牧治三郎 (元東京印刷同業組合書記)「大橋翁の思い出」『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958p.303

[注15] [注16] 『共同印刷百年史』共同印刷社史編纂委員会 編、1997 pp.138-140

[注17] 『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.86

[注18] 『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.77

[注19] 『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958 p.87

[注20] 石井茂吉「写真植字機――光線のタイプライター――」『書窓』第2巻第5号、1936.3 p.400

[注21] 雑報欄『印刷雑誌』昭和3年9月号、印刷雑誌社、1928.10 p.49

[注22] 石井茂吉「写真植字機――光線のタイプライター――」『書窓』第2巻第5号、1936.3 p.400

【おもな参考文献】

石井茂吉「写真植字機――光線のタイプライター――」『書窓』第2巻第5号、アオイ書房、1936.3

『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969

「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975

『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965

森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960

馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

産業研究所 編『わが青春時代 (1) 』産業研究所、1968

「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926

「写真植字機械いよいよ実用となる」『印刷雑誌』昭和4年9月号、印刷雑誌社、1929

「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』1948年2月号、印刷学会出版部

『大橋光吉翁伝』浜田徳太郎編、共同印刷、1958

『共同印刷百年史』共同印刷社史編纂委員会 編、1997

青潮出版編著『日本財界人物列伝 第二巻』青潮出版、1964

『印刷雑誌』大正15年9月号、印刷雑誌社、1926

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ

※特記のない写真は筆者撮影